十二、

 日本神話に、木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことという女神がいる。


 山の神・大山祇命おおやまづみのみことの娘であり、磐長姫命いわながひめのみことという女神を姉に持つ。


 その貞節さと聡明さ、眉目秀麗の様は「日本女性の鏡」とされ、古くから民に親しまれ、崇敬を集めている。

 木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことは数多いる女神達の中でも格別で、姫の象徴のひとつである桜の花は、木花咲耶姫命を真似てあのような美しい花になったとされる。


 古事記には、こう記されている――瓊瓊杵尊ににぎのみことが高天原より降り立った際、偶然出会った木花咲耶姫命を見初め、妻とした。この時、姫はすぐに子を身ごもったという。


 しかし、姫はたった一晩で身ごもったそのことに疑問を持った瓊瓊杵尊は、木花咲耶姫命の腹の子を不義の子だと決めつけた。此花咲耶姫命はその疑念を腫らすため、戸のない産屋を作って籠った。


「わたくしの子が不義の子でなくあなたの子ならば、無事に生まれてくるはず」


 姫はそう宣言すると、小屋に火を放った。小屋の隙間を全て泥で塗り塞いでからという、徹底した方法であった。燃え盛る産屋の中で、木花咲耶姫は三柱の子を産むことでその疑いを晴らした。


 火が勢いよく燃え始めた時に産んだのが、火照命ほでりのみこと

 火が盛んに燃え続けている時に産んだのが、火須勢理命ほすせりのみこと

 火が燃え尽きるときに産んだのが、火遠理命ほおりのみこと。この火遠理命こそ、後に初代天皇・神武天皇の祖父となる神であった。



 木花咲耶姫の最期は壮絶で、富士の噴火を押さえるために、自ら火山の中に身を投げたといわれる。姫の体を飲み込んだ富士山は、鎮まったと言われている。



 子を産むときに火に焼かれることなく、そして富士の噴火を押さえたその不思議な力。

 木花咲耶姫命は、五穀豊穣を司る繁栄の女神であると同時に、火の加護を受けた女神でもあった。



***



 明晴あきはるが手をかざすと、目の前に桜色の弓矢が現れた。弦を軽く弾くと、春の風のような爽やかな心地よさを感じる。


(姿は見えないけれど……木花咲耶姫命の加護があるんだ)


 明晴は震える腕で矢を構えた。力いっぱい、矢羽根を掴んで引き絞る。

 体は既に限界だ。矢も一本しかない。きっと、この一撃で善住坊を止めるしかない。



 神の加護は、信じぬ者には力を貸さない。

 神の力を正しく清く使う――この矢は必ず当たると、明晴は姫の加護を信じた。


(当たれ――当たれ……!)


 明晴は矢を手放した。体がずきり、と痛みを生じる。


 以前、信長の稽古を垣間見た時ほどの威力はない。明晴では力が足りないのだということを痛感させられる。


 矢は、善住坊に当たることはなかった。――途中で神隠しにあったかのようにかき消えたのだ。


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