森の中のメル

色街アゲハ

森の中のメル

 むかし昔の、それより昔。まだ世界のほとんどが森に包まれ、その大きな腕に抱かれる様に人々が生きていた頃より少し時は下って、木々を切り開いて家を建て、畑を耕し、家畜と共に過ごす様になって、人々が漸く目を覚まして自分達の生を生きる様になった、これはそんな頃のお話。


 とある小さな村の外れに、嘗て人々が揺り籠としていた名残を残す森の中に、メルという名の小さな女の子が、村の人々の戸惑いを余所に一人過ごしていたのでした。


 自分達の想像も付かない世界、というより、今ではもう忘れてしまったと言うべきでしょうか、そんな森の中の世界で、どうやってメルが日々を紡いでいるのか、村の人々は互いに合点の行かない顔を見合わせては首を傾げ合った物でした。


 一度、村の一人が思い切ってメルに直接その事を問い質してみた事が有ります。けれども、期待した返事は帰って来ず、ただ不思議そうな顔をされただけに終わったのです。

 それは、どうしてそんな事を聞かれるのか分からない、といった風で、その顛末を聞いた他の人々は、ああ、きっとあの子は自分達の忘れてしまった世界に今尚生きているんだな、と、そう思って納得する事にして、それ以上深く考えない様にするのでした。

 

 そんな互いの行き違いから、村と森、距離にしてそれ程離れていないにも拘らず、二つは決して交わる事の無い隔たりが出来てしまっていたのでした。それなものだから、森の方でどんな事が起ころうとも、それは村の人々の知る所ではなかったのです。


 


 ある日の事、森の奥で幾重にも入り組んだ枝葉が風で揺れ、降り積もった落ち葉が折り重なって足裏に柔らかな地面に、洩れ零れた陽の光が、揺れる水面の様な模様を描き、辺り一面光と影の波が溢れる中、メルは一人佇んでいました。


 木々の間を微かに風が吹き抜け、雛鳥の和毛の様に細く柔らかなメルの髪の毛が擽られる様に揺れると、その合間から見え隠れする深く澄んだ瞳は木漏れ陽の光を写し煌めいて、それも束の間、直ぐにでも枝葉の揺らめく影に隠れて翳ってしまうのでした。


 聞こえて来るのは、時折思い出した様に強く吹き付ける風が木々を揺るがす音くらいで、まるで水底に居るかの様な静まり返ったこの場所で、ただメルだけが手をだらりと下げて、心を何処かに置き忘れでもしてしまったかの様に、ポツンと佇んでいるのでした。


 それは、いま此処にいるメルのみならず、数多の森の中で、大小問わず幾多の生けとし生ける者達に依って幾度も繰り返されて来た光景でありました。時も場所も超えて、嘗てこの世界の殆どを占めていた、世界その物と言い換えても良い森の世界の原風景。

 吹き寄せる風は、遠い昔から今に至るまで、至る所から流れ来る様で。だからこそ、太古の忘却の彼方に置き去られてしまった世界を彷徨っていた何かがひょっこりと姿を現わしたとしても、そこには何の違和感もなく、ごく当たり前の様な、日々の営みの中での出来事の様に映ったのでした。


 メルの後ろの草叢で、俄かにガサゴソと掻き分けられる音がして、其処に現われたのは、永い時を経てすっかり擦り減って滑らかに磨き上げられた様な木目の、大小様々に継ぎ合わせて人の姿を模したといった態の、幾分不格好に歩く姿。

 振り返ったメルの眼差しには、何の驚きの色も見えず、それは時たま出会う森の動物達と同じ、其処に居るのは分かっているけれども取り立てて騒ぎ立てる事はしないで、付かず離れず互いに其処に居るのを邪魔しないといった、誰に言われる迄もなく、森に生きる者達の間での不文律といった風に、刹那視線をそちらに向けたきり、それ以上気に留める事もなくその場に留まっているのでした。

 ですから、距離を詰めたのは、茂みから出て来た等身大の木の人形を思わせる「それ」であったのです。


 それが動く度に、木々の継ぎ目が触れ合って、カロンカロンと、と軽やかな音を立て、その口から出る声は笛の様に滑らかで、何処かぎこちない見た目と動きと相俟って、何とも言えない可笑しみを醸し出しているのでした。

 自然、メルの頬も心なしか緩み、目も先程の呆けた様な無表情から僅かに光が差した様に見えたのです。

 

 これが二人の出会いでした。


 他に知る者の居ない、二人だけの知る。この広い世界の中で、この出会いを知っているのは二人だけ。今となっては決して有り得ない筈の邂逅であり、それは殆ど奇跡と言っても差し支えない出来事であったにも拘らず、それはごく当たり前の様に起こり、当の二人もその事を理解する事もなく、けれども、二人の間にひっそりと通じ合う何かを感じ、それ以来決して離れる事無く、何時も連れ立って二人は歩き、メルは自分の知る限りの森のあらゆる場所を連れ歩き、一方木の旅人は、今となっては知る者の居ない忘れ去られた森の秘密を、惜しみなくメルに伝えようとするのでした。


