四、

 ずきん、と頭が痛む。

 初音はつねは袖の下から丸薬を取り出すと、2粒まとめて口に入れた。巾着に入った丸薬は、残り5粒。また医者くすしに頼んで新しいものを貰わなければならない。

 噛んで潰した丸薬から苦味が口内いっぱいに広がり、ますます眉間に皺が寄る。

 文机に伏せながら、初音は息を吐いた。


 自称・安倍晴明あべのせいめいの子孫を名乗る少年付きになってから、十日が経つ。


 はじめは、「なぜ自分が、出自も知れない怪しげな子どもの世話をしなければならないのか」と不満たらたらであった。しかし、実際に晴明の子孫の世話をするのは、容易であった。


 明晴あきはるは、初音にあまり手間をかけなかった。


 毎朝、信長のぶながの運勢を占う以外は、ほとんど部屋に籠りきり。時折、式神とともに庭を散歩したりはしているが、他の家臣や来客のように、やたらと初音に声をかけたり、ふみや歌を押しつけたりしてくることもない。

 一番賑やかなのは食事の時だが、それだって初音に酌を命じることはないし、食べ終わった膳は部屋の前に置いておいてくれるから、楽なものだ。

 もともと、明晴は市井の出である。侍女の使い方を知らないのもあるだろうが。


(かえって助かったかも……)


 初音は肩からずり落ちた小袖を羽織り直した。

 もともと、生母ははに似て丈夫な性質ではない。時々体を壊しては、勤めを休ませてもらうことはあった。

 しかし、ここ3日ほど、悪化していた。今日は頭痛と吐き気に加え、寒気までする。

(病……ではなさそう)


 ずきんっ。

 潰されそうな頭を抱えながら、初音は桶に顔を突っ込んだ。今朝から何も食べられていないせいで、吐き出したのは胃液だけだった。



 ───……ノ、…………ヨ……振リ返レ……



 身の毛もよだつような低い声が聞こえるようになったのは、いつからだろう。

 

 物心ついた時から、それらは常に初音の傍に"いた"。


 "それ"は、いつも初音のことを見ている。食事中、務めの最中、寝ている時。

 初音のことをじっと睨みつけているのだ。


 ───コッチヲ見ロ……!!


「いやっ!」


 初音は思わず手を振り回した。手がぶつかった拍子に、文机の上に置いていたものが床に落ちた。

 両手の平で耳を塞ぎながら、初音は肩を震わせる。


 "それ"は、いつも初音のことを見ている。

 ほんの刹那の間すら、目を逸らすことなく、じっと見つめている。


 ──恐らく、初音が死ぬまでずっと。



***


 魚が焼ける匂いと、米の匂いがする。

「朝飯だぁ……」

 明晴はもそもそと床から抜け出すと同時に、戸が開く。

 入口にいたのは初音だった。


「お顔を洗う湯桶と、御着替えをお持ち致しました」

「あ、どうも……」


 初音が用意してくれた衣に袖を通し、髪を結う。最初は櫛の使い方がよく分からず四苦八苦していたが、初日に初音がやり方を教えてくれたので、最近ではできるようになってきた。紐を使って髪をくくり終え、顔を洗う頃に初音が朝餉を持って戻ってくる。

