二、
ぴちゃんっ。
水が跳ねる音がする。時々聞こえる鳴き声は、鼠のものだろうか。
本来なら恐れるはずの鼠や虫の気配も、今の
――……ノ娘……………………ヒメ……名ヲ………
地を這うような恐ろしい声に、初音は耳を塞いだ。この恐ろしい声に比べたら、虫も鼠も恐れるに足らない。
むしろ、一瞬でも意識を反らさせてくれるのだ。感謝に近い念すら抱いている。
火付けの罪で牢に入れられてから、どれくらい経っただろう。
もう長いこと入れられている気がするが、実際には2日程度のはずだ。
火をつけた覚えはない。そんなことをしなければならない理由はない。
実家にいた頃、初音に居場所はなかった。
飯を奪われたわけではない。殴打されたわけではない。しかし、兄弟のなかで唯一母親が違う初音は、どこか疎外感を覚えていた。正室も初音を我が子として引き取ってはいたが、自分の子ではない初音にどこか壁を作っていたように感じる。
唯一、異母姉の
父も、菫姫には幼少の頃から次々に縁談を持ってくるのに、初音には期待していなかった。初音には、後ろ盾になる母の実家というものがなかったからだろう。年頃になった今でも、初音に縁組を寄越したことはない。
一所懸命働けば、そのぶん認められた。農民だろうと足軽上がりだろうと、
(そんな御屋形さまのお屋敷に、なぜ火を放たなければならないの……)
しかし、誰も信じてくれないだろう。初音が見た光景を。
あの時、初音が寝ていた局には、坊主がいた。恐らく、生きているものではない。体はところどころ透け、炎のように揺らめいていたからだ。
あの坊主は、初音に菫姫の名を呼べと強いながら、奇術を使って屋敷に火を放ったのだ。
(私のせいで、菫さま達にまで咎が及んだらどうしよう)
菫は、ようやく婚約が決まったのだ、と先月の文にしたためてあった。
もし初音の罪のせいで、その縁談が破談になってしまったら。詫びても詫びきれない。
どうかうまく切り抜けてくれますように――目の前にいない神に縋るしか、寒い牢獄にいる初音にできることはなかった。
***
朝餉が終わった頃、
毎朝の占いで、信長の運勢を見ること。――それが、信長が課した、明晴が
しかし、先刻の火事から逃げる際に負傷したと聞いている。そのため、明晴は無理に部屋に来なくてよいとし、呼びつけることはしていなかった。
ところが、昨晩床につこうとした際、枕元に明晴から手紙が届いていたのである。名前を見ずとも、信長には明晴からの手紙だと分かった。小姓達ではなく、恐らく式に届けさせたのだろう。余程大事な用向きらしい。
しかし、信長はそんなことより、言いたいことがあった。
「明晴、まず言いたいことがある」
「なんでしょう」
「そなた、ちゃんと手習いはしておるか? 先日から、まったく成長の兆しが見られないのだが」
ぎくり。
明晴が目に見えて肩を強張らせた。
どうやら、先日与えた見本は活用されていないらしい。せっかく信長が手ずから見本を渡したというのに。
思わず説教をしかけて、信長はやめた。この年頃の童は、大人しくしているのは苦手なものだ。
信長とて、同じ年頃の頃はじっと座っているのは苦手だったし、傅役を泣かせたものである。今だって、本当なら戦場で率先して馬を駆けたいところぐっと堪えているのだった。
いずれこの少年を召し抱えたら面白そうだ――と思っていたが、今のままではいただけない。
だが、それはどうでもいい。明晴がなぜ、わざわざ人を介さず式神を通じて文を出したのか。
明晴は三つ指を突いて深々と頭を下げた。
「信長さまに、お願いがございます」
「初音を殺すな、というのは聞けぬぞ」
すかさず切り返すと、明晴がむぅ、と顔を顰める。感情豊かな童に、信長は思わず笑いそうになった。
信長は明晴という少年を存外気に入っていた。
感情豊かで、媚びて来ない。毎朝の占いでも、普通なら信長にとって都合のいいことを並べるはずなのに、明晴はそうしない。不都合なことでも包み隠さず言い、それを避けるために必要な物を指導してくるのである。
だが――いくら気に入っている相手とはいえ、信長にも聞けないことは、ある。
火付けは死罪というのは、大古の昔からの掟であった。
「でも、初音さんがやったという証はないでしょう」
「初音がやっていないという証もなかろう。それも、陰陽道の術に頼らず、凡人にも証明する方法が」
「それは……そう、ですけど……」
明晴は膝に乗せていた拳を震わせた。
「でも、信長さまだって、初音さんのことは気に入っていたんでしょう?」
「であるか」
信長に、情に訴えかける方法は通じない。それとこれとは別問題だ。
そしてあの場で、初音を庇う方法を、信長は知らない。
火元は初音がいた局からであり、あの刻限は、他の侍女達は局にいなかったという。
火をつけられたとすれば、初音しかいない。
「でも、本当なんです」
明晴は食い下がった。
「初音さんは、何もしていません。坊主がやったんです」
「坊主?」
信長は目を見開いた。明晴の表情が輝く。
「そうなんです。なんか、鉄砲を持った坊主? が、初音さんの局の傍にいたんです。俺、この目で見ました」
「鉄砲を持った坊主、とな」
信長は明晴を手招きした。近づいてきた明晴の胸倉を掴み、自身に引き寄せる。
驚いた明晴に、「誰に聞いた」と、低音で囁くように問うた。
「そなた――3年前の件を誰に聞いた」
信長は、明晴の陰陽術を信じ切っているわけではない。
占いは、暇つぶしの一環に過ぎない。信長が見た奇術とて、何かしら種はあるだろう。館に招き入れたのとて、安倍晴明の子孫を自称するやせこけた童を哀れに思ったからだ。
明晴が接触するとすれば、初音と
「……あの一件を放置したら、きっと信長さまは、近日中にまた襲撃されます。敵は、そろそろほとぼりが冷めただろうと、今度こそ信長さまの命を狙ってくるでしょう。特に、初音さんを咎人として死罪にした後がもっとも危うい。――初音さんを見せしめにするより、ここではっきりと
信長は明晴の胸倉から手を離した。よろけた明晴がその場に尻餅をつく。
「……考えておこう」
信長は明晴を見下ろした。
本当に、この子どもが“あの一件”を陰陽道の術とやらで探ったと信じたわけではない。城下にいる頃にたまたま耳にしただけの可能性が高い。
「明日!」明晴は叫んだ。「明日、信長さまを狙う者が、信長さまの命を脅かすかもしれませんので、お気をつけて」
明晴は言い終えると、「おやすみなさい!」と天守の
「……締まらぬ奴よな」
信長は小さく噴き出した。
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