第37話 王女
僅かに残る魔力を慎重に絞り出して身体強化を施す。僥倖への高揚感も相まって今は一切の倦怠感を感じないが、それは一時的なものであり、俺の身体が危険な状態であることに変わりはない。
緩みそうになる気持ちを引き締めつつ、月明かりに照らされた夜道をミルの先導に従って走り抜ける。
振り返って確認するが、追われている様子はない。しかし、ミルの足が止まる気配はなかった。身体強化に使う魔力を大きく制限しているため、正直ついていくのが辛い。
「追われていないみたいだし、少し速度を落とさないか?」
息切れしていると思われないよう、一息で言い切った。学園時代の後輩でもある彼女に、情けない姿は見せたくないという強がりだ。
「まだ油断はできません。シリウス公爵の勢力は大きいです。このまま、協力者の元まで向かいましょう」
ミルの表情は険しく、俺の提案はすげなく却下されてしまった。
だからといって無理する訳にもいかないため、仕方なく俺は正直に打ち明けることにした。
「実は結構疲れてる。だから、速度を落としてほしい」
俺の告白にミルは目を見開くと、すぐさま俺の身体を両手で抱き上げた。
「すみません。思い至りませんでした」
「は、え? いや、これはちょっと」
年下王女に抱えられる不敬な成人男性。
真夜中とはいえ、壁に耳あり障子に目ありだ。俺の顔を知っているものに、この情けない姿を目撃されてしまうことを想像するだけで気分が沈む。
そして、何より俺の心を悩ませていたのはミルからのイメージダウンだった。
汚い話にはなるが、長い間風呂に入らず、あの不潔な場所で居続けたのだ。彼女の中での俺が、汚くて臭くて体力のない間抜け男になるかと想像すると、今すぐ逃げ出したくなる。
「こういったことは初めてなので、居心地が悪いかもしれませんが、我慢してください」
どうしようもないことで悩む俺に対して、ミルは実に真剣だった。
その顔を目にして、ぶつぶつ文句を言う気になんてなれず、俺は折れた。
「悪い。じゃあ頼む」
「えぇ、どうぞゆっくりしていてください」
折れたはいいが、気恥ずかしいことに変わりはない。それどころか、その気恥ずかしさは増すばかりだ。
ミルの身体が直に密着している感覚。彼女の色々な部分が接触してきて、頭がおかしくなりそうだ。最も象徴的な膨らみから少し視線を上げてみれば、ミルの顔が目に入ってしまうから、慌てて視線を落とす。
この期に及んでそんな不埒な考え事をする自分が情けなくなって、どうすればやましい思いなく過ごせるか試行錯誤する。その結果、顔を反らして白く輝く月を食い入るように見つめるというひどく間抜けな構図に落ち着くこととなった。
「あの、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫! いや、これって俗にいうお姫様抱っこだけどさ、お姫様が抱える側になることもなるんだなと思ってな」
頭上から降り注いだ声に、俺は慌てて言い訳するように返事をする。
「いえ、そういうことではなく――」
「大丈夫大丈夫! 月が綺麗だなって思っただけ!」
何を言おうとしたのかは気になったが、今はそれどころではなかったので、彼女の言葉に被せて強引に押し切る。
「そうですか……私はてっきり……」
意味ありげな呟きを残して、ミルも口を閉じた。
中途半端な終わり方をした後の静寂は気まずい。彼女もきっと同じ気持ちだろう。
夜であることをこれほど悔やんだことはない。昼間ならきっと、王都の喧騒に紛れて気にならなかっただろう
「てっきり……なんなんだ?」
「それは、その……長くなると思うので、また後で」
「そうか」
無理して会話を拾おうとしたが、あえなく撃沈。大人しく月を見ながら、時折流れる街の風景にも目を向けて時を過ごす。
それから数分ほど進み、王都郊外までやってきたところで件の協力者は現れた。
「おーい! こっちだ!」
聖騎士団の鎧を身に纏った男は、夜中だというのに街全体に響き渡りそうな声でこちらへ呼びかけている。
その徹底された準備具合を見るに、ミルを救出する作戦はやはり計画されていたのだろう。結果は彼女が自力で脱出するという変則的な事態になったが、その例外にもいち早く気づき、対応することができている臨機応変さと用意周到さには流石という言葉しか出てこない。
ようやく事が片付いた、という実感が湧いて、きつく結ばれていた緊張の音がぷつりと切れた気がした。
ミルを助けに来るはずが、逆に捕まって助けてもらうだなんて、とんだ大ポカをした気がするが、今は無事であることを喜ぼう――
「王女様、ご無事ですか!? 勇者殿も――」
「長く説明している時間はありません! 作戦は失敗しています! 早く、彼に飲み物と消化に良い食事を用意してください」
ミルの表情は硬い。それは、腕の中で気を失ったアルフレイの様相によるものだろう。土気色で荒れた肌に、浅い呼吸。何より、苦しみに悶えるようにきつく縛られた口元がミルの不安を煽っていた。
