閑話 異世界人と女性たちの日常 その1

 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、シロウの顔を優しく照らした。彼はベッドの中で目を覚まし、ぼんやりと天井を見上げる。


「……ふわあ、もう朝か」


 ベッドから身を起こし、部屋の時計を一瞥すると、ちょうど目覚ましが鳴り始めた。慣れた手つきでそれを止め、ゆっくりと立ち上がる。まだ眠気が残る身体を伸ばし、窓を開けると、初夏の爽やかな風がシロウの頬を撫でた。


「……せっかく早起きしたんだし。ちょっと気分転換に朝の散歩でもしようかな」


 朝の準備を済ませて家を出ると、シロウはぶらりと歩き始めた。時折、行き交う近所の女性に愛想良く挨拶をしながら、大通りを進んでいく。しばらくすると、見慣れたパン屋が視界に入ってきた。この店は普段からたまに利用しているため、店員とも顔見知りだ。


「おはようございまーす。朝から良い匂いですね~」

「あ、シロウ君! いらっしゃいませ。今日は早いですね。何かご用事ですか?」

「いえ、ちょっと予定より早く目が覚めちゃって。それで、せっかくだから散歩に出たんです」

「そうなんですか。それで、パンの焼ける香りに釣られてご来店を?」

「あはは。この辺りはいつも小麦の焼ける良い匂いがしてるんで、ついお腹が空きますよね」


 シロウが照れくさそうに笑うと、店員もくすくすと微笑んだ。

 朗らかな彼女は、まだ時間が早く他の客がいないこともあって、カウンターから出てきた。どうやらシロウの相手をしてくれるらしい。


「こんなに早く来たのは初めてですけど、もう結構な種類のパンが並んでるんですね」

「大通り沿いのこの店には、早朝から活動しているお客様も来るんです。ですから、いつもこのくらいの時間には既に朝の分は焼き終えているんですよ」

「へえ~、こんな早くから大変なんですね」

「ええ、それなりに。でも、こうしてシロウ君が来てくれるなら、お姉さんも頑張ってる甲斐がありますね」


 店員はシロウに意味ありげな視線を向けた。


「まあ、流石にこんな早くは中々来れないですけどね。でもこれからも来ますよ。ここのパンは美味しいですから」

「ふふ。ありがとうございます。……あー、本当に良い子。持って帰りたい」

「店員さん?」

「あ、いえいえ。何でもありませんよ。うふふ」


 店員のお姉さんが小声でぼそりと漏らした台詞を聞き取れず、シロウが首をかしげると、彼女はすぐに営業用の笑顔を浮かべて誤魔化した。

 まあいいか、とシロウがケースに並べられた美味しそうなパンに視線を戻すと、早朝から食欲が刺激されたのか、ぐぅと腹の虫が鳴った。


 シロウが顔を赤くすると、店員は可笑しそうに小さく笑った。


「あらあら、朝から元気なお腹ですね」

「い、いやー。なにぶん成長期なもんで」

「ふふ、よく食べる子はお姉さんも好きですよ。……あ、そうだ。良ければ、こちらをどうぞ」


 店内に戻っていった彼女は、一際香ばしい匂いを放つ焼き立てのパンの乗ったトレイを持ってきた。その香りに誘われて、思わず鼻をくすぐる。


「おお、すごく良い匂いっすね。これは?」

「ちょうど、私の朝ごはん用に焼いたばかりのパンです。商品じゃないので、お代は要りませんよ」

「え。美味しそうですけど、いいんですか?」

「どうぞどうぞ。ちょっと多く作りすぎてしまったので、食べていただけると助かります」


 店員は遠慮しないように告げると、シロウにトレイを差し出した。


「それじゃあ、遠慮なく。……うわ、なにこれ。美味っ!」

「ふふ。シロウ君はきっと気に入ると思ってました。……これ、私も好きなんですよ」

「こんだけ美味いなら、お店に並べればいいんじゃないですか? きっと売れると思いますけど」

「そうしたいのは山々なんですけど……。実は、作るのにそれなりの材料費がかかりまして。時々自分用として作るくらいですね」

「え、そんなパンを貰っちゃってよかったんですか?」


 シロウが聞き返すと、店員はにこにこと笑顔を返した。


「勿論ですよ。せっかくこんなに朝早く来ていただいたんですから、少しでも特別な一品をお出ししたかったんです。大したものではないですが、気に入ってもらえたら嬉しいです」

「はい、美味しかったっす。店員さんの焼くパンってどれもすごく美味しいんですけど、今のは特に気に入りました」

「ふふ、それなら良かったです」


 にこにこと愛想良く手を振る店員に見送られながら、シロウは店を後にした。

 朝早く目を覚ました甲斐があり、普段は食べられないような美味しいパンが食べられた。まさに早起きは三文の得である。


「さ、良い思いも出来たしそろそろ帰るか。もう皆も起きだしてる頃だろうし」


 シロウはぐっと伸びをして、朝の陽気の中で家路についた。



 ------


「はあ~~……朝から疲れた……」


 シロウが来店する数分前。店員の女性は眠気を抱えて深々と溜息をこぼしていた。

 先ほど、早朝の客に向けてたくさんのパンを焼き終わり、ようやく一息ついたばかりである。


「こんな朝から店を開くなんて、ホントやってらんないわ……ふぁ、眠い……」


 彼女の店は大通りで人目に付く事もあり、早朝から多くの利用者を抱えるそれなりの人気店である。

 特に、冒険者と呼ばれる人々は時間を気にせずにやってきては大量のパンを注文していく。常に身体を動かす彼女達の空腹を満たすためにはそれなりの量が必要だが、問題は彼女らの態度にある。


