五、
月夜に照らされながら縁側に佇んでいると、床が軋んだ。顔を上げると、
小虎のような丸い顔を傾げながら、紅葉はぽてぽてと近づいてきた。
「眠れないか? それとも、体がつらい?」
「いや、大丈夫。体ももう元気だよ」
「さっきから熱心に、何を読んでいるんだ?」
「
紙をめくる音が響いた。
もう十余年も前の日記だというのに、一切痛んでいない。菫姫はいつかまた会えた時に、初音にこれを渡すつもりで手元に置いていたのだろう。
日記には、玉依姫の役割に関する説明、一族のことなどが書かれていた。
だが、半分以上は身の回りの護身法に関することだった。結界の張り方だったり、神に祈る時の作法だったり、初音を守るための術が記されていた。
もっと早く初音にこの日記帳が渡っていたら良かったかもしれない。だが、考えても後の祭りだ。
日記には度々、「オン・シュダシュダ」という呪文が出てくる。
仏道の修行をはじめたばかりで、まだ学びの浅い若い僧があらゆる邪なものから守る浄化の呪文である。
「……桜子さんは、
明晴は、母というものを知らない。物心ついた時には母はおらず、父も幼い頃に亡くなったため、家族の縁というものが薄い。
だが、桜子が初音を愛しんでいたことは分かる。直接愛情を告げる文字はなかったが、繰り返し娘を案じる文字の羅列はある。
異界で出会った時も、日記にも、他のことはほとんど触れられていない。だが、初音の平穏を願う思いだけは、何度も何度も繰り返し出てくる。「オン・シュダシュダ」という言葉を添えて。
今わの際まで、誰かを案じ続ける。きっとそれは、「愛おしい」という思いなのかもしれない。
明晴は目を閉じた。
この先、自分の人生がどう転がっていくのか、想像もつかない。しかし、与えられた道を進むしかない。陰陽師は神ではなく、人である。人は目の前に現れる事柄と向き合って足掻くしかないのだ。
初音も、仙千代も、信長だって同じように。苦悩して、迷って、それでも歩いて行かなければならない。
明晴は左手の指を立てた。
せめて自分の目に映る人だけでも、これからも幸せに生きて行くことができるよう、願いを込めて真言を唱える。
「オン・シュダシュダ……オン・シュダシュダ……オン・シュダシュダ……」
空気が一気に晴れ渡るような、風が吹いた。秋だというのに、桃の匂いがする。
どこからともなく、桜子の「ありがとう」という声が聞こえて来たような、そんな気がした。
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