三、
「お待たせ致しました。夕餉でございます」
夕餉の膳を運んで来たのは、やはり別の侍女だった。
「初音さん、ちゃんとご飯食べられてるのかな」
「罪人だから、どうだろうな。まあ、死なない程度に……ってところじゃないか?」
後ろ足で首の付け根を掻きながら
「まあ、いいからまずは食え。初音が心配なのは分かるが、まずは自分のことを優先しろ。腹が減っては思いつくことも思いつかなくなるぞ」
「う、うん。そうだよね。いただきます」
明晴は手を合わせた。
折敷の上に置かれているおかずは、味噌で炊いた牛蒡、大根と魚肉の汁物、雉肉の味噌焼き、茄子の味噌漬けである。
全体的に味が濃いので、みるみるうちに飯がなくなっていく。
「そういえば明晴。お前、過去見なんていつ覚えた?」
明晴がおかずを減らすのを横で見守っていた紅葉が片目で見上げた。
陰陽道の術は、ひと通り教えて来た。だが、過去見は教えた覚えがない。
「過去見の術? 知らないよ、そんなの」
明晴は飯を掻き込み、汁をすすった。
「え、じゃあさっきなんだって
「まさか」
確かに何かと話していくうちに仙千代とは親しくなった。しかし、仙千代はあくまでも信長の近習である。出会って日の浅い明晴に情報をくれるほど口は軽くない。
「じゃあ、誰が」
「いるでしょ。信長さまのことをよく知る人。そして、初音さんとも関わりのある人。その人が教えてくれたんだ」
「……お前、まさか……?」
ごくん、と食べ物を飲み込みながら頷く。
紅葉は顎が床に落ちそうなほど、あんぐりと口を開けていた。
◇◆◇
遡って、昨夜のこと。
仙千代から、初音が投獄された件を聞いた明晴は、何とかして彼女を救えないかと悩んでいた。しかし、牢屋の前には厳重な警備が敷かれており、昼間のうちには軽々しく近寄れない。
式神を使って様子を探るしかないか――と思っていた時だった。
「陰陽師どの」
糟糠の侍女が、明晴を呼び止めた。
侍女は、中奥まで来るように、と明晴に言った。
「
「……濃姫さま?」
信長の正室、濃姫──
織田家ゆかりの人物のなかで、最初に明晴の幻術を見た者だ。
身分を隠してお忍びで城下に来た帰蝶に、初音はお供をしていたのだった。
侍女に連れられ中奥に行くと、帰蝶は縁側に座して庭を眺めていた。
庭では、まだ幼い子ども達が鞠を追いかけてはしゃいでいる。信長の子ども達だろうか。
あの日、はじめて
もう四十近いはずだが、外見はまだ三十代前半と言っても充分通りそうだ。
「如何した、陰陽師よ」
低く艶のある声が明晴の耳朶を打つ。
「何を悩んでおる」
「え、や……なんでもないです」
「ふっ、嘘を申すな」
帰蝶は口元を袖で隠しながら微笑んだ。
「わらわには幻術といった類は扱えぬ。が、そんなわらわですらそなたの心を読むは容易いぞ。──初音のことであろう」
帰蝶の耳にも、初音の一件は届いていたようだ。奥を管理しているのは正室なのだから、当たり前だが。
「あの……帰蝶さまの方から、信長さまに進言していただくことはできませんか? 初音さんではないんです。火を放ったのは、坊主の生霊なんです」
「……坊主の、生霊? 詳しく聞かせよ」
「……あの日、俺は初音さんを助けるために、初音さんの局に駆けつけました。その時、初音さんの局の前に、坊主がいたんです!」
体はところどころ透け、消えかけた黒い焔のように揺らめいでいた。その坊主は術を使い、初音の局に火を放ったのだ。
犯人はあの坊主で間違いない。初音に咎はないと、明晴はその目で見ている。
「無理じゃな」
帰蝶は素っ気なく言った。
「なんでっ」
「それを誰にでも分かるように証明できるかえ?」
