七、

 護符を完成させた明晴あきはるが御殿を訪れると、護符を目にした信長のぶながは顔を顰めた。

「明晴、そなた――」

「な、なんでしょう?」

 まさか城から出て行けと言われるのでは――と明晴は恐れた。

 しかし、信長が口にしたのはまったく関係のないことであった。

「そなた、字ぃ汚いな」

「し、失敬な!」

 明晴は思わず吠えた。

「御札に描かれている文字なんてこんなものですよ! そもそも信長さまは、陰陽道なんて微塵も学んでないでしょうが!」

「いや、信長の言葉は間違ってないぞ」

 見えないのをいいことに、信長の脇息の周りをうろちょろしながら、紅葉こうようが言う。

「明晴の字は普通に汚い」

「ひ、ひど……! 仕方ないじゃないか、こちとら筆を持ったのは最近なんだぞ!」

 13年間、筆の持ち方すら知らなかった。

 字の書き方は春霞しゅんかに一通り習った明晴であったが、全て枝を使って地面に書くやり方によるものである。

 木の枝で地面に文字を書くのとは違い、筆の扱いは力加減が難しい。文字はみみずのようにうねり、墨も跳ねるし、紙もよれてしまう。


「そうであったか」


 信長は顎に手を当てた。

「儂が傲慢であったな。民のなかには、文字を読めぬものもいるというに。無礼なことを言うてしまったな。許せ」

 信長はあっさりと謝罪を口にした。その態度に、明晴は却って呆気に取られた。

「なんじゃ」

 信長が首を傾げる。

「いや……なんか、その……お世話になってから思うんですけど。信長さまの印象が、話しに聞いていたのと全然違うなって思って」

「ふん」

 信長は脇息に肘を突きながら鼻で笑った。

「大方、巷では第六天魔王だいろくてんまおうだの、大うつけだの、性格が悪くて友達いなさそうだの、好き放題言われておるんじゃろう」

「まあ……はい。で、でも、実際の信長さまの印象は、全然違うなーって」

 自分に非があると思えば素直に謝るし、見ず知らずの怪しさしかない自称・陰陽師を館に招き入れることもある。

「儂は己に利がないことはせぬ。そなたを雇い入れることは役に立つと思うた。ゆえに、世話しているだけよ」

「ツンデレだなぁ!」

 紅葉は信長の袖をつんつん引っ張りながら、けらけらと笑った。

「素直に、『幼気いたいけな子どもが飢えているのを知りながら見過ごすのは忍びない』って言えばいいのに。明晴、言ってやれって! 信長さまのツンデレー、って! ……いったぁ!」

 うりうり、と肘で突っついてくる紅葉の頭を叩いていると、信長は小姓に、明晴の前に紙の束を置かせた。

「見ていいですか?」

 信長が頷いたので開くと、文字がびっしりと書いてある。

 そして、その紙の束の隣に、真っ白な、何も書いていない紙が置かれた。

「それはそれとして、いくらなんでも字が汚い。手本に紙を重ねて、覚えるまでな0ぞれ。紙が足りなくなったら追加してやる」

 勉強命令に、明晴は思わず床に突っ伏した。


***


「あーあ……」

 墨でぐちゃぐちゃに汚した紙に突っ伏しながら、明晴は溜息を吐いた。

 占いだけしていればいいはずだったのに、手習いまでしろ、と言われるだなんて、話しが違う。

「信長さまの嘘吐き~……」

「嘘吐き言うな。幸運に思えよ」

 気楽に言う紅葉のことを、明晴は思わず睨みつけた。

「紅葉は気楽に言い過ぎ! 筆の使い方なんて分からないよ。紅葉、教えてよ~」

「無茶を言うな。俺の愛らしいこの肉球で筆を持てると思うか?」

 桃色の肉球をかざしながら、紅葉はふんぞり返る。

「そんなこと言って。人型になればできるだろ」

「いやだ、めんどくさい。お前は気軽に人型になれとか言うけどな。俺は十二天将でも最強級トップクラスの神力だぞ。人型になると、神力を調節したりしなけりゃならん。面倒くさいし、うっかり屋敷を破壊したらどうするんだ」

 岐阜ぎふ城にはじめて来た時を思い出し、明晴は引き下がらざるを得なかった。


 あの時、紅葉――四神ししん白虎びゃっこ神力じんりきにより、部屋の調度品は飛ばされた。片づけが大変だった、と後になって仙千代は苦笑しており、明晴は詫びを入れたのだった。

 尖らせた唇と鼻で筆を挟んでいると、急に寒気がした。


(なんだ、今の……)


 その時、かすかに木材が燃える臭いがした。思わず縁側に飛び出す。

「火事だ!」

 紅葉が叫んだ。次の瞬間、爆音が響き渡る。明晴の頬に木の破片が飛んだ。

「あの方角は――」

 確か、侍女達の局が集まっている屋敷だ。


初音はつねさんは!?)


 明晴は合掌し、気配の方角に向けて呪文を唱えた。


「ノウボウアラタンノウ……タラヤアヤサラ――」


 瞼の裏に、逃げ惑う女達や、それを助ける男達の姿が見える。

 そして、その奥に――もう一人姿が見える。

 乱れた髪に、寝衣姿で震える若い娘――そしてその肩にかかる、尖った爪は、人ならざる者特有の毒気を放っている。

「紅葉、東の局に行く! 初音さんが取り残されている!」

「初音が!?」

 紅葉を肩に乗せながら、明晴は東の屋敷に駆けた。

 ただの見当違いならいい。だが、そうでないのなら。

 明晴は懐に作ったばかりの札を何枚か入れると、履物も履かずに縁側から飛び降りた。

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