第68話 小リスの誘惑
――ふと気が付けば、シロウは誰もいない空間に一人佇んでいた。
「……え。あ、あれ?」
シロウは慌ててきょろきょろと辺りを見回すが、目を引くものは何も無い。ただどこまでも、薄暗い闇が広がっているだけだ。
つい先ほどまで、シロウはダンジョンに潜っていた。そこで唐突にコペの様子がおかしくなり、そして……。
「ふふ……クサカ君」
「うわっ、コペ……!?」
突如として闇の中から現れたコペが、シロウの前に立って微笑む。やはり様子がおかしいままだ。見れば、腕に付けたブレスレットが仄かに淡い光を放っている。
「コ、コペ。ここはどこ? 皆はいったいどこに消えたんだ?」
シロウが訊ねると、コペはくすくすと笑いながら言った。
「ここはね、私とクサカ君の二人だけしか居ない場所なんだよ。他の誰にも邪魔されない、君と私だけの……。この腕輪がね。案内してくれたの」
「は、はあ……」
どうやら、彼女が、というよりも正確に言うならばその腕に装着された腕輪が、シロウをこんな場所に呼び寄せたという事らしい。
「と、とにかく、皆の所に戻らないと。コペ、どうしたら戻れるんだ?」
セレスがいる限り、残された少女たちが危険な目に遭う事はないだろうが、それでも彼女たちが気がかりだ。一刻も早く元の場所に戻りたい。シロウのその言葉に、コペは不快そうに眉尻をぴくりと動かした。
「そう……クサカ君は、私と居るよりあの子たちの所に行きたいんだ」
「え? あ、いや……別にそういう意味で言ったわけじゃ……」
言い訳がましいシロウの態度に苛立ったのか、それまで穏やかな笑顔を浮かべていたコペの表情がくしゃりと歪む。
「そんなにあの子が大事なの……」
「え……?」
口の中でぼそりと呟いた後、コペはそっとシロウの胸にしなだれかかる。そして彼の顔を見上げながら、甘く媚びるように語りかけた。
「――ねえ、クサカ君。このまま此処で、私とずっと一緒にいよう……? 他の子の事なんて全部忘れて、二人っきりで愛し合うの……ね?」
まるで普段とは異なる彼女の淫靡な雰囲気に、シロウは思わず動揺する。
言葉に詰まる少年の様子を見て、コペは決定的な一言を放つ。
「クサカ君、私……。私、君の事が好きなの。愛してる」
その言葉は、動揺するシロウの心に真っ直ぐに突き刺さった。
「一目見た時から、ずっと君のことを想ってた。そんな君と隣の席になれたのは運命だ、って思った……。ふふ。君はこんな影の薄い私なんかの気持ち、全然気にしてなかったかもしれないけど、ね」
曲解のしようもない、直球の告白。コペはゆっくりとシロウの背に手を回し、うんと背伸びをして顔を近付けた。
「だから、ね? このまま二人きり……誰の邪魔も入らないこの場所で、二人きりでいよう……?」
「コペ……」
とろんと蕩けたような目つきを浮かべて、コペは少年を見つめた。だんだんと、少女のくちびるが少年に迫っていく。二人の距離が徐々に近付いていき、そして――。
「ていっ」
「あ」
――隙を見て、シロウはコペの腕からブレスレットを抜き取った。
そのまま少女の手の届かない高い位置に掲げる。
「あっ、あっ、か、返して。返してクサカ君っ」
途端に、それまでのねばついた空気が霧散した。コペは慌てて取り戻そうとぴょんぴょん飛び跳ねるが、シロウは身を捩って躱す。
「ふんっ!」
少年はそのまま渾身の力を込めて、ブレスレットを地面に叩きつける。
ガシャン。無骨で頑丈そうなその見た目とは裏腹に、まるで硝子が割れるような音を立ててブレスレットは粉々に砕け散った。
「あー! な、なんてことするの、クサカ君! 大事にしてたのに!」
突然の蛮行に、コペは頬を膨らませて抗議する。その様子は先ほどまでとは違い、普段通りの彼女に見える。
「ごめんって。それよりコペ、気分はどう?」
「気分って……。え、あれ? わ、私。何してたんだっけ……?」
上手く働かない頭をどうにか回転させて、少女はこれまでの事を思い出そうとする。
「――と、いうか……。な、なんで私、クサカ君に抱き着いてるの!?」
いくぶん冷静になった頭で、ようやく自分の置かれている状況に考えが及んだのだろう。少女は頬を真っ赤に染めて、シュバっと勢いよくシロウから距離を取った。
「ご、ごめんね! 何だか私、よく分からないけどシロウ君に迷惑かけちゃったみたい」
ペコペコと何度も頭を下げるコペを制して、シロウはひとまず質問することにした。
「いや、それは腕輪の影響だろうし別にいいんだけど……。それより本当にさっきまでの事、覚えてないの?」
