3、予言

一、

 火事は、火の勢いの割にはそれほど被害はなかった。

 屋敷は燃えてしまったものの、死人はなし。一番手傷を負ったのが明晴あきはるだったが、明晴の怪我の場合、転んで額を割ったせいである。紅葉こうようからは「ばーか」と侮られ、蹴りを食らった。



 しかし――怪我人がいなかったから、「はい終わり」とはならない。



 この時代、建物は主に木材で造られる上に、自然の中に建っている。火の回りも現代より早い。一歩間違えれば、その建物にいた者は全員命を落としていたかもしれない。

 火の取り扱いについては、現代よりも厳しく、火付けを行った者は命を持って償わなければならなかった。


 何より――この時、火が放たれたのは、信長のぶながの居城近くの、侍女の館である。

 場合によっては信長や妻妾、子息らも命を落としていたかもしれないのだ。


 そして、出火元にいたのは、初音はつねただ一人である。

 誰が火付けの咎人であるか、疑う余地もない。

 初音は牢に投獄され、処断を待つ罪人の身に落とされた。



***



「なんでだよ!」

 仙千代せんちよから初音のことを聞いた明晴は、バンッ! と文机を叩いた。

 仙千代はやや青ざめつつも、「致し方ない」と、素っ気ない物言いをする。

「一歩間違えれば、金華山きんかざんすべてが燃え、城下にまで被害が及んでいたかもしれない。美濃みのには、他国の商人達も出入りしている。初音どのを特別扱いするわけにはいかないんだ」

「でも、初音さんが火をつけた証拠はないだろ!」

 あの時、初音の部屋の前には、正体不明の生霊がいた。火を放ったのは、あの生霊に違いない。

「初音どのが何もしていないという証拠もないだろう」

 仙千代は目を細めた。

「御屋形さまより、これを」

 仙千代は、明晴の前に巾着を置いた。

「何、これ」

「御屋形さまより、陰陽師どのへの御礼だそうだ。消火していただいたことへの――」

 明晴はその巾着を思い切り払った。巾着の口から、金が零れる。

「いらない! それより、信長さまに会わせてくれよ! きっと、信長さまなら分かってくれる! 下手人は別にいるって!」

「いい加減にしろ!」

 仙千代が怒鳴った。

「御屋形さまは、初音どのひとりの命で済ませようとお考えなんだ!」

「だからそれがおかしいよ!」

 何の罪もないのに、初音が処断されなければならない理由が分からない。

「……初音さんにだって、家族はいるだろ」

 たとえ、妾腹の娘でも、きっと初音の実家の蓮見はすみ家だって、此度の一件を快くは思わないはずだ。

 仙千代は小さく首を振った。方向は、横に。

「蓮見家は、初音どのの所業は御屋形さまに一任されている」

「……そんな……」|

「蓮見家は、織田家に娘を人質にやるよう命ぜられた時、迷わず初音どのを差し出した。嫡女の、《すみれ》菫姫ではなく」

 失った時に手痛いのは、蓮見家にとっては、正室腹の菫姫であるということだろう。


 人の命は、軽い。特に、何の後見も持たない初音のような娘は。


 蓮見家全体を罰さなかったのは、むしろ慈悲を見せた方だ、と仙千代は言う。

 蓮見家は川並衆の筆頭。川並衆を敵に回さないためには、初音ひとりを断じて終わらせることの方が信長にとっては好都合なのだ。

「……御屋形さまは、初音どののことを気に入っていた」

 仙千代は、膝に乗せた拳を震わせた。

 愛想はないが、気配りがあって働き者で、無駄話もしない。

 初音は、8歳の時に織田おだ家に来て以来、ずっと侍女として勤めていたという。信長も帰蝶きちょうもその人柄を気に入っていた。

 そんな娘だからこそ――此度は贄に選ばれてしまったのだ。


 初音が本当に火付けをしていたかは、誰にも分からない。

 だが、明晴の証言を理由に誰も処罰しなければ、家中の輪を乱すこととなる。気に入った相手だから甘いのだ――と。


「一度侮られてしまえば、御屋形さまの求心力はほころぶ。そうならないよう、疑わしきは罰さなければならないのだ。……初音どののように寵を受けていた侍女すら厳しく罰したら、家中の空気は引き締まるだろうから」

「でも……だからって……!」

 明晴は拳を床に叩きつけた。皮膚が割れ、痛みが走る。

 しかし、寒い牢獄に囚われているであろう初音のほうが、もっと痛くてつらいに違いなかった。

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