六、
雨の当たらない屋根の下で過ごせる。
寝るときは穴の開いた
何より、朝晩温かい食事を食べられることが嬉しい。
朝起きた時は、綺麗な井戸水を飲めるし、ネズミを捕まえて生のまま食べる必要もない。
井戸水で顔を洗っていると、人の気配を感じた。顔を上げると、手ぬぐいが差し出されている。
「言いつけていただけましたら、桶を持って行きましたのに……」
初音だった。初音は呆れ半分、と言った表情と青白い頬をしている。
受け取った手ぬぐいからは、甘い匂いがした。顔を拭くと、初音は「夕べも遅くまで起きておられたそうですね」と言った。
「あ、今、陰陽道のことをちゃんと勉強していて……」
聞かれてもいないのに、勝手に答えてしまう。
初音のことだから、「わたしには関係ないことです」と跳ねのけるだろう――と思ったが、意外にも初音はその場にいた。明晴の言葉に耳を澄ますように聞き入っている。
「あ……油」
「油?」
「すみません、夜遅くまで起きてたら、油がもったいないですよね……?」
初音は、はあ、とため息を吐いた。
「織田家は、そこまで貧しくありません。油くらい、好きなだけお使いください」
油が使い放題というのは、かなり豪勢な話である。
初音もそこそこの名家の出のようだし、金に困ったことはないのだろう。羨ましい発言だ――と思っていると、初音は気まずそうに目を伏せた。
「この後、朝餉をお持ちしますので。お部屋でお待ちください」
いつもは、簡単な台詞だけで膳を上げ下げするだけのくせに――そんなことを言ったらいけないのだろうが、初音が明晴にこんなに長く話しかけるのは、初めてのことだった。
「た、楽しみにしています!」
明晴は思わず声を上げた。驚いたように初音が振り返る。
「織田家の飯、すごく美味しいし……泥水じゃなくて、綺麗な水も飲めるし……。いつもお世話してくれる初音さんには、感謝してます!」
「……料理は料理番が作っていますし、そもそも逗留をお許しになったのは御屋形さまですから。わたしに礼を言う必要はございません」
では、と初音は軽く会釈をすると、
だが、初音なりに明晴の礼に思うところはあったのだろうか。その朝持ってきてくれた膳は、いつもより米の量が多かった。
***
「これが普通の暮らしなのかなぁ」
「いや、織田家はかなり上等な暮らしだけどな」
明晴の手を尻尾で撫でつけながら、
「それでも、乱世においても宿なしどころか野ざらしで暮らしてたお前はかなり悲惨な方ではあるが」
「うん……ネズミは美味しくなかったしね」
「食い物かよ、心配は」
「食い物は大事だよ!」
明晴は吠えた。
水を飲んで腹を下す心配はしなくていい。落ち武者狩りに行かなくても必要な品は貰える。黙っていても食事の心配をしなくていい生活。
人間というのは、一度快楽を知ると、もう元には戻れない。
「それに、何より――」
「何より?」
「織田家には、風呂がある」
「風呂かぁ……」
余談だが、この時代の風呂は
最初に話を聞いた時は「どういうこっちゃ」と首を傾げた明晴であったが、いざ体験するとその心地良さが堪らなくなった。もう、川に飛び込んで震えながら垢を落としていた頃には戻れない。
「織田家の生活、満喫してるなぁ」
「食客っていいよねぇ。ちょっと
「だからって引きこもりが酷すぎないか? 最近、ろくに外出てないだろ。勉強もいいが、少しは遊べ。仙千代だって、武芸の稽古はしているんだろ」
「いや、気軽に外出る気になるかよ」
気軽に町に降りるには、あまりにも
「いいか、紅葉。俺の目標は、このまま織田家で信長さまの庇護下でゴロゴロ過ごすことなんだ」
「
「だって、
今の暮らしを保持したい。この暮らしを守るためとあらば、明晴は何だってする。そう誓っていた。
(やれやれ)
紅葉は茵の上で丸くなりながらため息を吐いた。
明晴は、既に護符の作成に向かっている。今朝の運勢を占いに行った時に依頼されたものだろう。だが、気もそぞろなのか、筆は変な曲がり方をしたり、墨の量が多すぎたりしていた。
「あーあ、勿体ない」
「うるさいなっ! 信長さまからはいっぱいもらってるから、紙なんて……」
いいつつも、「あとで文字の練習にしよう……」などと言っている辺り、この世に生を受けてから13年もその身に染みつけて来た貧乏根性は簡単に拭えないらしい。
明晴が気もそぞろになっている理由は分かっている。
初音という娘のことだろう。
初音は、明晴が織田家の食客になってから、毎日身の回りの世話をしてくれている。
最初は明晴に対して敵意を剥き出しにしていた初音だが、最近は若干態度を和らげている。明晴が真面目に勉強している姿に、思うところがあったのだろうか。
「……ふーん」
紅葉は丸い耳をぴるぴると動かしながら、片目を瞑った。
「いつの間にか仲良くなったな」
「は!?」
明晴の頬がカッと赤らむ。
「だ、誰が……!」
「決まってる。仙千代と、だ」
「あ、せ、仙千代?」
明晴と仙千代は、最近では互いを呼び捨てにしあったり、敬語を使わなくなったり、随分と親しくなっていた。
「信長さまからのお言伝とか、よく仙千代が持って来てくれるからだよ。その影響」
「ほーん、なるほどね」
いい傾向であるな、と紅葉は思った。
明晴には、歳の近い友人と呼べる存在がこれまでいなかった。
旅で各地を転々としていたためだが、明晴は警戒心が強い。その明晴に心を開かせるなんて、仙千代の
「それともなんだ、明晴。お前、初音と仲良くしていると思われたかったのか」
「そんなんじゃないやい!」
明晴は、文鎮を思い切り紅葉に投げつけた。
「いってぇ! 何すんだよ、明晴!」
「うるさいな! 人のことからかいやがって! 尻尾結んじゃうぞ!」
「ぎゃーっ、何するんだよ! バーカ! バカ晴!」
「誰がバカだよっ、お前なんか、お前なんか!」
諍いが激しさを増しているせいで、明晴も紅葉も気が付かなかった。――戸の前に人が来ていることに。
「……あなた達、何しているんですか」
初音である。初音はいつもの気難しい顔に戻っていた。手には、洗濯された衣がある。
初音は衣を定位置に置き直すと、「調度品と御身を壊しませんように」と言いおき、出て行ってしまった。
「……呆れられた」
「あーあ、残念だなぁ、明晴!」
「だからお前のせいだろ!」
せっかく最近仲良くなれそうだったのに――と、明晴は投げ落とした紅葉の上で地団駄を踏んだ。
夕餉の膳を持って来た時に挽回できるだろうか。そんなことを考えていたのだが、その日の膳を片付けに来たのは、初音ではない、別の侍女だった。
明晴の部屋を去って一刻ほどしてから――初音が倒れたのである。
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