四、

 ひたひたと猫のような、仔犬のような足音が響く。

 もはや顔を上げる気力すらない。

 いっそ、処刑を告げにくる侍であればいいのに。そんなことすら思う。


初音はつね


 甲高い子どものような声。久々に名前を呼ばれてゆるゆると顔を上げると、格子の向こうに子猫のような生き物がいる。

「……あなた、明晴あきはるさまの……」

 確か、紅葉こうようと呼ばれていた獣だ。真の姿はまた別のようだが。

 紅葉は格子の隙間に頭を突っ込んだ。ふぐぐ……と小さく唸りながら狭い檻の間に顔を突っ込み、中に入ってくる。

 紅葉は、初音の脇に置かれていた折敷おしきを見ると、尻尾で地面を叩いた。

「なんだなんだ、飯はちゃんと貰えてるんじゃないか。心配して損したぜ」

「…………」

「全然食ってないようだけど。握り飯、カピカピじゃねーかよ。漬物も干からびかけてるし」

「……食べたところで、殺されるんだもの。意味はないわ」

 火付けを行なった者は、同じく火で処罰される。だから、初音もいずれ火刑に処される。

 なのに、一日一度、初音の牢獄には握り飯が差し入れられる。死ぬ人間が食べたところで無駄なのに。

「……おい、初音」

 紅葉の声が低くなった。

「お前──いつからそれを飼ってる?」

「え……?」

「ざっと数えて、10……いや、20はいるようだが」

 紅葉の鋭い目が突き刺さる。だが、紅葉が見ているのは初音ではない。初音の──肩越しだ。

「あなた、これが見えるの?」

「当たり前だ、たわけ者。俺は十二天将じゅうにてんしょう白虎びゃっこさまだぞ! こんな雑魚、変化解くまでもないわ!」

 紅葉の毛が逆立った。前足の先端に鋭い爪が伸び、初音に取り憑いていた影を切り裂く。

 その瞬間──今までの肩の重みが嘘のように軽くなった。霧が晴れたような清々しい感覚だった。

「今のは、一体……それに、声も聞こえない……」

「言っとくけど、あくまでもその場しのぎだからな」

 紅葉は前足を舐めながら言った。

「お前、霊力がかなり強いみたいだ。生まれつきか?」

「え、ええ」

 亡くなった母は、他国を渡り歩いていた巫女だった――と聞いたことがある。たまたま木曽川に立ち寄った際に父に見初められ、そのまま側女そばめになったのだ、と。

「なるほど、巫女か」

 それならば納得がいく。

「お前の母は、恐らく口寄せができたのかもしれん」

「口寄せ……?」

「生者または死者の霊や、神霊なんかを体に移すことだ。東国なんかだといたこ、とも言うそうだが」

 十二天将を見ることができるのも、術を見破ることができるのも。

 何より、異常に彼女に引き寄せられる霊も、血筋がなせる技ならば。

「詳しいことは分からないわ」

 初音の母は、生前「帰る場所を失った」と言っていたらしい。父もそれを語ることはしなかった。


(まあ、口寄せの巫女ったって、神職の人間には違いないしなぁ……)


 神道といっても、派閥はある。諍いも絶えないだろう。

 大方、政権争いに敗北し国を追われた巫女だった――というのが、初音の母の出生といったところだった。


 とはいえ、問題は初音に後ろ盾がないことが明らかになったことではない。

 初音のような娘に、巫女としての素養がない、ということだ。

 いくら母から受け継いだ霊力が強くとも、本人がそれを操れない。学ぶ環境がなければ、霊や妖からすればただの馳走にしか見えないだろう。霊力の強い人間を食らえば、食った側はその霊力を奪うことができるのだから、雑魚妖怪が次々に寄ってくる。

「おい、初音。手を出せ」

「こ、こう?」

 差し出された掌は細く、白魚のようだった。紅葉は初音の掌に手紙と数珠を置いた。


 数珠は、勾玉と水晶を繋ぎ合わせてある。青い数珠に、翠玉色の勾玉の組み合わせだった。


「明晴からだ」

「明晴さまが……?」

 初音は、明晴からの手紙を広げた。


【俺が必ず、あなたを助けます】


 初音には、素養がない。だから、自分の身ひとつ守ることができない。

 本人が守れないなら、――代わりに素養がある者が守ればいい。


「この数珠……明晴さまが作ってくださったの……?」

「おう。昨夜、寝ないで作ってたんだぜ、明晴の奴」

 明晴からの「お願い」は、初音にお守りを渡すから、それを持って行ってほしい、ということだった。

 明晴は青い水晶を手に入れると、初音のために心を込めて数珠を作り、半日かけて術をほどこした。

「災いを避けられるように、まじないを込めてあるらしい。少なくとも、この牢獄を出るまで、お前にちょっかいかけられる妖はいねえぜ。ちゃんと身につけておけよ」

「……ええ」

 初音は言われた通りに数珠を首にかけた。


 父は、恐らく自分を見捨てるだろうと思っていた。そして父の意思に、兄達も異を唱えることはないだろう、とも。

 それでよかった。諦めていた。生きることを。こんな時代だから、致し方ないとずっと自分に言い聞かせていた。


 だが――明晴は、「必ず助ける」と言ってくれる。初音の身を案じて、数珠を作ってくれる。

 それはまるで、初音に「生きてよいのだ」と言ってくれているようだった。


「ところで紅葉。……助けてもらっておいて、何なんだけど」

「ん?」

「明晴さまって……文字を書くのが苦手なのね……?」

「初音、いいんだぞ。字が汚いって言っても」

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