慣れない暮らしは色々大変④

 黒曜石のような艶やかな髪。

 珊瑚のような熱い色で染めた双眸。

 そして、真珠のごとき白い肌。


 本当に人の子なのか? と首を傾げたくなるほどの美少年――織田信重おだのぶしげ

 信長の嫡男であるこの青年は、間違いなく人の子である――と、紅葉こうようは言った。

「だって、神気は帯びてないしな」

「匂いで分かるの?」

「俺くらいの神になると分かるよ。ちなみにお前はあほの子だ」

「やかましい」

 明晴こうようは紅葉の頭を軽く叩き、茶碗を手に取った。

 口の中に苦みが広がる。思わず顔を顰めると、信重はくすくすと笑った。


「そなたには――こちらの方がよいかな?」


 差し出されたのは、白くて薄い生地を巻いたものだった。どうやら茶菓子らしい。口に入れると、小麦の風味のあとに白みその香りが広がった。


「『ふの焼き』と言うてな。堺の商人の間で流行っているらしい」

「そうなんだ。すっごく美味しいです」

「遠慮なくお上がり」

「はい! ありがとうございます」

 明晴が続けてもうひとつ手に取ろうとすると、傍に控えていた近習が咳払いをした。


勝九朗しょうくろう。よい」


 信重がそっと口を挟む。どうしたんだろう――明晴は首を傾げながら、ふの焼きをもうひとつ口に入れた。

「そなたは――父上の寵を受けているらしいのう」

 明晴は首を傾げた。

「寵愛……なんですかね。なんだか気に入ってもらっているのは分かるんですけど」

 明晴が日々やっていることは、暦や信長の運勢を占ったり、天気を読んだりするだけだ。あとは、話し相手になったり。

 ただ、寵愛とはまた違う気がする。

「そなたは素直な子ゆえ、父上もそういうところを気に入っているのだろう」

「素直……そうですか?」

「父上は、嘘を好まぬ。否、嫌う」

 信重の紅の瞳が遠くを見た。

「だからこそ、そなたや万見仙千代のような素直な者を好む。顔色を伺うことなく、率直な思いを述べられるような――」

 信重は拳を握った。

「まあ、甘やかしてはもらってると思います」

 明晴はあっけらかんと言った。

「でも――それは、俺が信長さまとは他人だから」

「他人だから、甘やかす……?」

「これが仮に信重さまだったら、そうもいかないでしょう。だって、自分の後目を継ぐんだもん。俺は純粋に境遇を同情できるし、可愛がるだけでいいけど」

 織田家には身内も多く、家臣も沢山おり、その家臣にも身内がいる。

 信長の采配ひとつで何人もの命が損なわれる。

 「第六天魔王」というあだ名は、伊達ではない。きっと明晴が知らない顔があるのだろうが、それを明晴は一生知らなくていい。

「そなたは賢いな」

 信重が微笑んだ。どこが?! と声を荒げる紅葉を摘まんで壁に叩きつける。

「そなたが父上に気に入られるのも分かる気がする。世渡り上手なのだろうな」

 明晴は唇を尖らせた。

 信長は、明晴はそのままでいい、と言ってくれる。だが、初音は違う。

 明晴のことを片っ端から否定してくるし、やることなすことすべてに口を挟んでくる。一体何が気に入らないのか。

「同居人と、うまく行っていないんです」

「同居人? ああ、確かそなた、蓮見四郎はすみしろうの二の姫を娶ったのであったか。あの美女を」

「娶……!? 娶ってないですよ、ただの侍女です!」

「だがその反応、惚れておるのだろう?」

 信重がからかうような声になった。明晴は口をパクパク開閉させてから押し黙る。

「……でも、初音はつねは俺のことが嫌いみたいです」

 一緒に暮らすようになってから、初音の笑顔を何度見ただろう。

 最近は、出会った当初よりもずっと不機嫌そうにしている気がする。

初音の笑顔が見たいのに。

「人とは、思い通りにならぬことばかりじゃのう」

 信重が苦笑しながら、もう一杯茶を点てた。茶筅が茶碗の底を擦る音が心地よく響く。

「儂も、そうであった。思い通りにならぬことに癇癪を起こしては、よく母上――帰蝶きちょうさまを困らせておったよ」

 信重は、帰蝶の実の息子ではない。信長が側室に産ませた子である。子どものいない帰蝶の養子になっていた。

「幼き頃は、実母のところに帰りたいと度々駄々を捏ね、手習いが厭だと駄々を捏ね、帰蝶さまはさぞかし困ったことであろう。織田家の後継として、やりたくないことも強制的にさせられたこともあった」

 信重が堪えるように拳を握る。

「本当に……いつかあの顔ぶん殴りたいと思ったことは少なくない」

(信長さま……信重さまに何したんだ……)

 なまじ信重が秀麗な笑顔なだけ、怖くて聞けなかった。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、親子喧嘩は陰陽師も祓えない。

「……なぜ儂だけが、と思ったこともある。だが、ある日帰蝶さまがな」

 帰蝶は、拗ねて泣いている奇妙丸を膝に抱いて、「枕草子」を読み聞かせれくれたのだという。


 春はあけぼの。

 夏は夜。

 秋は夕暮れ。

 冬はつとめて。


 身の不幸を嘆くことは致し方ない。身の上は誰に対しても公平ではない。不公平なことのほうがうんと多い。

 けれど――よく見てみれば、幸せなこと、素敵だと思えるものは山ほどあるのだ、と帰蝶は教えてくれた。その些細な出来事は、身分や立場、性別を問わず、生きている者誰もが巡り合うことができるのだ、と帰蝶は教えてくれた。


「清少納言が枕草子を書き始めたのは、たった一人の主のためだった」

 紅葉が語る。

 最初は、中宮に「面白いものを作れ」と頼まれた清少納言が、思い浮かんだことを綴っただけだった。しかし、情勢の変化により没落していく中宮にとって、いつしかそれは大きな心の支えとなっていった。そして清少納言もまた、その意味を理解していたという。


 つらいことは沢山ある。けれど、幸せなことも沢山ある。

 それを忘れないでほしい。


 誰かから誰かを想う気持ちは、この世のどこにもあるのかもしれない。

 だからこそ、今もなお、時を超えて、枕草子は愛されるのだろう。

(些細な幸せ……)

 明晴は、その言葉を噛み締めた。

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