二、

 仙千代せんちよが帰ってしまうと、明晴あきはる初音はつねの間には沈黙が訪れていた。


(何を話せばいいだろう……)


 明晴が熟考していると、紅葉こうようがぽてぽてと足音を立てながら、どこかに行こうとしていた。明晴は縞模様の尻尾をむんずと掴み、引きずり戻した。

「なんだよ、明晴」

「なんだよ、じゃない。どこに行くのさ」

「縁側で日向ぼっこ。あとは若い2人でどうぞ」

「若い2人で、じゃないよっ。ここにいて!」

「……まったく、情けないな」

 紅葉は大仰な溜息を吐いてから、初音を見上げた。

「よお、初音。顔色はよくなったようだが。どうだ、体の具合は」

「問題ありません」

 初音は楚々とした受け答えをした。その胸には、明晴が贈った数珠が光っている。

「此度の件――御屋形さまから聞きました。明晴さまが、私のことを助けてくださったのだ、と。……深く御礼申し上げます」

 初音が深々と頭を下げる。頬の鬢が揺れる様が大変可愛らしい。


 初音の母・桜子は、木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことに仕える玉依姫たまよりひめ。その母に恥じぬ、美しい所作に明晴は見惚れた。

 だが、その母から受け継いだ霊力は、人ならざる者に狙われることとなるだろう。

 そんな悪しき者から彼女を守れるとすれば、明晴だけ。確かに道理ではあるのだが。


「は、初音さんは、今日からここで暮らすの?」

「ええ。身の回りのお世話をするのですから」

「は、初音さんは、そ、それでいいの? 本当に?」

「はい」

 初音は迷わず答えた。

「念のため申し上げておきますが――御屋形さまのご命令だから、ここに来たわけではありません」

 翠玉の双眸に、明晴の姿が映った。


 誰もが初音を見捨てようとした。

 あの状況では、初音の無実を証明できる方法がなかった。初音自身、自分を信じられなかった。

 しかし、明晴は最後まで初音を信じてくれた。そして、火事の現場で初音のために駆けつけ、守ってくれた。


 明晴のお陰でこうして生きていられることを――初音はずっと忘れない。



「あなたに救ってもらった命です。この恩義、一生かけてお返しします」



 だから、信長に自ら願い出た。明晴のことをこれからも支えたいのだ、と。

 明晴はドギマギしながら、初音の顔を見た。

「じゃ、じゃあ……よろしく、初音さん」

「『さん』は不要です。私は明晴さまの侍女なのですから」

「で、でも……」

 初音は武家の娘で、明晴より年上だ。呼び捨てるのは気が引けた。

 紅葉に目で助けを求めると、紅葉は世話が焼ける、と言わんばかりに短い脚で器用に胡座をかいた。

「じゃあ、初音も呼び捨てしちまえよ」

「え?」

「主従の契りを交わすとはいえ、明晴は市政の子どもだぜ。武家の姫さまを呼び捨てにする度胸はねえ。ここは対等に、『同じ家で暮らす者同士』として絆を持ってはどうだ?」

「なるほど……? 武家の習わしがあるような、市政の方にもそのような習わしがあるのですね」

 別にそういうわけではないのだが、初音が納得できるのなら、それでいい。

 明晴は恐る恐る、声を出した。


「じゃあ……改めてよろしく。──初音」

「ええ。よろしく、ね。──明晴」


 外には、優しい風が吹いている。これから新しい日々を祝福するような穏やかな気候だった。

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