 こうした二人の触れ合いが、知らず知らずの内に遠い昔に失われた息吹を森にもたらしていました。

 二人の歩く所、その後に甘い香りの漂う花々が後を追う様にそこかしこで咲き溢れ、薄らと立ち込めた花の香りに誘われて、森のあちこちでひょっこりと姿を現わしたり隠れたりと忙しない生き物達は、その香りを胸一杯に吸い込み、酔った様に何度も身体を震わせるのでした。それは、まるで遠い昔の夢の中にいるかの様に。

 そして、二人の踏んだ土から太く伸ばした根が、新たに命を紡ぐべく土に含んだ水をたっぷりと吸い上げ、その水が硬く太い幹の中を轟々と勢い良く奔り抜けると、やがて朝の眩い光を透かし浮き上がった鮮やかな緑も目に彩な葉、また葉に辿り着き、吐き出された水は細かく霧となって、何処までも広がる青い青い空の中に、まるで其処へ行くのが待ちきれない、とでも云う様に忽ちの内に吸い込まれて行くのでした。後にキラキラと煌びやかな光を残して。


 そんな風にして、花の香り、木々の霧に覆われて行った森は、嘗て遠い昔に失われた筈の姿を次第に取り戻して行くのでした。疾うの昔に姿を消して、今や人々の眠りの間でしかその片鱗を覗う事しか出来ない、夢の彼方に追い遣られた数多の存在がそこかしこで見られる様になり、最初は遠慮がちに、やがて誰憚る事無く辺りを歩き廻る様になり、こうして、森は外の者達が知らない所でその本来の姿を現わし、いま此処に切り開かれて以来、何処かちぐはぐな居心地の悪さを感じさせていた空気は疾く消え、漸く息を吹き返した物として安らいだ姿を晒すのでした。


  失われていた世界が再び蘇る、それは今の世界とっても大きな実りであり、その恩恵を森の内の者も外の者も知ってか知らずか、大いに受ける事となりました。汲めど尽きせぬ生命の息吹が、森の中に満ち満ちて、その中で育まれた様々な実りを得ようと森の内外からたくさんの動物、草木がの訪れが見られる様になり、その後を追う様に外の人々も以前よりも頻繁に森へと踏み込む様になり……、何て事、こうなる前は森の中と外との間に目に見えない壁の様なものがあって、それが内と外との行き来を拒んでいる感じだったのに、今ではそんな物など端から無かったかの様に、互いにちょっとその辺のご近所を訪ねる位の気安さで、皆足を伸ばしている様なのでした。

 

 それを目の当たりにして、メルは何故だか胸の奥がくすぐったい様な、不思議と温かい物で包まれる様な心地になるのでした。そして、そんな気持ちを抱いている事に、自分でも驚いていました。今までは、森の内でも外でも自分以外の誰か、何かと関わりになろうという思いが薄くて、ただ、風の吹くまま、水の流れるがまま、星が移り変わり、雲の形の変わるがままに、メルも自分が流れに流されるがままに移ろい、昨日の雲が今日という日にはすっかり入れ替わっているのと同じ様に、何時しか自分も、事に依ると自分自身にも気付かれぬまま、薄れ、掠れて、消えてなくなってしまうものとばかり思っていた物ですから。こんな風に誰かと常に繋がっている様な事になるだなんて、しかもその事にこの上もなく安らいだ気持ちを抱く事になるだなんて、少し前には想像も付かなかったのですから。

 それはメルだけではなく、この森で生きるもの、その全てが感じている事でした。森の中も外も、最早嘗てあった隔たりが嘘の様に消え、穏やかな空気が終始辺りに漂って、そして、それはあの陽の沈む向こう側まで続いている、と、そう信じられる。全てが温かな陽だまりの中に心地良く寛いでいられる、そんな空気があまねく全て空の下、漂い包み込んでいるのでした。何処にだって歩いて行ける。行けない所なんてもう無い。何処に至ろうと、誰と会おうとも、全ては同じ空の下に在り、息衝いているのだから。






 それから暫くの時が過ぎ、ひっそりと静かな森の、木漏れ日の涼やかに零れて揺れる中で、メルは穏やかに吹き寄せて来る風に、擽ったそうに薄く瞼を閉じ、この森の中でも一際大きな樹の幹に身を預け、誰も居ない中一人、夢見る様に何かを待ち続けるかの様にその場に佇んでいました。

 ずっと、片時もなく傍らにいて、共に森の中を何処までも一緒に歩いて行った、あの木の人は、早疾うに姿を消して久しく時が過ぎているのでした。

 それと共に、森の中にあれ程までに満遍なく漂っていたあの不思議な空気は消え、森は以前の何処か素っ気ない雰囲気に戻り、それと共に森の外との交流は元より、森の中の生き物達も、元の無関心な態度に戻ってしまっていたのです。

 まるでかの尋ね人が全てを持ち去ってしまった、とでも云う様に。


 