 今朝の膳も美味しそうだった。明晴はごくりと唾を飲み込む。今日の朝餉は、


 ・焼き魚

 ・強飯こわいい

 ・茄子の味噌漬け

 ・大根と牛蒡と青菜の塩汁


 である。

 初音は明晴の前に折敷を置きながら、この後の予定を告げた。

「御屋形さまから、中奥にある東の間に来るように、と。後ほど、万見まんみどのがお迎えにいらっしゃるそうです」

「はい、分かりました。じゃあ急いで食べないと」

 初音が下がったのを確認すると、明晴は米を急いで掻き込んだ。

「忙しいなぁ、意外と」

「うん、でも占いが終われば、あとはのんびりできるからね」

 汁をすすりながら、明晴は外を見た。

 少し早めの小春日和のような心地よい空だ。

「今日は戻ったら、お散歩でも行こうか」

「俺は飼い犬か」

「どっちかって言うと猫だよね、紅葉こうようの場合」

 明晴は大根を噛みながら、残りの米を掻き込んだ。


***


「……って、だめだろ!」

 信長の呼び出しから下がるなり、明晴は吠えた。びくっ、と肩を揺らしたのは、万見仙千代せんちよである。

「術師どの、如何なされた」

「如何もなにもないです! のんびりし過ぎだって! え、ほんとに占いだけで陰陽師を下がらせる人がいる!?」

 織田家に来てから、10日が過ぎた。

 その間、信長が明晴を呼び出したのは、朝だけだ。明晴が朝の運勢を占う姿を面白がって見ながら、その日の予定を聞いてくる。それも、自分のではなく、明晴の予定を、である。


(確かに、俺は織田家に逗留の身……食客ではある。家臣ではないから、自由にしていていい、も分かる。でも、だからって暇すぎない? さすがにこれじゃまずい)


 そもそも信長の思い描いていた人物像イメージが、実際の信長と違う。


 今まで聞いていたのは、第六天魔王というあだ名だったり、比叡山の焼き討ちだったり、苛烈な一面ばかりだ。

 しかし、明晴の知る信長は、違う。存外優しい人だ。

 食事は足りているか気にかけてくれたり、甘いものは好きかと言って「金平糖」という南蛮菓子を分けてくれたり。


 金平糖を口の中で転がしながら、明晴は自分の置かれた立場がまずい、と感じていた。

「このままじゃ、ほぼほぼ無職ニートになってしまう……! もう少し何かしないと」

「別に……術師どのはお役目を果たされておりますし、問題ないのでは?」

「だからって、今日の労働時間、俺、四半刻30分ですよ!? さすがに短すぎます! いくら早寝早起きだからって……!」

「術師どのはご存じないか?」

 仙千代が小首を傾げた。明晴も釣られて首を傾げる。

「武士は意外と、活動時間は短いです」

「えー!?」

「たとえば私の1日ならば……ですが」


 午前4時頃:起床。行水し身支度を整え、屋敷内を見回る。

 午前6時頃:出仕。宿直とのいの者達から昨夜の申し渡しを受け、信長の身支度を手伝う。

 午前8時頃:朝食。人によっては屋敷で食べてくる者もいるが、小姓の大半は家から持って来ている。まだまだ育ち盛りの子ども達。自宅で朝餉を食べるとしたら5時前後なので、腹持ちが悪い。

