七、
中奥に続く廊下を早歩きに向かう。
ほとんど毎朝使っている道なので、小姓の案内がいらないほど慣れ切った経路だった。
「しかし、何だろうね、信長さま」
いつもなら朝いちばんに呼び出すか、少なくとも正午前に呼び出される。夕餉の後に――というのは珍しいことだった。
「どうしよう、とうとう追い出されるなんて」
「それはないだろう。もし追い出すなら、あの小姓だってもう少し横柄になったっておかしくない。きちんと客人に対する態度だったぞ」
「そっか……じゃあ大丈夫、かな」
そうこうしている間に、明晴と紅葉は、信長の私室の前にたどり着いた。
明晴は、すう、と息を吸うと腹から声を出した。
「
部屋の前で声をかけると、襖の向こうから不機嫌そうな声で「入れ」と命じられた。
「失礼しま……うわ!?」
入室早々、
「せ、
「騒ぐな。
めっ、と咎められ、明晴は慌てて口を噤んだ。
仙千代の秀麗な顔には薬草を塗った当て布が張られている。袖の中から覗く左の手首には、血の滲んだ包帯が巻き付いていた。
まさか信長が怒りに任せて仙千代を――。
明晴が蒼褪めると、信長はすかさず「儂がやたわけではないっ!」と突っ込んだ。
「今日の昼──何者かが儂を狙って鉄砲を撃ちおったのを庇ったせいじゃ」
「……え?」
「……そなたの予言通りよな、明晴」
信長の目は冷たい。
「さすが――安倍晴明の子孫である、と言ったところであろうかの」
昨日、確かに「明日、信長を狙った刺客が来るから気をつけろ」と、明晴は言った。しかしそれは、本当に信長が狙われる未来を読んだわけではない。
……のに、なぜか明晴は、当てずっぽうに言ったことほどよく当たる。
「……明晴よ」
遠い目をしながら、紅葉が言う。
「"
「……はい」
明晴はうなだれながら、信長を伺い見た。
「あの……つまり俺も切腹とかですか? 予言を回避できなかったから……みたいな」
「切腹は武士にのみ許されたこと。明晴、貴様は武士にあらず。死罪に処するならば斬首とする」
「ひぁ……っ」
「怯えるな。死罪に処するならば、と言うておろう。そもそもそなたは予言を口にすることで、儂に危険を知らせたのじゃ。褒められこそすれ、死罪にするわけがなかろう」
ひとまず死罪が回避できたらしく、明晴はホッと息を吐いた。
仙千代は右手だけを器用に使いながら、明晴の前に何かを置いた。
──黒い布の切れ端である。
おそらく、僧兵などがよく身にまとう黒衣だろうか。
火薬の臭いが染み付いており、穴が空いていた。
「昼間──御屋形さまは、襲撃された直後すぐにお手持ちの弓で、発砲した方角を射られた」
どうやら、空いている小さな穴は、信長が射た矢の痕らしい。
「しかし、矢とともに残されていたのは、その切れ端だけ。足跡すら残っていなかった。まるで、神隠しにでもあったかのように」
「神隠し……」
人が動いたのなら、必ず足跡は残る。芝生などは、さすがにない。
それに、岐阜城は不落の城と言われるほど険しく、警備の目も行き届いている。
信長を襲撃してすぐに鉄砲を抱えた者が逃げられるとは到底思えない。それこそ襲撃者よりも、仙千代や信長の方が、城のことは知り尽くしているはずだ。
紅葉は、衣の切れ端に顔を寄せると、鼻をひくつかせた。
「わずかだが、臭いがする。……初音の局で嗅いだ、生霊の臭いに似てる」
「じゃあ、やっぱり……!」
明晴は立ち上がった。
この衣の臭いを辿れば、初音を狙った坊主の生霊に行き着く。
そうすれば、初音の無実を証明することができるかもしれない。
「紅葉、行こう! その生霊の臭いをたどれば、初音さんの、」
「──待て、明晴」
信長の声が響いた。部屋を出ようとして止められてしまった明晴は、むっと顔を顰めた。
「信長さま。行くな、はないですよ。誰かを罰しなきゃいけないのが道理なのは分かります。でも、初音さんは誤解なんです。罪なき人を裁く権利はないですよ!」
「違う」
信長は拳を握り締めた。
「その坊主──いつぞや、儂を射殺しようとした。そして一度ならず二度までも儂を殺そうとした。……三度目は、ない」
信長の目がぎらりと輝く。鷲のごとき鋭い双眸だった。
この男を第六天魔王と最初に呼んだのは誰であったかは、明晴は知らない。信濃の武田晴信だか、信玄入道だか、あるいは南蛮の僧侶だったか。その辺は定かではない。
しかし、その渾名がぴったりだ──ということだけは、確信を持つことができる。その二つ名をつけた者は、
「明晴よ──命令である」
信長の
「三度目の予言を、起こさせるな。──そなたの術を持ってして、その糞坊主を仕留めろ」
自分、予言は一度しかしていません──などと言う余裕はなかった。
まさに蛇に睨まれた蛙のように、明晴はこくこくと首を振ることしかできなかった。
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