「な、何のこと?」
「……ううん。覚えてないなら別に良いんだけどさ」
シロウはじっと、先ほどから目を泳がせているコペの顔を見つめる。しばらく黙って見続けていると、段々とコペの顔が紅潮していく。ついには諦めたように、自分からぽろりと白状した。
「……ちょっとは、その……覚えてます、はい」
「あ、やっぱり」
「あ、あの! さっきの私は、腕輪のせいでおかしくなってただけなの! だ、だから、さっき言ったことは全部その、忘れてくれると嬉しいなって……」
もごもごと恥ずかしそうに言いよどむコペ。シロウは黙って頷くと、恥ずかしがるコペの肩に慰めるようにそっと手を置いた。
「……そろそろ、皆の所に戻ろうか」
「う、うん……ありがとう、クサカ君」
彼らはぐるりと周囲を見回す。相変わらず、辺りは暗闇に包まれたままだ。
「それで……一体ここ、どこなの? どうやって帰ればいいんだろう」
「えっ」
シロウは虚を突かれて固まった。てっきり、腕輪が全ての原因なのだから、壊してしまえば全てが元に戻ると思っていたのだ。事実、コペは腕輪の呪縛から解き放たれた。
しかし、この異空間がそのままなのだとしたら、これは大変に困った事態となってしまう。
「ま、まさか……俺たち、一生ここに閉じ込められたままなのか?」
「えっ、ほんとに?」
一瞬、コペの表情が輝いたのは見なかったことにして、シロウは脱出の方策を思案する。しかし、何も思い浮かぶはずもなく。だんだんと焦燥感がこみ上げてくる。
「じょ、冗談じゃないぞ。こんな食べ物も何もない場所に閉じ込められるなんて……」
「う、うん。そうだよね……」
頷くコペと二人、危機感を募らせていると。不意にギシギシと空間が音を立てて軋みだした。周囲の闇が、まるで波打つように歪んでいく。
「な、なんだ!? 今度は何が起きてるんだ!?」
「も、もしかして、腕輪が壊れたからこの空間も崩壊するのかな?」
「つまり、戻れるってことか!?」
どうやら、腕輪が破壊されてから異空間が崩壊するまでにタイムラグがあったらしい。シロウはどうにかなりそうだという安心感に、ほっと胸を撫でる。
「――クサカ君」
崩落し始める世界の中で、コペがシロウに向き直った。
その表情は真剣で、何かを伝えようとしている。
「ん? どうした?」
「あのね、私。さっきは恥ずかしくてつい、忘れてほしいって言っちゃったけど……」
少女は一つ呼吸を挟むと、にこりと微笑んでから言った。
「……さっき言った事に、嘘なんて一つも混ざってないの――だから、たまにはあの子だけじゃなくて、私にも構ってほしいなっ」
そうして、世界が光に包まれて。
――気が付くと、シロウはダンジョンの床に倒れていた。
「まあ、目を覚ましましたわ!」
「シ、シロウさんっ。大丈夫ですか!?」
心配そうにのぞき込む少女たちに微笑みかけて、シロウは身体を起こす。
「え、っと……。俺、どうしたんだ?」
「シロウ様とコペさんは、いきなりわたくし達の目の前でぱたりと倒れてしまったのですわ! 全然目を覚まさなくて心配いたしましたのよ!」
どうやら、あれからシロウ達は倒れてしまっていたようだ。隣を見ると、同じように横たわっていたコペもまた、起き上がったところだった。
「…………」
「…………」
お互いに、何となく無言で見つめ合う。
照れくさいような、何を言っていいか分からない空気が二人の間に醸造されていく。
しかしその独特な空気感を打ち破って、ナツキがコペをぎゅっと抱きしめた。
「コペ~! もう、心配させないでよね!!」
「わぷっ。ナ、ナっちゃん、ごめんなさい……」
半泣きのナツキの胸の中に思い切り抱きしめられながら、コペは照れくさそうに笑う。見ると、腕のブレスレットが粉々に砕けて地面に転がっている。
「そ、そのブレスレット、誰も触ってないのにいきなり壊れたんです」
「そっか……。ま、とにかく心配かけてごめん。もう大丈夫だから」
シロウは少女たちを安心させるように微笑みかける。元凶の腕輪が壊れた以上、これ以上おかしな事に巻き込まれたりはしないだろう。一人離れて周囲の警戒を行っていたセレスが近寄ってくる。
「あ、二人とも起きたのね。良かった……。ともかく、今日はいったん戻りましょう」
こうして、最深部に進むのは次の機会に回して、シロウ達はいったん引き上げる事にするのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます