五、

『明日、信長のぶながさまを狙う者が、信長さまの命を脅かすかもしれませんので、お気をつけて』


 弓を引き絞りながら、信長は昨日のことを反芻していた。

 牢に入れた初音はつねを助けてほしい。明晴あきはるは、しつこく、暇さえあれば手紙を寄越し、懇願し続けた。今朝も謁見を願う文が届いたが、思い切り破り捨てて無視したほどである。

 信長とて、初音を信じたい気持ちはある。


 初音は、まだ童女だった頃に、人質として織田家にやってきた。岐阜に来る前の出来事だった。

 幼い頃から忠実に働き、愛想はないが生真面目で、人が嫌がるような仕事も自ら率先してやるような性格の娘だ。


 だが、初音以外に火を放てる人間はいない。


 明晴の言うように、妖術使いがやったのなら別だが──初音の無実を証明するには至らない。

 あの日の火事で死人は出なかったが、怪我をした者はいる。誰も処罰しないという結末では、あの場で被害をこうむった者達は皆納得しない。


 ──たんっ


 矢が的から僅かに外れた。

 あーあ、と仙千代せんちよが肩をすくめながら新しい矢を差し出した。

御屋形おやかたさま。考え事をしていてはなりませぬ。しっかりと的を見据えませぬと」

「──分かっておるっ。もういい」

 信長は弓を仙千代に押しつけると、片肌脱ぎにしていた衣を直した。

「明晴はどこにいる」

「今朝方、式神と暴れていました」

「式神と……あの、白虎びゃっことやらか?」

「朝餉のおかずを取った取られたと騒いでいましたが」

「……童の喧嘩か。いや、明晴は実際に童であったか」

 信長は思わず溜息を吐いた。

 明晴は十二天将を従えているらしい。火事を鎮火させたのも、明晴の式神だった。


 見た目だけなら、ただの子ども。

 それなのに、神の席に名を連ねる存在を従えている。


 今、朝廷で力を発揮しているのは土御門つちみかど家。──家系図でもはっきりと示され、現代まで続く血筋正しき安倍晴明あべのせいめいの直系である。

 明晴が本当に直系なのかは、判断しかねる。だが、安倍晴明が没して以降、誰にも従わなかった十二天将が、あの童にだけは従っているのは事実だ。神すらも惹きつける何かが明晴にはあるらしい。


『火を放ったのは、坊主なんです!! 初音さんじゃない!!!』


 信長は、自分の目で見たもの以外は信じない。

 見えないものは恐れるに値しない。だが、あの少年の言葉は、軽い割にはいつも頭の片隅に引っかかる。

 十二天将達も、同じ想いを抱いているから、明晴に付き従うのだろうか。


 ──弓掛を外している時、嗅ぎ慣れた臭いがした。


 戦場で、何度も嗅いだ臭い。



「──御屋形さまっ!!!!」


 次の瞬間、仙千代の悲鳴とともに、乾いた音が響き渡った。

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