切れ長な、
「あの刻限、あの局にいたのは初音ひとり。そうでなくとも、初音は怪しい素振りを見せておった」
数日前から寝込んだり、険しい顔をしていたり。
それらが全て企てを抱えていたためであれば。
偶然が重なった結果、初音の潔白を黒く塗りつぶすこととなっている。
「陰陽師よ。この岐阜において、人ならざる者を見る才を持つ者は多くはない。わらわも殿も、そなたの式神を見ることすら叶わぬ。己の目で見ぬ限り、そなたの陰陽術すら偽りに違いないと、疑う者は少なくないはず。わらわも実際にこの目で見るまでは、そなたの奇術を疑っておった」
「……でも、実際にそうなんです。見えるものだけが全てじゃない」
「その通り。だが、見えるものでなければ、人は物事を信じられぬ。……初音のこと、助けたいかえ?」
「……はい!」
「ならば方法はある。──見える形で証明すればよいだけよ」
紅を塗り重ねた赤い唇が弧を描く。
明晴は帰蝶の言葉の続きを、どきどきしながら待った。
◇◆◇
「その時、帰蝶さまが教えてくださったんだ。3年前──信長さまは暗殺されかけたことがあるらしい」
3年前の春。
越前朝倉攻めの途中、
伊勢方面へ抜けるために、近江の千草越えを通過していた信長を銃弾が襲ったという。
「もっとも、12間くらい離れていたからかすり傷だったらしいけど……。」
「いや、それ相当の手練だぞ」
火縄銃の精度は、それほど高くない。
戦国時代において武器といえばもっぱら弓矢や槍、あるいは投石などであった。
「え、でも
信長の重臣の娘が率いる200人の鉄砲隊は、かなりの手練であると聞いている。扱いさえ慣れれば、女子どもであろうとも簡単に扱えるものだと思っていた。
「意外と反動が強いんだよ、鉄砲は。慣れればいいけど、慣れるまでが大変らしいぜ」
実際戦場では、弾を命中させることよりも、「音」による威嚇で馬を動揺させて、兵士を振り落としたり、士気を下げたりすることが目的であった、とする説もある。
この頃はまだ、鉄砲は新しく導入されたばかりで、第一の武器とまでは言えなかったのは確かである。
「少なくとも明晴みたいな細っこい腕じゃ、この距離でもかすり傷負わせられないだろうよ」
「むむむ……」
「で、3年前に信長の暗殺を企てたのが、初音の局に火を放った坊主だろうって?」
「敵はそろそろ、油断してくる頃だと思うんだ」
なぜその坊主が信長を殺そうとしたのかは分からない。
しかし、3年の間、その坊主は捕まらなかった。
12間も先から射撃するあたり、相当な自信があったことは間違いない。3年逃げられたのなら、油断して、信長の前にまた現れてもおかしくない。
「……ってなわけで、『詳細は言わずに、でもなんか意味深なこと言って信長さまを怯えさせよう作戦』を決行したってわけ」
「名前ださっ! ていうかそれ、濃姫の入れ知恵だったのかよ……」
帰蝶にとっても、信長を脅かす真似をした坊主は許し難い。いい加減捕らえたいというのは本音だろう。
『初音を救いたくば、手柄を挙げるしかない。
術で生霊を飛ばしたと言うならば、それでよい。だが、生霊を捕まえることは、いくら安倍晴明の子孫といえども容易くはあるまい。
ならば──その者を油断させた後、本人を殿の御前に引きずり出せ』
きっと、それほど遠くないうちに敵は現れる。生霊ではなく、本体が。
人を最も弱くするのは慢心。
自分は捕まらないと油断した時が狙い目だ。
「紅葉、お願いがあるんだけど──」
明晴は、一通の札を紅葉に差し出した。
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