第3話 子ねずみは夢見がち乙女
「ごめんなさいね。こんな物しか無くて、男の人にお出しするには申し訳ないのだけど……」
「いえ! めっちゃ美味しそうです! いただきます!」
突然に男性を迎え入れる事態となり、泡を食った母が慌てて用意した料理は、随分と豪勢だった。
例えば目の前の大皿に盛られた青角鹿のローストなど、母が近隣に住む狩人職のおじさんに頼み込んで取り急ぎ譲って貰った特上品だ。その隣のサラダも、ポタージュスープも普段と比べると何倍も手が込んでいる。中でもこの小海老のバター焼きは祖母直伝の母の得意料理で、記念日などには必ず作ってくれる母の自慢の一品だ。
食卓に並べられた料理から母の本気を感じ取って、少女は複雑な心境になった。
「うわ、何これ美味しい! 俺、こんな肉食べた事ないっす! あ、この海老も最高!」
「ふふ。お気に召したようで良かったわ。どんどん食べてね」
彼――シロウさんは、お腹が空いていたのか勢いよく料理を平らげていく。
そんな彼の奔放な振舞いをうっとりと眺める二対の瞳。
母と妹は、自分の食事も忘れてシロウさんの一挙一動に魅入っていた。
「あ、すいません。俺ばっかり食べちゃって。どれもこれも美味しくて」
「遠慮しなくていいのよ。私の料理をそんなに美味しそうに食べてもらえるなんて、こんな幸せな事ないわ」
言葉の通り、母は幸福の絶頂と言わんばかりの表情を浮かべている。
日頃はあまり感情を表に出す性質ではない母が、ここまで露骨な態度を取るところを少女は見た事が無かった。
「シローさん、良かったらあたしの分も食べますか?」
「え? いや、キサラちゃんの分まで取っちゃったら流石に悪いよ」
「いいんです。シローさんが美味しそうに食べてるところ、もっと見たいですから。はい、あーん」
「んー。それじゃ、遠慮なく」
キサラは自分に取り分けられたローストをフォークに突き刺すと、そっとシロウさんの口元に差し出した。
信じられない。どうして、出会ったばかりの男性にそのような態度で接する事ができるのだろう。姿形こそよく似た姉妹ではあるが、その内面は少女のそれとは似ても似つかない。妹はいつも、そうだ。少女がしたくとも出来ないような事を、簡単にやってのける。
少女よりも彼と過ごした時間は短いはずなのに既に親しげな空気を醸し出す妹と、そんな妹の行動を微笑ましく、あるいは羨ましそうに眺める母の顔を眺めて、少女は人知れず俯いて下唇を噛んだ。
少女の心を支配する感情は、嫉妬。
彼と親しげに接するのも、手料理を振舞うのも。少女にとってやりたくて仕方がない事が、あまりにも遠く感じる。
何せ、まだ少女は彼に肝心な事すら伝えられていない。
「ふう……。ご馳走様でした!」
「お粗末様でした。満足してもらえたかしら?」
「はい! エリスさんって、料理お上手なんですね」
「あら、お上手ね。うふふ」
食事を終えて満足そうにお腹をさするシロウさんを嬉しそうに見つめながら、母が会話を楽しんでいる。
彼をこの家に連れてきたのは少女なのに、あっという間に家族の方が彼と親しくなってしまったように思う。
何となく自分が惨めな気がして、少女は食器を持って流し台に向かった。
「あ。俺も食器洗うの手伝うよ」
「あら、お客様はそんな事気にしなくていいのよ?」
「いえ。食事をいただいた上に後片付けまで人任せってのは、性に合わないんで」
彼はそんな事を言いながら、少女の隣に立った。
途端、現金な心臓がドクンドクンと脈を早める。先ほどまでの沈んだ気持ちはあっという間にどこかへ飛び去って、幸福感が全身を包む。
少女は瞬く間に真っ赤になってしまった顔を誤魔化そうと、急いで水導石に魔力を流す。
湧き出てきた流水で食器を洗い流していると、彼が不思議そうに少女の手元を覗き込んでいることに気付いた。
「あ、あの……。ど、どうしたの?」
「え。あ、いや。えーっと、その、石? から水が出てる……ん、だよね?」
「う、うん。そう、だけど……」
彼がおかしな事を聞くので、少女は思わず緊張も忘れて不思議そうな表情を浮かべた。
まさか、水導石を見た事がないのだろうか。いくら男の人と言っても、そこまで浮世離れしているものなのか?