 それは、春の温かな陽射しの中、森の中でも一際開けた、まるで森に住まう全ての物の憩いの場とでも云う様に、そこだけ木々や草々が遠慮がちとでも云った風に広場になったその場所で、メルと傍らの木の人は、どちらからともなく足を止め佇んでいました。

 小鳥達や小さな栗鼠やらが、この頃になって木の人の木の頭から生えて来た小さく開いた芽を頻りに突いたり、齧り付いたりしようとするのを、困った様にそれでも彼等を傷つけない様、首を振ったり、優しく手で追い払ったりとしていました。そんな様を見て、メルは手を叩き声を上げて笑って見ているのでした。

 少し傾きかけた陽の光が、降り注ぐ端から細かく散らばって、少しずつその場に溜まって行った風に、周りはほんのりと明るく光輝いて見え、光から滲み出る温かさもまた、同じように辺りをほのかに包み込んで、この場に佇む皆を一様に眠りに誘い込む様な、午後の一刻。

  

 そんなのどかな、時を限りなく引き伸ばした静かな陽だまりの時の中、不意にかの木の旅人はメルに向き直り、告げるのでした。


 別れの時が来た事を。


 それを聞いたメルは、自分でも驚く程の取り乱し様でした。予感じみた者はありました。何時までもこんな時が続く筈が無い、と心の何処かでそう考える自分が居て、緩やかに流れる時の中で、その考えは幾度も心の中で繰り返されて、何時その時が来ても良い様に、と構えていたつもりだったのに、いざ、その時が来てみると溢れる感情を留める事が出来なくて、取り縋って、泣いて泣いて、泣きじゃくって、それでも心の何処かでは、それは避け様の無い事であり、受け入れなければいけない事だという事が良く分かっていたのでした。だからこそ、こんなにも涙が溢れて。


 メルが落ち着きを取り戻し、辺りが静けさに再び包まれるのを見計らってから、木の旅人は、再び語り始めるのでした。


 今に至るまで、長い間、本当に長い間旅をして来た事。何の為に? 根付く所を探し求める為に。遥か昔、世界の殆どが森に包まれていた頃、その中でも取り分けて長く生き、大きな樹より分たれて、それ以来自身の根付き、何時か大きく枝を広げて空を仰ぐ、その場所を求めて、ずっと旅を続けて来た、という事。

 その間に、世界はすっかり世界は様変わりしてしまい、このまま何も見い出せないまま枯れ果てて行くのを待つばかりかと思われたその末に、漸く辿り着いたこの地。

 この地であれば、メルという、遥か昔の森の世界の在り方を未だ色濃く残す者の住み、息衝いているこの場所でなら、根付く事が出来る。もうずっと昔に、もう思い出す事もままならない程に遠い物になってしまったあの日、世界の大樹より託された大切な物。漸くそれを受け継ぎ根付かせる事が出来る、と。メルという名の、小さな命に感謝を。


 かの人が語る間にも、その身体は少しずつ形を変えて行き、手足は果て無く伸びて行き、足は地面にめり込んで、深く深く潜り、長く伸び幾つにも枝分かれした腕からは、瑞々しく目に鮮やかな葉が溢れ、滑らかだった胴は、見る見るうちに太く節くれ立った硬い幹になって。

 茫然と立ち竦み、その様を見ているだけしかなかったメルの前で、一本の大きな樹へと変じて行ったのでした。全てが終わった後、森は元の静けさを取り戻し、音も無く地面に木漏れ日の揺れる中、心を何処かに置き忘れてしまったかの様に、何時までもその場所に佇み続けるメルの姿があるばかりでした。




 それから、季節は幾度も過ぎて、メルは嘗て歩みを共にした相手だった、今では森の中でも一際大きな樹の幹に、寄り添う様に身を預け、目を閉じて、まるで微睡の中にいる様に、ぼんやりと何をするでもなく佇んでいるのでした。

 それは、何れ来る何かをじっと待っている様であり、未だ自身の中で起こらない変化、繭の中で変わり行こうとしつつある自身の姿を、半ば眠りの中でじっと見詰めている、そんな風に見えたのです。


 その背丈は前と比べて見違える程伸び、以前は何処か覚束なげに宙を見詰める様だったその眼差しも、確かな意志を持って物を見据える様になっていました。

 夢見る様な淡い光に包まれた季節は終わりをつげ、その先は自分の足で歩いて行かなくてはいけない。その時は直ぐ其処にまで近付いていました。

 何れ決めなくてはいけない時が来る。このまま森に留まり、森の世界に生きる物となるか。それとも、森を出て、人里に出て、ひとのせかいでいきていくか、のどちらかを。


 誰も決めてはくれません。メル自身の意志で決めなくてはいけない。


 でも、それまでの少しの間、もう少しだけこのままで。メルは嘗て手を携えて森の中の道なき道を何処までも歩いて行った、今では目の前の大木となった幹に頬を寄せて、そっとその目を閉じるのでした。

 目覚める前の薄い夢の続きを見る様に。


 もう少しだけ、もう少しだけこの幸せな夢の続きを。



                      終


 

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