15.円佳の嘘

「お姉ちゃんには、未練があるから」


 美門はごく当たり前のことを言った。

 不慮の事故で若くしてこの世を去った人に、未練がないわけがないのだ。


 だから、引っかかったのは言葉よりもその口ぶり。

 根拠の見えない妙な自信が感じられて、それが僕を不安にさせる。


「あの日のことは覚えてるでしょ」


 そう問われて僕は「もちろん」と返す。

 円佳さんが現れた日のことを言っているのだろう。


「じゃあ、あのときのお姉ちゃんはどんな顔してた?」


「……笑ってたね」


 現れた円佳さんが最初に目にしたのは、妹が自分の恋人とキスをしているところだった。本来ならショックを受けて当然なのに、円佳さんは笑顔でそれを受け入れていた。自分のことは気にせずに続けて、とまで言っていた。それは未練とはかけ離れた態度だと思う。


「あなたはお姉ちゃんを裏表のない人だと思ってるでしょ。考えていることがすぐに顔に出るし、嘘なんてつけない、正直な人だって」


 思っているから不安になるのだ。

 美門の言い方は明らかに否定することを前提にしている。


【やめて、ミカちゃん】


 押し黙っていた円佳さんが口を開いた。

 静かで重くて、すがりつくような響き。


 しかし美門は止まらない。

 言葉だけではなく、動作も。


 ベッドから下りて僕の前に立つと、さらに一歩踏み込んできた。鼻先が触れるほどの近さは、キスの距離だ。円佳さんの幽霊が現れたあのときを思い出させる。


 以前と違うのは、僕の視界に円佳さんが入っていることだ。

 吐息を感じるほどの距離で美門と向き合いながら、横目で恋人を見ている。


 その円佳さんは、笑ってはいなかった。


 くしゃりと顔をゆがめて、だけど僕が見ている手前、どうにか笑顔を取り繕おうとしたのだろう。どっちつかずの泣き笑いの、いびつな表情になっていた。


「わかったでしょ」


 美門は僕から離れながら、どこか得意げに言った。


「本当は、あの日のお姉ちゃんもこんな顔をしていたのよ。あたしにキスをされる、あなたの後ろで」


【違うよ、これは……、違うから】


 円佳さんは半身になって顔を背ける。僕と目を合わせたくないのだろうか。だけど、その瞳が揺れて、涙が――どこも濡らさない、涙に似た何かが――こぼれるのを確かに見てしまった。


 その態度が何よりも美門の言葉を認めていた。


 あの日、あのとき、円佳さんは笑ってなどいなかったのだ。


「あのときはあなたが振り返る前に、上手に切り替えることができてたけど。――でも、バレちゃったね、お姉ちゃん」


 残念でした、と舌を出しそうな悪魔めいた口元。

 おだやかな口調の中に、言いようのない嘲弄ちょうろうの響きが含まれていた。


「――だったら、あの言葉は」


 わたしを気にせずにどうぞ続けて、と笑顔で語ったあの言葉は。


「ただの強がりよ。決まってるじゃない」


 美門はそう言うが、僕にはあのとき、円佳さんの言葉をただの強がりと断定できなかった。そう言い切れるだけの材料がなかったからだ。……材料がない? 恋人というのは無条件で信じられる相手のことじゃないのか。


「あなたとお姉ちゃんは、もうキスくらいしてるでしょ」


 こちらの動揺を無視して、むしろ後押しするように美門は続ける。


「じゃあ、その先はどう? わたしとそれをすれば、何か変わるの?」


【――ダメ】


 円佳さんは僕たちの間に割って入った。

 両手を突き出し、美門を押し返そうとした。


 それは初めての行動だった。今まで僕と美門を近づけようとしていた円佳さんが、初めて、逆に邪魔しようとしたのだ。


 だけど、その手はなんの妨げにもならなかった。

 美門をすり抜けて、つんのめってしまう。


【あっ……】


 突発的に動いてしまった自分への戸惑い。

 僕たちに触れられない現実。


 それらに打ちのめされているのが後ろ姿からでもわかった。


 そのままにしてはおけない。

 声をかけて、慰めなければ。


 しかし僕が言葉を発するより先に、円佳さんはそのまま壁を通り抜けた。

 隣の、自分の部屋へと消えてしまった。


「逃げられちゃったわね」


 美門はベッドに腰かけて、皮肉げな口ぶり。


「追いかけるよ」


「どうぞ」


「美門も一緒に来て」


 率直に頼むと、美門は目を見開いた。

 だが、すぐに真顔に戻ってタオルケットを掴み、横になろうとする。


「……わたし、具合が悪いから」


「じゃあ僕が運ぶよ」


 僕は返事も聞かずに動いた。

 ベッド脇に立つと、美門の膝裏に腕を差し入れ、背中を支える。


「……ふぇ?」


「ちょっと失礼」


 そのまま抱き上げて回れ右、戸口へと向かう。


「ごめん、ドア開けて」


「あ、うん……」


 美門は両手が塞がっている僕の代わりに、大人しくドアノブを回す。

 困惑しすぎて逆に素直になっている。


「ちょっと、何、なんなの……」


「だって美門が動けないから」


「そういうことじゃなくて」


「大丈夫だよ、二度目だから」


 そんなやり取りをしながら廊下を進んで、円佳さんの部屋の前へ。


「ここもお願い」


 短く頼むと、返事はなかったが美門は素直にドアを開ける。


 果たして、円佳さんはそこにいた。

 自分の部屋の片隅で、所在なさげに突っ立っている。


【やっぱり逃げられないかぁ……、って何してるの?】


 痛切な表情だった円佳さんだが、僕たちの姿を見るとあっけにとられた顔をする。

 追いかけてくることは予想していても、まさか美門を抱きかかえてくるとは思ってなかったのだろう。


【ミカちゃんずるい、あたし、お姫様だっこなんてしてもらったことないのに】


 と頬をふくらませる円佳さん。

 直前の重々しいやり取りなど無かったかのような軽い声。


「これはそんな可愛らしいものじゃないから」


 逆に美門はそっけなく、投げやりだけど重い声。


 不満そうな円佳さんと、不愉快そうな美門。


 二人の視線が無言で問いかけてくる。


 ――それで、どうするつもり? と。

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