六、

 織田おだ家での暮らしは快適そのものだ。


 雨の当たらない屋根の下、それも筵を体に巻くのではなく、掻巻に身を包んで温かく眠ることができる。

 何より、朝晩温かい食事を食べられるのは嬉しい。泥水ではなく綺麗な井戸水を飲めるし、ネズミを追い回す必要もない。

「これが普通の暮らしなのかなぁ」

「いや、織田家はかなり上等な暮らしだけどな」

 明晴あきはるの手を尻尾で撫でつけながら、紅葉こうようが欠伸をする。

「宿なしどころか野ざらしで暮らしてたお前はかなり悲惨な方ではあるが」

「うん……ネズミは美味しくなかったしね」

「食い物かよ、心配は」

「食い物は大事だよ! 水飲んでお腹壊す心配はしなくていいし、落ち武者狩りも参加しなくていいし。黙っててもご飯出てくる生活を俺は手離したくない。しかも、何より……」

「何より?」

「織田家には、風呂がある」

「風呂かぁ……」

 余談だが、この時代の風呂は蒸し風呂サウナである。沸かした湯ではなく、その湯気で体を洗うという仕組みになっている。

 最初に話を聞いた時は「どういうこっちゃ」と首を傾げた明晴であったが、いざ体験するとその心地良さが堪らなくなった。もう、川に飛び込んでいた頃には戻れない。

「満喫してるなぁ」

「食客っていいよねぇ。ちょっと信長のぶながさまの話し相手になっていれば、あとは城内好きに歩いていいよーなんて。しかも欲しいものがあればなんでも買ってくれるし」

「だからって引きこもりが酷すぎないか? 最近、ろくに外出てないだろ」

「いや、気軽に外出る気になるかよ」

 気軽に町に降りるには、あまりにも金華山きんかざんは険しく、館の立地は悪かった。

「いいか、紅葉。俺の目標は、このまま織田家で信長さまの庇護下でゴロゴロ過ごすことなんだ」

無職ニート宣言するな、陰陽師」

「だって、安倍晴明あべのせいめいの子孫を自称するより、岐阜ぎふ城で信長さまのお喋りしつつ毎朝運勢占っていた方がいいよ、絶対。ご飯は美味しいし、風呂は使わせてもらえるし、布団は寝心地いいし!」

「怠け癖ついてんじゃねえか……」

「つまり、俺は余計なことには足を突っ込まないって決めてるんだっ」

 明晴はふんす、と胸を張った。


(やれやれ)


 紅葉は茵の上で丸くなりながらため息を吐いた。

 明晴は、既に護符の作成に向かっている。今朝の運勢を占いに行った時に依頼されたものだろう。だが、気もそぞろなのか、筆は変な曲がり方をしたり、墨の量が多すぎたりしていた。

「あーあ、勿体ない」

「うるさいなっ! 信長さまからはいっぱいもらってるから、紙なんて……」

 いいつつも、「あとで文字の練習にしよう……」などと言っている辺り、この世に生を受けてから13年もその身に染みつけて来た貧乏根性は簡単に拭えないらしい。


 明晴が気もそぞろになっている理由は分かっている。

 初音はつねという娘のことだろう。


 初音は、明晴が織田家の食客になってから、毎日身の回りの世話を任じられていた。

 しかし、今朝、明晴の朝餉を持って来たのは、別の侍女だった。

 初音は昨晩から体の不調があり、寝着いているのだという。医者くすしにも見せているが状態は良くなく、食事どころか水もろくに飲めていないそうだ。

「……このまま行ったら、宿下りもやむを得ないだろうな」

 紅葉がぽつりと呟くと、明晴が振り向いた。

「信長さまは、最終手段だって言ってた。仙千代せんちよも。初音さんは、故郷くにに居場所がないし。岐阜城ならお抱えの医者もいるから、きっとその方がいいよ」

「……ふーん」

 紅葉は丸い耳をぴるぴると動かしながら、片目を瞑った。

「いつの間にか仲良くなったな」

「は!?」

 明晴の頬がカッと赤らむ。

「だ、誰が……!」

「決まってる。仙千代と、だ」

「あ、せ、仙千代?」

 明晴がきょとんとする。

 紅葉が知らないうちに、明晴と仙千代は互いを呼び捨て合うようになっているし、敬語も外れていた。

「信長さまからのお言伝とか、よく仙千代が持って来てくれるからだよ。その影響」

「ほーん、なるほどね」

 いい傾向であるな、と紅葉は思った。

 明晴には、歳の近い友人と呼べる存在がこれまでいなかった。

 旅で各地を転々としていたためだが、明晴は警戒心が強い。その明晴に心を開かせるなんて、仙千代の意思疎通能力コミュ力は卓越している。

「それともなんだ、明晴。お前、初音と仲良くしていると思われたかったのか」

「そんなんじゃないやい!」

 明晴は、文鎮を思い切り紅葉に投げつけた。

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