四、


初音はつねどのの母君が、玉依姫たまよりひめだって?」


 仙千代せんちよがぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 明晴あきはるは飯を掻き込みながら、「そうみたい」と言った。

「そうみたい、って……軽いな。玉依姫って言ったら、古事記や日本書紀にも出てくる名前だぞ」

 仙千代が呆れたように「これも食え」と、漬物を寄越してきた。


 桜子さくらこの日記によると、玉依姫というのは、神に仕える巫女の総称らしい。

 異界で明晴が出会った玉依姫は――桜子だったのだ。桜子は、木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことに仕える玉依姫だった。


 漬物を噛み砕きながら、明晴は仙千代に、蓮見四郎はすみしろうはどのような男か、と問いかけた。

「生真面目な人だよ」

 肉刺だらけの手で白湯を飲みながら、仙千代は答えた。ただ飲み物を飲んでいるというだけなのに、いちいち絵になる。

「政に関しては不正もないし、戦での働きぶりも目を見張る。川並衆かわなみしゅうは皆、気が荒い者も多いけれど、蜂須賀はちすかどのとともに、よくまとめてくださっている。此度、初音どのの件でも一切動じることなく、引き続き織田おだ家への恭順の姿勢も崩さなかった。織田家での地位は、謀反でも起こさない限りは安泰だろう」

「今って、蓮見さまに側室はいるの?」

「いないよ」

 桜子が亡くなってから、蓮見四郎は新たな側妾を持っていない。

 正室である長瀬ながせかたとの間には三男一女がおり、皆順調に育っている。

「お前、側室ってただの寵愛の象徴だと思ってる?」

「え、違うの? スケベ親父が持つものだと思ってたんだけど」

「そうじゃないよ。お前、御屋形さまのこともそうだと思ってる? ……いや、まあ、御屋形さまとか、羽柴どのなんかは、それも多少あるだろうけど。でも、それだけじゃないんだ」

 側室とは、正室との子宝が恵まれない場合、家を存続させる跡継ぎを作るために持つものでもあるという。

 信長は、正室である帰蝶きちょうとの間に子どもがいない。側室に産ませた男児を帰蝶の養子としたらしい。

「そもそも女人は金もかかる。衣や化粧品などを持つなとも言えないし。子を孕めば医師も雇ったり、子を産むときは産室だって必要だ。それらを賄える金がないと持てない。誰でもいい、っていうわけでもないんだよ。商家や家臣――後ろ盾だって必要だ。武家の婚姻は、正室も側室も政なんだよ」

 側室を持っていない者もいる。たとえば家臣の明智光秀あけちみつひでなどもそうだ。当時の光秀は正室以外を持てるほどの財がなく、現在は財はあるが正室との間に子宝に恵まれているため、側室がいなくても問題ないらしい。

 他にも、正室の務めが滞りある時の補佐要因として、側室を持つ場合もあるそうだ。

「……てっきり、『俺はえらいんだぜひゃっほー』みたいなノリで女侍らしてるのかと思ったけど、結構手続きとか面倒くさそうだね」

「お前のその、武家に対する時々見せる偏見って一体何なの? どこから仕入れてきたの?」

 明晴はそれには答えず、にこにこしながら水菓子をむさぼった。美濃の柿は、やっぱり甘くて美味しかった。仙千代は呆れたようにそれを見ながら、「もう少し勉強しとけよ」と言った。

「せめて古事記くらい諳んじられるようにならないと。お前の知識は、偏りがひどい」

「うっ」

「まったくだ!」

 紅葉こうようが仙千代の肩に飛び乗りながら、うんうん、と頷いた。

「玉依姫も知らないし、木花咲耶姫にたどり着くまでも遅いし! 古事記も知らん陰陽師なんて聞いたことないぞ! 帰ったら、ちゃーんと勉強しろ、そして修行もしろ、明晴!」

 紅葉の吠えが耳に障る。明晴はうるさいなぁ、と耳を塞いだが、仙千代にその手を引っぺがされた。

「御屋形さまは、お前を正式に召し抱えたいそうだ。織田家の陰陽師として」

「ええ……」

「いや、嬉しそうにしろよ。御屋形さまは、地行ちぎょうもお与えくださると言うのに」

「知行?! いらない、いらない、絶対いらないから! 本気でいらないから、断って!」

 明晴は全力で拒否をした。


 知行とは、大名から配下の武士に与えられる所領を安堵されるということである。

 つまり、明晴が領主となる土地を信長は与えようとしているのだ。


 だが、所領などもらったら、年貢を納めたり責任が増える。

「俺は、無責任にこれからも織田家で飯だけ食わせてもらいたいんだ」

 明晴は曇りなき眼で言った。

「お前、何ドクズな発言をしているんだ」

 紅葉は呆れながらため息を吐いた。

「そういうわけにはいかない。お前、御屋形さまの顔に泥を塗るつもりか?」

「泥? なんで?」

「いや……武士ではないお前に説明するのは意外と難しいな。お前は此度、杉谷善住坊を討伐するという功績を上げた。表向きは磯野いそのさまが捕まえたこととなっているが、実際にはお前が討伐している。そしてお前は今後、戦で命を落とした民の冥福を祈ったり、神社や寺との交渉の場などにも出されることとなるだろう。功績を上げた者に何の褒美もやらぬとあらば、御屋形さまは『家臣を正当に判断しない』と思われてしまう」

「で、でも俺……領主なんて向いてないよ」

「まあ、確かにな……」

 仙千代は仕方ないな、と顎に手を当てた。何か思案しているようだ。

「褒美は断れないから断るな。だが、お前が受け取りやすい褒美を俺が考え、御屋形さまに進言してあげよう」

「本当?」

 明晴はほっとした。

 明晴としては、今後も屋根のある家で暮らし、米をもらえればそれでいい。

(でも、いつまでも俺にただ飯食わせるわけにはいかないだろうし……とりあえず、読経か何かをしっかり勉強しておかないとだよな……)

 明晴は残った飯を湯漬けにしながら、これからの暮らしをどうするのか、思案するのだった。

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