先ほどから緊張と興奮でろくに考えもしなかったが、改めて考えてみると不思議な少年だ。
男性でありながら、付き人も無しに一人であんな高台にやってきた。しかも、森の中から、草木を踏みしめながら。
そして、そのまま少女の家に着いてきて、今は一緒に夕食まで食べてくれた。
もしも少女か、その家族に魔が差して料理に一服盛るような事でもあれば、彼の無事は誰にも保証できなかったというのに。
少女が伝え聞く男性像からは、想像もできないような警戒心の無さ。まるで、自分の価値が分かっていないかのような……。
考え込む少女の表情から何かを察したのだろうか。シロウは後ろを振り返り、少女の家族に声が届かない事を確認すると、少女の耳元でそっと囁いた。
「あの、さ。これから少し時間あるかな? 話したい事があるんだ」
「ひゃあっ!? あ、あ、あ、あの、あの」
考え事に集中していた少女は、至近距離に近づいたシロウの顔と囁き声に、思わず心臓が止まったかと思うほどの衝撃を受けた。
何年か前に、少女の数少ない友人であった幼年代の学友が、当時すっかり珍しくなった自然恋愛をテーマにした小説を片手に、少女に熱弁していた事がある。
曰く、男性の逞しい両の腕で背後から抱き寄せられ、耳元でそっと愛を囁かれる事こそが、女性にとって至上の歓びなのだと。
当時は未だ幼く、男女の機微に大した興味を持たなかった少女は、ふーんと気の無さそうな返事を返すに留まったが。あれから何年も経った今になって、あの日の学友がいかに真理を突いていたか、少女は深く理解する事となった。
「おーい。大丈夫か?」
「え、あ。は、はい」
魂を彼方に飛ばしたかのように硬直してしまった少女に不安を覚えたのか、シロウは少女の肩をゆさゆさと揺らす。
危うい所で気を取り戻した少女を見て、シロウは安心したように胸を撫で下ろした。
「それで、どうかな? 出来れば二人で話せると嬉しいんだけど」
「あ、えーっと。でしたら、私の部屋に来ていただければ……。あの、鍵もかけられますから、えっと、内緒話もできる、と思います」
直前まで上の空だったのが功を奏したのか、少女にしては比較的スムーズに会話が成立する。
鍵のかかる自室にシロウを呼ぶ。自分で吐いた言葉の意味に少女の意識が辿り着くのは、もう数分後の事である。
(わ、私は一体何を!?!?)
少女の自室で、少年が所在なさげに佇んでいる。そんな姿を見て、少女の内心は嵐の様相だった。
一方で少年も、夜に年頃の女の子の自室に入る事に何となく気恥ずかしさを覚えているのか、ソワソワと落ち着かない様子だ。
「えっと、この辺に座ってもいいかな?」
「あ! その、ごめんなさい!」
「え? 駄目だった?」
「あ、いえ、そう、じゃ、なくて……」
少女が口ごもったまま、おずおずとクッションを差し出す。
気が利かなくてごめんなさい、と伝えるつもりが、言葉が足りなかった。
少女が自分のコミュニケーション能力の欠如に打ちのめされている中、クッションに腰掛けた少年は、ぽつぽつと語りだした。
「実はさ、俺……」
そうして、数分後。
「異世界人……ですか」
「うん、どうやらそうみたい。自分でも訳が分からんのだけど」
少年が語る荒唐無稽な話を、少女は聞き入った。
不思議と信じる、信じないという考えは浮かんでこなかった。
それくらい、彼は不思議な人だったから。
いっそ、異世界から迷い込んできたと言われた方がよっぽど納得が出来る。
それに。そんな些細な事は問題にもならなかった。
「それで、右も左も分からないからさ。もし良かったら、相談に乗ってもらえないかなー、って」
「……私に?」
「うん。異世界で初めて出会った人だしさ。何となくだけど、真剣に聞いてもらえるかなと思ったんだよね」
それよりも、最も重要な唯一の事実が、少女の心をわしづかんだ。
それは、少女が彼に選ばれたという事実。
彼は、秘密を私にだけ打ち明けた。妹にも、母にも。それ以外の誰でもなく。
異世界という新天地で右も左も分からず不安を抱える少年は、彼を支える
