七、
「ん………むむ……」
文机に齧りつきながら、
「さっきから唸り続けて……。連日のまともな飯に胃がびっくりしているのか。漏らす前に厠行けよ」
「漏らすか! 俺をいくつだと思ってるんだよ!」
「日本誕生して間もない頃から生きている俺からすれば、明晴なんかただの赤ん坊だからなぁ。じゃああれか、腹が減ったのか。何か軽食持って来てもらえばいいんじゃないのか」
「本当に紅葉って俺のこと赤ん坊だと思ってるよね!? 違うよ、筆の扱いに苦戦してただけ」
「筆?」
「護符を作ってたんだ。もうできた」
墨を乾かすため、明晴は掌で文机の上をぱたぱたと仰いだ。
毎日占いをするだけで飯を食わせてもらう。この生活は快適だ。しかし、だからといってほぼ
もともと、町では占い師として、たまにお守りと称して物を売ることもあった。
だったら同じ方法で、護符を作って信長に献上してみようと思ったのだ。
「前に紅葉、言ってただろ。霊力を有する者の持ち物には、何かしらの力が宿るって」
衣にせよ、財布にせよ、人の持ち物には魂が宿る。長く大切にされ続けたものには
流石に明晴の霊力を注いだ護符が歩き出したりはしないが、それでも多少の厄払いにはなるはずだった。
「ま、信長さまが神さまとか信じるとは思えないけど……気休め程度にはなるかなって」
明晴は仕上げに息を吹きかけると、護符を箱に仕舞った。仙千代に相談したところ、「剥き出しはどうかと思う」と言われ、用意してくれた箱だった。
「ねえ、紅葉」
「んー?」
「俺の護符で、病とか祓ったりってできるのかな」
「無理だな」
明晴の問いに、紅葉は首を振った。方向は横だ。
「お前も今、その護符は信長の『気休め』と言ったろう。病だってそうだ。本人が治そう・治したいという気持ちが重要なんだ。……
昨日の夕餉も、今朝の朝餉も、食事を持ってきたのは初音ではなく、別の侍女だった。
初音は昨日の昼過ぎから床に伏している。もともと体が弱く、時折寝付くことは多かったが、今回は特にひどかった。
仙千代いわく、今すぐ宿下がりさせられることはないらしい。
『初音どのは川並衆頭領の娘。でも、ご母堂さまは亡くなっている上、もとの身分も低いらしい。後ろ盾になってくれる親戚もいない。ご実家には何年も帰っていない。奥方さまも、里に戻すのは最後の手段とお考えだ。岐阜の方が
だが、それは”今”に限ったことである。あまりにも快癒しない場合は、城内にこれ以上の穢れを広げないためにも、初音は実家に戻される可能性が高い。
明晴には、家族がいない。家族に近い存在は、紅葉くらいのものだ。
実家に「居場所がない」と感じる疎外感がどのようなものか、理解することはない。
ただ――一度関わったことのある相手だ。もしできるなら、健やかに落ち着いて生きていてほしい、とは思う。
明晴は新しい紙をもう一枚取り出した。さすがに護符を一枚だけ、というわけにはいかない。
黙々と作業をしていると、もどかしさややるせなさを考えなくて済みそうだった。
***
護符を完成させた明晴が御殿を訪れると、箱を覗き込んだ信長は顔を顰めた。
「明晴、そなた――」
「な、なんでしょう?」
まさか「こんな胡散臭いものを出すとは無礼な!」と手打ちにされるのでは、と明晴が怯えていると、信長はぼそりと言った。
「そなた、字ぃ汚いな」
「そ、そっち!? ていうか、失礼な!」
明晴は子犬のようにキャンキャン吠えた。
「御札に描かれている文字なんてこんなものですよ!」
「いや……熱田神宮の神官は綺麗な字であったが……」
「じ、神宮の神官さんと、陰陽師の端くれは違いますから! というか、信長さまは、陰陽道の文字なんて知らないでしょ!」
「いや、信長の言葉は間違っていないぞ」
見えないのをいいことに信長の脇息の周りをうろちょろしたり、信長の肩に飛び乗ったりしながら、紅葉が言う。
「明晴。お前の字は、汚い」
「ひ、ひど……!」
明晴は頬を膨らませた。
「こちとら筆を持ったのは最近なんだぞ!」
字の書き方は紅葉から一通り教わった明晴であるが、それは全て枝を使って地面に書く、という方法だった。
木の枝で地面に文字を書くのとは違い、筆の扱いは力加減が難しい。文字はみみずのようにうねり、墨も跳ねるし、紙もよれてしまう。
「そうであったか」
信長は顎に手を当てた。
どうやら、紅葉に向けて言った言葉を自分に言われたと思ったらしい。
「儂が傲慢であったな。民のなかには、文字を読めぬものもいるというに。無礼なことを言うてしまったな。許せ」
信長はあっさりと謝罪を口にした。その態度に、明晴は却って呆気に取られた。
「なんじゃ」
信長が首を傾げる。
「いや……なんか、その……お世話になってから思うんですけど。信長さまの印象が、話に聞いていたのと全然違うなって思って」
「ふん。どうせろくな噂でないのであろう」
「え、や、そんなことは……」
「構わん。陰口には慣れておる」
信長は脇息に肘を突きながら鼻で笑った。
「大方、巷では
「まあ……はい。で、でも、実際の信長さまの印象は、全然違うなーって」
自分に非があると思えば素直に謝るし、見ず知らずの怪しさしかない自称・陰陽師を館に招き入れることもある。
「儂は己に利がないことはせぬ。そなたを雇い入れることは役に立つと思うた。ゆえに、世話しているだけよ」
「ツンデレだなぁ!」
紅葉は信長の袖をつんつん引っ張りながら、けらけらと笑った。
「素直に、『
うりうり、と肘で突っついてくる紅葉の頭を叩いていると、信長は小姓に、明晴の前に紙の束を置かせた。
「見ていいですか?」
信長が頷いたので開くと、文字がびっしりと書いてある。
そして、その紙の束の隣に、真っ白な、何も書いていない紙が置かれた。
「それはそれとして、いくらなんでも字が汚い。手本に紙を重ねて、覚えるまでな0ぞれ。紙が足りなくなったら追加してやる」
勉強命令に、明晴は思わず床に突っ伏した。
***
「あーあ……」
墨でぐちゃぐちゃに汚した紙に突っ伏しながら、明晴は溜息を吐いた。
占いだけしていればいいはずだったのに、手習いまでしろ、と言われるだなんて、話しが違う。
「信長さまの嘘吐き~……」
「嘘吐き言うな。幸運に思えよ」
気楽に言う紅葉のことを、明晴は思わず睨みつけた。
「紅葉は気楽に言い過ぎ! 筆の使い方なんて分からないよ。紅葉、教えてよ~」
「無茶を言うな。俺の愛らしいこの肉球で筆を持てると思うか?」
桃色の肉球をかざしながら、紅葉はふんぞり返る。
「そんなこと言って。人型になればできるだろ」
「いやだ、めんどくさい。お前は気軽に人型になれとか言うけどな。俺は十二天将でも
あの時、紅葉――
尖らせた唇と鼻で筆を挟んでいると、急に寒気がした。
(なんだ、今の……)
その時、かすかに木材が燃える臭いがした。思わず縁側に飛び出す。
「火事だ!」
紅葉が叫んだ。次の瞬間、爆音が響き渡る。明晴の頬に木の破片が飛んだ。
「あの方角は――」
確か、侍女達の局が集まっている屋敷だ。
(
明晴は合掌し、気配の方角に向けて呪文を唱えた。
「ノウボウアラタンノウ……タラヤアヤサラ――」
瞼の裏に、逃げ惑う女達や、それを助ける男達の姿が見える。
そして、その奥に――もう一人姿が見える。
乱れた髪に、寝衣姿で震える若い娘――そしてその肩にかかる、尖った爪は、人ならざる者特有の毒気を放っている。
「紅葉、東の局に行く! 初音さんが取り残されている!」
「初音が!?」
紅葉を肩に乗せながら、明晴は東の屋敷に駆けた。
ただの見当違いならいい。だが、そうでないのなら。
明晴は懐に作ったばかりの札を何枚か入れると、履物も履かずに縁側から飛び降りた。
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