慣れない暮らしは色々大変③
「どうぞ」
「ああ、ありがとう。ちょうど喉が渇いておったところゆえ」
「そなたが城を出て行ってしまってから、なんだか、心にぽっかりと穴が空いたようじゃ。寂しくなって、顔を見に来てしもうたわ」
「だからと言って、奥方さまが直接いらっしゃるなんて……。お知らせいただけたら、私のほうから参りましたのに」
「近頃は、奇妙丸もすっかり手がかからなくなったゆえ、暇だけはあってな。それに、動かずにいたらあっという間に老け込んでしまう」
「奥方さま……だからと言って、侍女も伴わずに来てはなりません」
初音が窘めると、帰蝶は肩を竦めた。
「そなたの説教も懐かしいのう。如何じゃ、市井の暮らしは。
帰蝶の問いかけに、今度は初音が肩を竦めた。
仲良くしている――とは言えなかった。明晴とはここ最近喧嘩ばかり。特に今朝は、「もう帰って来るな」とまで言って追い出してしまった。明晴の家なのに。
明晴が悪い。しかし、初音は悪くないのか? と問われたら、答えは「否」である。
「……わたしも、至らぬことばかりです」
侍女として城に勤めていた頃は、周囲からも「働き者」として賞賛されていた。仕事ができる者として見られていたから、きっと市井の暮らしもできるだろうと思っていた。
しかし、いざ掃除をしてみれば、今までより倍の時間がかかる。
料理はいつまで経っても上達しない。
何より、明晴が自分の思い通りの行動をしてくれないことが腹立たしくなってしまう。
「……結局わたしは、年下の明晴に対して、八つ当たりをしているのですね」
「それが分かっているならば、まだ改善の見込みはあるのではないか」
帰蝶はふっと笑みを漏らした。
「もしかして奥方さま……わたしと明晴がうまく行っていないと誰かに聞いたのですか?」
「いいや?」
帰蝶は首を横に振りながら、饅頭を楊枝で割った。
「今日は、そなたにこれを読んでほしくて来ただけじゃ」
帰蝶が荷物を解いた。初音に手渡されたのは、「
「なぜ枕草子……?」
「そなたの声は、心地よいからじゃ。何、暇なのはお互いさまであろ? そなたの涼しげな美声で、読み聞かせておくれ」
相変わらず自由なかつての主に、初音は溜息を吐きながらも書物を受け取った。
***
居室に、湯の音が響く。茶筅の音を耳に受けながら、明晴はカチンコチンに固まっていた。
「そう緊張するな、明晴」
「茶の湯なんて、とりあえず茶を飲んで、『結構なお点前でした』って言えばそれでいいんだから」
「それができる相手だったらしないよっ」
明晴は小声で反駁した。
とん、と音を立てて明晴の前に茶碗が置かれる。明晴はどきっとしながら、黒地に桜の花びらが描かれた茶碗を見た。
「さ、お上がり」
にこり、と柔和な笑みが向けられる。
「なに、公の場ではないゆえ、気軽に致せ。明晴」
「は、はい……」
明晴は慌てて茶碗を手に取った。
今、目の前にいるのは、幾度か御殿ですれ違ったこと「は」ある相手。だが、気軽に会える相手ではないので、対峙するのははじめてである。
高貴な人と(紅葉がいるとはいえ)一対一で会うのは、どうにも座りが悪かった。
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