 別に悪い客というわけではない。流れ者ならばともかく、ギルドに登録された正式な冒険者ならば、王都の中では行儀正しく過ごしているものだ。街中で面倒を起こすと冒険者資格をはく奪されかねないのだから、それも当然である。

 では彼女達の何が問題なのか。


「とにかく声が大きいのよね……。それに仕方ない事とはいえ、服が汚れている事も多いし……。第一、あんまり一度にたくさん買われると、他のお客さんの分が無くなっちゃうのも困るわ……」


 愚痴がとめどなく溢れてくる。多くのパンを買っていくお得意様である彼女らは店にとって上客ではあるのだが、同時に気疲れする相手でもあった。


「はあ……。ま、こんな朝はちょっとくらい贅沢しても主もお赦しくださるわよね」


 彼女が焼きあがったばかりのパンを取り出すと、ふんわりと薫るバターの芳醇な香りが鼻孔をくすぐった。高品質の小麦でふっくらと焼き上げたパンは手で割く瞬間の触感までもが官能的なほどに美味しそうに感じられる。


「んん~~~! はあ、美味しい。焼き立てのパンの味ってやっぱり最高よね。この時ばかりはパン屋になって良かったと実感するもの」


 彼女がパンを片手に悦に入っていると、来客を知らせるドアベルが鳴った。


(あら、もうお客様? いつもよりちょっと早いけど)


 彼女が店の入り口に顔を向けると、そこに立っていたのは予想に反して一人の男の子だった。


(え!? シロウ君!? 嘘ぉ、今までこんな朝早くに店に来てくれる事なんてなかったのに!)


 内心の動揺を隠して冷静に応対すると、どうやら彼はたまたま早起きしてしまったようだ。


(主よ! 幸運に感謝します!)


 彼はこの近辺に住む少年だ。ある日、突然街に現れた彼の存在に王都中の女性たちは驚愕した。なにせ、一般人にとって彼のような男性の姿を直接見ることのできる機会は滅多にあるものではない。

 どうにか彼を一目見ようと大勢の女性がこの辺りに押し寄せたこともあったが、国の指示によって厳しく規制されて、今ではこの近隣も平穏を取り戻している。


 普段とは違い、今日は早朝のおかげで幸いにも他の客はいない。

 彼女は接客にかこつけて少年に近寄ると、会話の合間を縫ってバレないようにこっそりと彼の臭いを嗅いだ。


(ふおっ……。こ、これが男の子の香り。なんてかぐわしいの……)


 とても聞かせられない内心を笑顔で覆い隠して、彼女はシロウとの会話を楽しんだ。


(ああ、朝から彼を独り占めできるなんて夢みたい。ああ、それにしても本当に可愛い。どうせならパンじゃなくて、彼を食べてしまえたらいいのに……。家に連れて帰って、そして、パンをこねるみたいに優しく……)

「店員さん?」

「あ、いえいえ。何でもありませんよ。うふふ」


 危ない。どうやら考えていた事の一部が表に漏れていたらしい。

 彼女が背中に冷や汗をかきつつも素知らぬ顔でいると、少年はパンを見つめて不意にお腹を鳴らす。


 恥ずかしそうにお腹をさするシロウに、彼女の精神は一気に高揚した。


(あ゛あ゛あ゛!! お腹空いてるの!? 空いてるのね!! きゃー! 可愛い!!)


 興奮のあまり鼻血が出ていないか、彼女は笑う振りをしながら鼻に手を当てて確認する。どうやら何とか耐え切ったようだ。

 彼女は気を取り直すと、先ほど焼き上げたパンの一つをシロウに持っていった。


(彼がいつも買っていくパンを考えると、きっと私と好みが似てるはずよね)


 案の定、少年は彼女のパンを絶賛すると美味しそうに平らげた。

 この上ない幸せ。今日ほど、パン屋を開いて良かったと感じた事はない。


 満足そうに店を出ていく少年を微笑みながら見送る彼女は、我慢できずに口元を歪めた。


「ああ……。今、彼と私は同じものを食べた。これはつまり、彼と私が朝食を共にしたと言ってもいいわよね。ふふ、なんて幸せな朝なのかしら」


 彼女は両腕を抱え、幸せそうに身をよじらせると、浮かれた足取りで店の中に入っていった。


 これは少年と女性たちが織り成すほんの一幕。

 日々の暮らしの中で、周囲に幸せを振りまきながらも、悪気なく他人を狂わせていく罪深い男子の日常である。

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