エピローグ

一、

 織田おだ家の布団は上等だった。

 掻巻を体に巻きつけながら、明晴あきはるは鼾を掻いていた。

「おーい、明晴。そろそろ起きろー」

 紅葉こうようが前足で明晴を揺さぶってくる。

「んー……もうちょっと……」

「そんなこと言って。もう少しで朝餉の時間だぞ」

 そういうことを言いながらも、紅葉もまた、明晴の上に乗ってうつらうつらしているようだった。明晴は紅葉の背中を撫でながら、また夢の世界に足を踏み入れていく。

「ご飯、あとで食べる……置いといて……」

 ここ数日間、あまりにもいろいろなことがあり過ぎた。

 これから色んなことを考えなければいけないのは分かっている。信長からも近いうちに呼び出しが来るだろう。それでも今は、夢に浸っていたい。この温かい布団のなかで。


「――起きろ!」

「ひゃん!?」


 明晴の布団が勢いよく引っぺがされた。上に乗っていた紅葉も勢いよく飛んでいく。

「まったく――いつまで寝てるんだ」

 ぷりぷり怒って見せるのは、万見仙千代まんみせんちよである。

 仙千代は明晴を叩き起こして朝餉を口に押し込むと、身支度まで手伝ってくれた。


 着せられたのは、いつも着ている小袖に袴姿ではなかった。


「これは、俺からの祝い。行きつけの商人に依頼したんだ」

「え、仙千代が?」

 明晴が着させられたのは、平安の頃の陰陽師が着てそうな狩衣風の装束だった。もっとも狩衣ほど袖は大きくないし、袴も裾は短めである。当世風に工夫アレンジがほどこされている。見た目よりも動きやすかった。


「というわけで――御屋形さまからの褒美を告げに来た」


 信長は明晴に「安倍あべ」の姓を与えられた。いつまでも姓がなければ、何かと不便だろう、と。

「……土御門つちみかど家の許可なく勝手に安倍を名乗ったら怒られないかな?」

「今さらだろう。今まで散々好き勝手に晴明の子孫を名乗っておきながら何を言う」

 確かにそうだけど……と尻込みする明晴に、仙千代は「あっちは土御門。お前は安倍。別の人だからよし」と押し切った。こういう強引なところは、主君の影響を受けているようだった。


「それと、もうひとつ。御屋形さまがお前に家を与えてくれるそうだ。ついて来い」

「え、荷作り何もしてないんだけど!」

「陰陽道の道具類なら、あとで送ってやる。調度品なら向こうにも同じものを用意してくださっている。いいから来い」


 仙千代は、明晴を立たせると外に連れ出した。連れて来たのは、西の館からそれほど遠くない場所にある小さな家だった。もっとも、館が無駄に広いだけで、明晴からすればこの家も充分な広さである。

 家の周りには鯉の入った池や、畑などもあった。

 領地経営はできないが、自分の食べるものくらいならどうにか作れそうだ。

「米は御屋形が定期的に送ってくださるし、俸禄も充分に授けてくださるそうだが……本当にいいのか?」

「うわー、部屋広い。……いいのか、って何が?」

「やはり、今からでも御屋形さまにお願いし、きちんと領地をいただけばいいのに。必要なら、万見家うちの下男を譲ってやってもいい。というか、これではさすがに手狭ではないか?」

「そんなことないよ」

 新築のにおいを嗅ぎながら、明晴は目を輝かせた。


 中に入ると、座敷は奥の間まである。

 土間は広く、台所もある。煮炊きもしやすそうだ。

 ひとりで暮らすなら、それほど困らない。


「充分、広いし暮らしやすい。広すぎても、手入れが大変だしさ」

「だが、お前の配下の神霊達には……」

「まあ、十二天将達を呼ぶのは考えないとだけど、12人全員揃うことなんて滅多にないだろうし……」

「お前がいいならいいが……。まあ、俺の家も近いし、何かあったらいつでも来い」

 そもそも、十二天将を全員呼ぶだけの力はない。紅葉と2人暮らしなら、充分な広さであった。

 紅葉は鼻をひくひくと動かしながら、ある部屋の前に向かった。

「とはいえ、男所帯では手入れも行き届かないだろう。――御屋形さまが、お前のために侍女も用意してくださった」

「侍女!? いや、仙千代。俺は武士じゃないし! 確かに、信長さまの陰陽師にはなったけど……」

「まあ、聞け」

 仙千代は勝手に中に入ると、奥の間に続く戸に手をかけた。

「その女人は、織田家の家臣の娘御だ。尾張と美濃を繋ぐ、木曽川の豪族の姫なんだが――当世では珍しい、強い霊力を持った人だ。悪鬼に狙われることも少なくない。生い立ちも少々複雑らしい。御屋形さまは、この人をお前の侍女にする代わりに、明晴には彼女を守ってもらいたいとのことだ」

「……木曽川の、豪族の姫?」

 そんな、まさか。

 てっきり、彼女は実家に帰ったか、あるいは帰蝶の侍女として仕えることになるのだと思っていた。数日の間、彼女は明晴の前に現れなかったから。


「せ、仙千代。木曽川の豪族の姫って、まさか―――」


 仙千代は、スーッ、と奥の間の戸を開いた。

 奥の間に歯、若い娘が座している。

 濡れ羽色の髪に、透き通るような肌。そして、明晴を見つめるのは、やや釣り上がり気味の翠玉の双眸。


 娘は、明晴に向けて深々と頭を下げた。


「本日より、明晴さまにお仕えすることと相成りました。蓮見四郎はすみしろうが二女、初音はつねと申します。――以後、お見知りおきくださいませ」


「……嘘」


 明晴は固まったまま、微笑を浮かべる侍女を見つめた。

 仙千代は「異論はなさそうだな」と言うと、屋敷を出て行ってしまった。

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