五、

 むしろにくるまりながら、明晴あきはるは月明かりに巾着を掲げた。

 美しい金糸でほどこされた蝶の刺繍。どうして気づかなかったのだろう。

「あのさ、紅葉こうよう。確か、岐阜ぎふ城の殿さまの奥方って……」

濃姫のうひめだ」

 紅葉はぴしゃりと言った。

「岐阜城が稲葉山いなばやま城と呼ばれたいた頃の城主、斎藤道三さいとうどうさんの愛娘だな。確か真名は──帰蝶きちょうだったはず」

「……ひょっとしてさぁ、あの時来てた女の人って、その帰蝶さまだったりしないよね?」

「普通の姫さまなら、城を抜け出して城下に来たりはしないだろうよ」

「だ、だよね!」

 明晴は紅葉の両脇を抱え込んだ。

「美濃の前国主の姫君が、城下で胡散臭いもの見物になんて来ないよね!」

「自分で胡散臭いって言うなよ」

「あー、良かった! きっと、俺の思い違いだよ。普通のお姫さまが来るわけない」

「……普通のお姫さまなら、な。ただ、帰蝶の夫はあの織田信長おだのぶながだぞ」

「ゔっ」

 手から力が抜ける。ぼとっ、と音を立てて紅葉が落っこちた。


 織田信長。


 その名を知らぬ者は、日本ひのもとにはいない。

 かの今川義元いまがわよしもとを討ち取り、尾張平定をなした男。そして今では天下布武を掲げ、天下統一しているという。


 血も涙もなく、必要とあらば身内も殺すような恐ろしい男だと、もっぱらの噂である。


 そんな男の使者が今日の昼間、明晴を尋ねてきた。

 使者は明日の正午に岐阜城に登城するように、と明晴に命じた。まだ涼しげな双眸と色素の薄い髪が特徴的な美しい青年は、万見仙千代まんみせんちよと名乗った。

 そしてもうひとり。仙千代とともにいた黒髪に翠玉の瞳を持つ少女は、先日帰蝶とともに見物に来ていた娘である。

「……逃げられないかな」

「まあ、無理とは言わん。だが、相手はあの織田信長だぜ? もし目的のお前がいないとなったら、帰蝶はともかく、使者の万見仙千代とあの女の子はどうなるだろうなぁ」

 武家にとって、御役目を損じるとはそういうことなのだ──と、紅葉は暗に匂わせる。

 見ず知らずの者とはいえ、見捨てるのには気が引ける。2人とも、明晴より少し年上くらいの、まだ子どもと呼んで差し支えないくらいだろうに。

「うぅっ、でもあの尾張のうつけに会うなんて怖いよ……」

「散々詐欺行為働いていたくせに何言ってんだか。……ま、安心しろよ」

 紅葉は、白い縞模様の尾で明晴の膝を撫でた。

「もしもの時は、お前を背負って逃げてやる。信長だって人間だ。その気になれば、この紅葉さまにかなうわけない」

「紅葉……ありがとうっ!」

 明晴は紅葉をきつく抱き締めた。ぐぇっ! と、紅葉は潰された蛙のごとき悲鳴を上げた。




***




 明晴の寝息を聴きながら、紅葉は力を抜いた。ふわり、と風もないのに紅葉の尾が揺れる。そして瞬きする間もなく、その場には小さな獣ではなく、白銀の散切り頭に琥珀の双眸を持つ青年が現れた。


 ──お前がその姿を取るのは珍しいな


 ふわり、と桃の花の匂いが漂う。

「……春霞しゅんか

 紅葉が呼びかけると、その場に若い女性が現れた。澄み切った空のような長い髪を豊かに結い上げ、明風の装いをしたその女人は、明晴の式のひとりである。

 春霞と呼ばれる女人は、明晴の顔を覗き込んだ。

「よく眠っているな」

「明日は早いからな。さっさと寝ろと言ったら本当に寝た」

 呆れる紅葉に、春霞は「明晴らしいな」と笑う。

「しかし、時の権力者に魅入られるとは。さすがはあの安倍晴明の子孫だな」

「さぁな。本当に晴明の子孫だかどうか」

 家系図に載らないほど遠い子孫である。土御門の名を冠していない明晴が、晴明の子孫であるかは、かつて仕えていた彼らすら断言し難い。

 だが、今の彼らの主は、安倍晴明ではない。この少年なのだ。

「……春霞。お前に頼みがある」

 明晴の呼吸の音を聴きながら、紅葉は同胞に声をかけた。

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