少女の全身を、絶頂にも似た衝動が貫いた。
全能感。彼の為を想えば、何でもできるような気がする。
有体に言えば、少女はのぼせ上がっていた。
「――でさ。差し当たって今夜泊まれるような場所に心当たりがあれば教えてもらえると……」
興奮のあまり話に集中できていなかった少女の耳に、不意に少年の言葉が留まる。
今夜泊まれる場所。心当たりなど一つしかない。
「うちに泊まればいいと、思います」
「あ、いや。気持ちは嬉しいんだけど、流石に初対面の女の子の家に泊めてもらうってのは……」
「うちに泊まればいいと、思います」
「え。あ。その……」
「うちに。泊まればいいと。思います」
「あー。えっと……じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな」
常ならぬ圧で迫る少女を前に、さしものシロウも怯んだ様子で押し切られる。
先ほどまでとは明らかに様子が違う少女に不審な目を向ける、ほど利口でないシロウは、何だかんだで当面の寝床を確保できた事に安堵の息を漏らしていた。
「あ、でもまずは家族の了解を取らないとだよね」
「大丈夫、です。母も妹も、絶対イヤとは言わないので」
「そう? エリスさんもキサラちゃんも優しいよね。俺、こっち来て初めてお世話になったのがこの家でほんと良かったよ。ありがとう」
「…………」
当夜の身の置き所が出来た事で気が落ち着いたのか、幾分穏やかな表情で伸びをするシロウを無言で眺める少女。
その仕草から何か思うところがあるのは明白だが、そのような少女の機微に気付けるほどシロウは目端が利く人間ではなかった。
「さてと、ともかくエリスさん達に挨拶してこないと。どこか一晩借りても邪魔にならなさそうな場所ってあるかな? 俺としてはリビングのソファでも借りられれば十分過ぎるくらいなんだけど」
そう言いながら腰を上げるシロウを追いかけて少女は咄嗟に手を伸ばす。
少年のシャツの裾が少女の細い指につままれた。
「あれ? どうしたの?」
「…………」
少女が勇気を出せたのはそこまでだった。
二の句を告げずに口ごもる少女。シロウはそっと振り返ると、なるべく刺激しないように、と優しく語りかけた。
「何か、言いたい事があるんだよね? よければ教えてくれないかな。俺も、お世話になりっぱなしじゃ心苦しいからさ」
「…………」
「異世界に来て、まだ何にも分からないけど。親切にしてくれた人の事は、大事にしたいんだ」
シロウが語り掛けると、少女の唇が僅かに震える。
「…………スツーカ」
「え?」
「わ、私の、名前……。スツーカ、です」
「あ」
そこまで聞いて、少年は思い当たった。
そういえば、ここまで話しておいて、まだ名前すら聞いていなかった。
よくよく考えると、少女に対しては自分の名も教えていない。キサラとの会話の流れで名乗ったつもりになっていた。
妹や母親とは早々に名乗り合っておいて、自分だけ後回しにされたのだと少女が考えても当然の話である。
一体、どの口で大事にしたいだとか言っていたのか。
急にシロウが頭を抱えて苦悩にあえぎだした。
少年が罪悪感に悶えているとは思いも寄らない少女が心配そうに恐る恐る顔を覗き込むと、少年は気を取り直して少女に向き合った。
「――スツーカ」
「え、あ、は、はい」
「遅れたけど、俺の名前は久坂史郎です。史郎って呼んでほしい」
「あ……」
少女の胸を感動が包む。
少年の名前を呼ぶことを、本人から認められる栄光。
少女の名が、少年の口によって紡がれる至福。
「今日はありがとう。
異世界に来て、最初に会ったのがスツーカで、良かった」
言い終えた後、照れくさそうに少年がはにかむ。
そうして少年が少女の部屋から出ていった後も、少女はしばらくの間、立ち尽くしたままだった。
スツーカの幸福な日々は、こうして始まった。
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