六、

 御前に召しだされたのは、ひと月ぶりだった。


「面を上げよ」


 初音はつねはゆっくりと顔を上げる。頬に擦れる鬢がくすぐったい。

 信長のぶながは、初音の顔を見るとほっと息を吐いた。

「顔色は、悪くなさそうじゃな」

「ええ」

 初音はわざとらしくつんと澄まして見せた。

「お暇をいただいたお陰で、ゆっくりと休むことができましたので」

「嫌味を言い返す元気もある、と」

 信長はやれやれと肩を竦めながらも、どこか嬉しそうではあった。

 信長は、今回の一件を丁寧に説明した。にわかには信じがたい、おとぎ話のようなことではある。しかし、実際に身に降りかかった立場なので、受け止めるしかなかった。


 亡き母が木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことに仕える玉依姫たまよりひめであったことも。

 明晴あきはるが本当の犯人である杉谷善住坊すぎたにぜんじゅうぼうを捕まえたことも。

 善住坊は初音の命を狙っていたことも。

 そしてこれから先も――初音は狙われ続けるだろう立場にあることも。


「……御屋形さまは、私を火刑に処す、と仰せであったそうですね」


 初音の言葉に信長は返事をしない。

 万見仙千代まんみせんちよがやや気まずそうに腰を浮かせかけたが、初音は「大丈夫」と目で合図した。

 この一件に関して、信長を責めたり、詰ったりするつもりはない。――だが、思っていたことはある。


「御屋形さま――御屋形さまは、私が犯人ではないということを、ご存じだったのではありませんか」


 信長は答えない。だが、沈黙は肯定の意であるということを、初音は知っている。

 もし本当に初音が犯人だという確信を持っていたのなら、信長は早々に初音を処罰していたはずだ。山の上に立つ岐阜城において、火付けはそれだけの罪である。

 もちろん、初音を直ちに殺さなかったのは、川並衆の頭領である父・四郎しろうへの配慮もあったとは思う。だが、信長は合理的な判断もできる。初音の罪とは別に、川並衆の必要性を比較した上で、初音を蓮見はすみ家の家系図から抹消すればいいだけのこと。


 だから、今回の一件は、真犯人を焙り出すためにやったこと――と初音は考えていた。


「明晴さまを、焚きつけるために」

「随分な自信じゃのう」

 信長がくつくつと喉を鳴らした。

「自信――という言の葉の意味は分かり兼ねますが、世話をしていれば、あの子どもがどのような人間か、ある程度分かってくるというものです」

 文句を言いながらも信長の期待に応えようとしたり、飯に喜んでいたり、珍しいものを見ればはしゃいだり。

 あの子は――そういう子どもだ。

 ただ現実を生きようと足掻く、普通の子ども。

 自分は関係ないと言いながら、目の前で困っている人がいれば放っておけないのだ。だから、初音のことを助けた。きっと仙千代や信長が同じ立場になっても、明晴は同じように必死で助けようと足掻くに違いないと踏んだのだろう。


 それに信長は、弱者には優しい。

 孤児が町をさまよっていると聞いたら、手元で庇護したくなる性質だ。

 実際仙千代から、信長は自分が殺されかけたこと以上に、善住坊が子ども達を惨殺して歩いた一件に怒りを抱いているという。鋸引きの刑に処された善住坊の首は、今も河原に晒され、烏達に啄まれているそうだ。


(本当、不器用なお方)


 初音は、不器用すぎる主を若干哀れむのであった。


「此度そなたを呼んだのは、それだけではない」

 信長は、仙千代に指示を出す。

 仙千代は初音の前に一冊の書物を置いた。書物というより、雑記帳、といった感じだ。古い表紙だが、手入れはされていたのだろう。それほど汚れてはいなかった。

「そなたの姉より、そなたへ、と渡されたものだ」

「……すみれさまから?」

 初音は目を見開いた。

「そなたの母の形見だそうじゃ。返すのが遅くなってすまなかった、と」

 詫びる菫姫の姿を思い浮かべ、初音は苦笑した。


 母が亡くなってすぐ――四郎は、喪に服す暇もないほど、直ちに桜子さくらこの遺体を荼毘に伏した。それだけではなく、四郎は桜子の骨を粉々に砕いた上で、川に流した。墓を建てることすら禁じて。

 泣いていやがる初音を部屋に閉じ込め、その間に、四郎は桜子に関するものを全て焼き捨ててしまった。しかも、喪が明けるや否や、人質として、初音は岐阜城に送られたのである。


「そなたを儂に預けたいと言ったのは、そなたの父の方からであった」


 四郎は、「御屋形さまに娘を預けたい」と乞うた。

 訳は言えない。だが、不思議な娘である。何も聞かず、自分の娘を預かってほしい。その代わり、信長を守るために身命を賭して仕える、と。

「……私は、ただの人質ではなかったのですか?」

「……子は、手駒ではある」

 信長とて、幾人も子を持つ。だが、外交のために養子にやったり、家臣を見張るために娘を嫁に出したりする。手駒として扱わない、とは言い切れない。


 ――しかし、手駒に愛情がないわけでも、またないのだ。


 四郎が桜子に関するものを全て抹消したのは、桜子の遺体や遺品が悪しき者に狙われないようにするためだった。

「その数珠は明晴からか」

 首にかけた数珠を見ながら、信長が問う。

「その数珠が護身になるというなら――そしてそなたの母が、そなたを守る術を教えたのならば、儂はそなたを手元においておく理由はない」

 蓮見家は、信長に恭順の意を示している。

 先日、仙千代が使者として遣わされた際、四郎は血判を差し出した。たとえこの先何があろうとも、蓮見家は織田家の臣下であるという誓いの証だ。

「もしそなたが望むなら、人質の任を解き、里に下がらせてもよいと考えている」

「え……」

「あるいは、嫁入り先を世話してやってもいい。そなたに恋焦がれる男は少なくないでな」

 玉依姫の娘だというなら、神官などなら喜んで引き受けるだろう。

 帰蝶きちょうも、叶うならこれからも世話役として初音を引き取りたいと言っている。

 信長としては、どれでもいいのだ。初音は織田家にいる間、よく働いた。家族とともにありたいと願うなら、蓮見に帰してやる。嫁入りを望むなら、相応の家を見つけてやるし、帰蝶の傍に置いてもいい。

「……私の好きにしてよろしいのですね」

 初音は信長を見つめた。仕えはじめてから、初音が信長に何かを願うのははじめてのことだった。



「では、お言葉に甘えて、ひとつお願い致したくございます」


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