 午後2時頃:宿直でなければ帰宅して夕餉

 午後6時頃:閉門。屋敷の門を閉じ、急用や信長の使いでなければ基本的に来客も引き受けない。

 午後8時頃:就寝。屋敷内を見回り、火元の始末をして床に入る。


「無論、日によって事情は違います。私は小姓なので、御屋形さまから急な宿直とのい不寝番ねずのばんなどを命じられた時でなければ、こういう感じです」

「ちなみに、朝食後から帰宅までの間は何を……」

「御屋形さまの武芸や狩りのお供をしたり、あとは武具の点検や城の警備。武術、茶の湯、歌などの稽古に勤しんでいますが、それだけです」

「いや、結構やってるじゃないか!」

 このままでは陰陽師・安倍晴明の子孫ではなく、無職のただ飯ぐらいになってしまう。

「では、陰陽道に関することを勉強しては?」

 東側には、書庫に使っている蔵があるという。小姓達が学芸を行う際は、そこから仕えそうな書物を持ってくることが多い。

「奇術師どのは食客ですし、御屋形さまもお許しくださるかと」

「勉強か」

 悪くはない。しかし、問題がある。

「でも俺、紙も墨もないし……流石に借りた書物、覚えられるほど借りっぱなしっていうわけにはいかないし……」

「紙と墨?」

 仙千代が瞬きしながら言った。

「それなら、頼んで差し上げましょうか?」


***


 仙千代が明晴の部屋を訪れたのは、それから更に5日後のことだった。

「紙は、こちらになります。墨はこれ。水が必要なら、いつでも汲んでいただいてよいとのことです」

「ほ、本当に用意していただけるなんて……」

 流石に無理だろうと思っていたのに、仙千代は「この後すぐにでもお持ちします」と言ってしまったので、明晴の方がかえって慌てたくらいだ。

 そして、紙とあわせてダメ元で頼んでいたものがある。


 明晴はこれまで、簡単な幻術や呪符、占い以外やったことはなかった。だが、せっかくの申し出だと紅葉こうように急かされ、とりあえず陰陽師に必要なものを書き出し、仙千代を経由して信長に頼んでもらっていた。

 そもそも必要なものを書き出すこと自体、はじめての経験だった。庶民は書き出しメモなどしない。紙も墨も、身近ではない。仙千代は「万一間違いがあってはいけないので」と言ったが、明晴は「万一書き損じたらどうしよう」と少し怯えていた。


 箱の中身は方形の台座と、円形の天盤がある。明晴が組み立てるのを仙千代は興味深そうに見ていた。

「それはなんですか」

「これは、『六壬式盤りくじんちょくばん』です」

「りくじんちょくばん……って、占いに使う?」

「そうですそうです」

 六壬式盤は、陰陽師にとって欠かせない道具である、と紅葉が言っていた。


 六壬式盤とは、六壬式占りくじんちょくせんによって吉凶を判断するための道具だ。

 地を表す「輿」と呼ばれる方形の台座と、天を表す「かん」と呼ばれる円形の天盤で作られている。

「あれ……」

 仙千代が天盤を指差した。

「ここに書かれてる『騰蛇とうだ』『天空てんくう』『白虎びゃっこ』というのは、明晴どのの従えておられる十二天将のことですか?」

「そうです。地盤には二十八宿、十干、十二支、四隅の八卦が記載されています。天盤には、万見さまの言うとおり、十二天将などの名前が記載されてるんです」

 天盤の十二天将を地盤の十二支に合わせることで、簡易的な計算を行う。

「もうひとつ入っているのも占いの道具なんですか?」

「そっちは、『渾天儀こんてんぎ』と言います。天文上の運行の組み合わせや配置を観測するための道具です」

「計算とか観測とか……。陰陽師って、もっと占いとかに対して霊的な力を発揮するものかと思っていました」

「そんなにガッカリしないでくださいよ……」

 露骨にしょんぼりとする仙千代に、明晴は肩をすくめる。


 そもそも陰陽師とは、元来朝廷に仕える役職のひとつに過ぎない。

 安倍晴明が異質なだけで、本来は暦を数えたり天文学を研究したりするのが主な役目だ。


 晴明や明晴のように、幻術を使ったりすることは、本来の役目とは異なる。

「あの、ところで万見さま」

「どうされた?」

「本当に俺は、ここにいていいんでしょうか……」

 明晴は恐る恐る問いかけた。

 織田おだ家に置かれてから、毎朝信長の運勢を占う以外、何もしていない。今のままではタダ飯食らいに堕ちてしまう(というか既に堕ちている)。

「御屋形さまは、それではならぬと仰せなのですか?」

「そんなことはないんですけど……。でも、よくしていただき過ぎて……肩身が狭いというか」

「左様ですか。ならば、私達と一緒でしょう」

「万見さま達と同じ……?」

「天文学を学び、星を読み、本来陰陽師がすることをしていればいいんです。私達が武芸を学ぶところ、明晴どのは陰陽道を学んで修行を積めばいい」

 確かに明晴の術は、気まぐれに十二天将が現れて施してくれた知識がほとんどだ。仕える幻術もたかが知れている。


(御屋形さまは……これからどうするおつもりなんだろう)


 明晴は式盤を撫でた。くるくると回る盤を眺めながら、自分の運命を占いたくなった。

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