14.美門の嘘
【……あれ? なんでミカちゃんの部屋にいるの?】
現れた円佳さんの第一声がそれだった。
「体調を崩したみたいなので、お見舞いに来たんです」
【えっ……、大丈夫かな】
円佳さんはベッドで横になっている美門に近づくと、心配そうに寝顔をじっと見つめる。
【うん、落ち着いてるみたい】
そして大事ないことを確認すると、笑顔で僕を振り返った。
妹の具合を心配する、優しい姉の笑顔だ。
その光景に僕も優しい気持ちになっていると、ふと円佳さんがこちらを振り返り、ニヤリといたずらっぽく口元を上げた。
【寝込みを襲ってるのかと思っちゃった】
「またそういうことを言って」
僕は美門を見ないように顔を背ける。薄手のパジャマと、その上からタオルケットを一枚かけただけの無防備な寝姿は、どうにもこうにも。
【いいのよ、まじまじと見ちゃっても】
「またそういうことを言って」
ひとしきり僕をからかった後、円佳さんの表情がすっと平坦になる。
【……体調を崩したのって、あたしのせいかな】
「寝不足だろうっておばさんは言ってました。テスト期間だし、どうせ勉強のしすぎとかですよ」
【そうなの? ミカちゃん、一夜漬けなんかしない子だったのに……】
「でも見てのとおり穏やかな顔つきですよ。起きてるときと違って」
まだなにか引っかかっているらしい円佳さんを励ますために、僕は軽い冗談を飛ばす。
【だよねぇ、ミカちゃん素材は抜群なんだから、表情を意識するだけでぜんぜん違うのに】
「そのアドバイス、どうせ突っぱねられましたよね」
【そうなの。男子がウザいだけよ、だって】
「ああ……、すごく言いそうですね」
小声とはいえすぐ近くでしゃべっていたせいか、やがて美門は小さくうなって身をよじった。
こちら側を向いた顔の、まぶたがうっすらと開く。
「ん……ぁ、……はぁ?」
目が見開かれると、そこからの動きは素早かった。上半身を起こしつつタオルケットを引き寄せて身体を隠し、背中が壁に当たるまで後ずさる。まるで不審者から逃げるみたいな反応である。
「なん……、で」
「見舞いに来たんだ」
【おはよ、ミカちゃん】
美門は口を半開きにして僕たちを見上げていたが、やがて、深々とため息をついて膝を抱え、丸まるように顔をうつむかせた。
「……なんで、勝手に上がってるのよ。これじゃ誤魔化せないじゃない」
「部屋のこと?」
僕は短く問いかけた。
気づかないふりをしてもよかったが、美門の方から白状してしまった以上、それは望まれていないらしい。
美門の部屋はシンプルな内装だった。配色は白と黒のモノトーンで、調度品も必要最低限のものしか置かれていない。
そんな、主人の性質がよく現れているこの部屋は。
美門の誘いは嘘だった。
姉の部屋だと偽って、自分の部屋へ僕を招き入れたのだ。
もっとも、その企みは全く予想しない形で
「気持ち悪いって、思ってるでしょ。姉の法要のあとで、その彼氏を騙して、自分の部屋へ連れ込むとか」
「ミカ」
「欲求不満かって話よね、そりゃお姉ちゃんも化けて出てくる――」
「美門!」
大声でさえぎる。
自分を貶める美門の言葉を、これ以上聞きたくなかった。
美門はびくりと肩を震わせ、怯えたような顔でうつむいてしまう。いつもと違って弱々しい彼女に、僕は静かに声をかける。
「具合が悪いから気分も落ち込んで、否定的なことばかり考えてしまうんだよ」
感情が沈んでいるのは体調のせいだと思い込んでほしかった。
「あとこれ、学校のプリント、机の上に置いてるから」
「……古井河先生?」
「そうだよ。心配してた」
「成績が落ちてるって?」
「そんなことは――」
ない、あの先生は本当に美門のことを心配しているのだ、と伝えるより先に、円佳さんが虚ろな声を出した。
【そう、なの?】
その声があまりにも
【でも、この前は大学だってA判定だったって言ってたのに】
その瞳は美門の方を向いているが、どこにも焦点が合っていない。
【……あ、そっか。成績が落ちたのは、あたしが見えるようになってから、なんだよね】
妹の不調は自分のせいだと、円佳さんははっきり自覚してしまう。
美門は、しまった、という表情をすぐに苦笑で塗りつぶして首を振る。
「確かに今は少し調子が悪いけど、お姉ちゃんのせいじゃ――」
【寝不足で体調を崩すなんてこと、今までなかったよね。ミカちゃん、あたしと違って早寝早起きだったから……。そういうリズムが崩れたのも、あたしが負担だったからじゃないの?】
否定の言葉は出なかった。
円佳さんが亡くなってから、少なくとも表面上は、美門の生活態度は変わらなかった。帰りが遅くなることもなく、成績が悪化することもない。
もっとも、この場合は変化がないことの方が異常なのだ。
だけど僕も含めて周囲の人間は自分の動揺を抑えるのに必死で、美門の変化のなさを気にかけることができなかった。
むしろ美門は、そういう風に振る舞うことで、自分は大丈夫だからと、周囲に心配をかけないようにしていたのだろう。
しかし、そのバランスは皮肉にも、円佳さんの出現によって崩れてしまった。
もっと早くに気づくべきだったのに、僕は奇跡のように現れた恋人に目を奪われて、美門の変調が見えなくなっていた。
美門よりも円佳さんを優先していたのだ。
生きている人間よりも、触れられもしない幽霊の方を。
立ち尽くしたまま、言葉が出ない。
何かしゃべらないといけないのに、そのために来たはずなのに。
どうしてこんな――、片方を認めたら、もう片方を否定してしまうような、二者択一めいた状況になっているのか。
今の僕は、どちらか一方に転がらないようバランスを取るふりをして、決定的な言葉を避けている責任逃れの卑怯者だった。
【ごめんね】
とうとう円佳さんに、その言葉を口にさせてしまう。
【幽霊になって戻ってくるなんて、こんなこと、いつまでも続かないだろうと思ってた。だからあまり気にしてなかったんだけど……、ミカちゃんを苦しめるくらいなら、消えちゃった方がいいのかもね】
「嘘」
美門は短く鋭く、円佳さんの謝罪を否定した。
「消えたいなんて嘘よ」
【嘘じゃない】
円佳さんはかすれるような声で否定する。
しかし美門は止まらない。責め続ける。
「それじゃあ言い換えてあげる。消えたい気持ちよりも、消えたくない気持ちの方が強いのよ」
僕の知らない何かを知っているような断言だった。
「だってお姉ちゃんには、未練があるから」
重荷を下ろしたような晴れやかさを、その表情に確かに見た。
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