五、
『明日、
弓を引き絞りながら、信長は昨夜の出来事を思い返していた。
――牢に入れた
初音は、まだ童女であった頃に、人質として
初音をはじめて見た時、信長は背筋が凍り付くかと思った。
翠玉のごとく透き通った双眸。
濡れた烏の羽のような、漆黒の艶やかな黒髪。
何より、春の訪れを告げるかのような白い肌。
神というものを信じなかった信長だったが、初音とはじめて対面した時ばかりは、「もしこの
に女神が現れたのなら、このような姿かたちをしているに違いない」と思ったほどだった。
そんな初音は、幼い頃から忠実に働き、愛想はないが生真面目で、人が嫌がるような仕事を自ら率先してやるような娘だ。
初音が火付けをおこなったなどと、信長とて本気で思っているわけではない。
(――だが、あの場に火を放てる者はおらなんだ。……初音を除いては)
それこそ明晴の言うように、妖術使いがやったとしたら話は別だが、初音の無実を証明するには弱すぎる。
あの日の火事で死人は出なかった。しかし、暇を与えねばならない怪我をした者は少なくない。誰も処罰をしないなど、納得させることはできない。
誰かが罰を受けなければ、他の恨みつらみを納めることはできない。
この一件を正さなければ、信長の権威も人心掌握の力も落ちることは目に見えている。
――たんっ
矢が的からわずかにはずれた位置に刺さった。
あーあ、と
「
「……分かっておるっ、もういいっ」
信長は由美を仙千代に押しつけると、片肌を脱いでいた衣を直させた。
「明晴は、どこにいる」
「恐らく、部屋かと。今朝方、式神と暴れておりましたので」
「式神……」
信長が唯一その目で見た、明晴の本物の式神である。
「初音を盗み出そうと騒いでおったか」
「いえ」
仙千代は首を横に振った。
「朝餉のおかずを、奪い合っておりました」
「……おかず?」
「はい」
「……今朝は、明晴にだけ鹿肉でも出したか?」
「いえ。御屋形さまと同じものです。
告げられた献立は、確かに信長がいつも食べているものである。少なくとも、神が奪ったからと言って、喧嘩に発展するほどのものではない。
「……童の喧嘩か。次から、眷属のぶんも出してやれ」
溜息を吐いたものの、明晴はまだ実際に童と言ってもいい。信長が元服した時よりも年下なのだから。
明晴は、十二天将を舌がええいるらしい。火事を鎮火させたのも、明晴の式神であったという。
式神の姿を見た者こそいなかったが、あの場に居合わせた者達は、「水の柱が火を鎮めた」と口を揃えて言っていた。そのあと転んで頭を打って重傷を負っているあたり、詰めは甘いが。
見た目だけなら、ただの子ども。
しかし、その秘められた力は、神の席に名を連ねる神聖な存在が控えるほど。
今、調停で力を発揮し、陰陽師の座を独占しているのは、
「仙千代。そなた、明晴はまことに晴明の子孫と思うか」
「んー……」
仙千代は弓を抱いたまま、首を傾げた。
「ありえない――とまでは申しません。実際、霊力を持っているのは事実のようです」
仙千代も、白虎が明晴に従っているのは見た。明晴が何かしらの力を持っているのは確かだろう。
しかし、平安の世には、今よりも多くの陰陽師が存在していた。
隔世遺伝というものもある。明晴が家名を持たない身分である以上、先祖返りしただけの没落貴族の末裔――が一番現実的な考えだった。
そして、それは信長も同じ意見である。
明晴が本当に安倍晴明の子孫なのかは分からない。
しかし、確かなこともある。安倍晴明が没して以降、誰にも従わなかった十二天将が、あの童にだけは従っている、ということだ。
『火を放ったのは、坊主なんです! 初音さんじゃない!!!』
信長は、自分の目で見たもの以外は信じない。
見えないものは恐れるに値しない。だが、あの少年の言葉は、軽い割にはいつも頭の片隅に引っかかる。
十二天将達も、同じ想いを抱いているから、明晴に付き従うのだろうか。
──弓掛を外している時、嗅ぎ慣れた臭いがした。
戦場で、何度も嗅いだ臭い。
「──御屋形さまっ!!!!」
次の瞬間、仙千代の悲鳴とともに、乾いた音が響き渡った。
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