これは、魔法じゃ治せない――私には、何もできない。
「承知しました。では、王女様もご一緒に――」
ミルもひどい有様だ。髪はボサボサに荒れ、土に汚れたドレス。騎士の心配は尤もだ。
「私は良い! だから、早く彼を――アルフレイ君を、よろしくお願いします」
しかしミルはその提案を跳ね除け、アルフレイの療養を最優先に求める。その迫力に気圧された騎士は、すぐさま仲間を呼びつけ、勇者を運ばせる。
「王女様、どうぞこちらへ」
今度こそはと、騎士はミルの移動を求める。彼女の顔色からは十分な余力を感じられるが、それでも騎士には気がかりだ。きっちり、療養してもらう必要がある。
「ありがとうございます」
「いえ、当然のことです。入浴はどうされますか?」
「今はやめておきます」
ミルの憂いを帯びた表情を見て、騎士はそれ以上食い下がることをしなかった。
そして二人は、足並みを揃えて歩き出す。
「勇者殿は大丈夫ですよ。私が保証します。それに、今までもそうだったじゃないですか」
「そう、ですね……」
騎士の励ましもいまいち心に刺さらず、ミルは釈然としない様子であった。
「……でも、私にとってはきっと……いつまでも危なっかしい先輩で、アルフレイ君なんですよ」
「それは、学生時代のご経験が?」
「まぁ、そんなところです」
閑散とした住宅街を抜け、二人は大通りに出る。
「話は変わりますが、聖騎士団長はどちらに?」
ミルの話題が一段落してから、騎士は自らの疑問を切り出す。
ウェルドがミルを救出するため動き出したのは一週間ほど前のことであった。
「彼は……残念ですが、亡くなった、あるいはどこかへ幽閉されたのだと思われます。アルフレイ君が隣に幽閉されていると報告があった次の日から、連絡が途絶えました」
ミルが入れられていた牢は、王宮内で最も堅牢な場所である。音も光も匂いすら通さない結界が組み込まれたその場所は、大罪人が狂うまで閉じ込められる所だと関係者に恐れられている場所であった。
しかし実際のところは、王宮の寝室と繋がった隠し部屋。王族の血に反応して壁に埋め込まれた通路が開き、寝室と牢を結んでいる。
王との関係が浅いレイモンドがそれを知らなかったことは、必然な幸運であった。
そして、王との関係が深いウェルドがそれを知っていたこともまた、必然な幸運である。
「そうですか……勇者殿を単独で救出しようとされたのでしょうか……」
「きっとそうだと思います。彼は、本当に人徳溢れる方でした。彼に敬意を」
「えぇ、私も同感です。素晴らしい団長でした」
暫しの感傷。そして、二人の会話が再開する。
「では、王女様はどのように脱出されたのですか?」
「危ない橋を渡ることにはなりました。運が良かったと言う他ありません。偶然真夜中で、偶然シリウス公爵の不意をつけたから得られた結果でした。ウェルド聖騎士団長を制圧する武力があの時我々に向けられていれば、私も、アルフレイ君も無事ではなかったでしょう。私の浅慮を恥ずかしく思うばかりです」
ミルの立ち回りは、彼女の咄嗟の判断であったことは間違いない。あの場所で唐突に自分が解放されることも、周囲の状況も、彼女は理解していなかった。
しかし、結果として彼女は掴み取ったのだ。
「いえ、とんでもない。間違いなく英断だったでしょう。王女様は、ここぞという時の天運に恵まれた方なのだと思います――王国を取り戻すために絶対に必要な勇者殿を、王女様が救い出したのですから」
「そう思っていただけると助かります。ですが、問題は想像以上に根深いことも事実です。これから、どうなるのか――」
先が思いやられて、ミルは足を止めて空を仰いだ。怪しい光を放つ月が、今日も夜を照らしている。
「ここで聞いたことは秘密にしていただけますか? 月夜の気の迷いです」
「……えぇ、約束します」
「ふふ、ありがとうございます」
儚げな微笑を浮かべて、ミルは呟く。月に照らされて怪しく見える彼女は、騎士が思わず息を呑み、身分を越えて女性であることを認識させるほどに美しかった。
「私は、アルフレイ君に勇者になってほしくなかったんです。爵位も与えないで実力だけで取り立て、魔族との抗争や魔獣騒ぎに駆り出される。そんなのまるで、万人の奴隷じゃないですか」
その瞳の底に沈んでいるのは、怒りか、あるいは諦観か。
「聖剣だって、使用者の基礎能力を大きく引き上げる代わりに、寿命を喰らうだなんて物騒な噂があるんですよ?」
「聖騎士団長も、そんなことを言っていた記憶があります」
同調は最低限に、騎士はミルの話に耳を傾けた。
「だから、私は嫌だった。でも、彼は勇者になってしまったし、その上で全部ひっくりかえしてしまった。聖剣は使わないし、万人の英雄になってしまいました」
ミルが道端の小石を軽く蹴ると、近くにあった樹木へと勢いよく衝突し、小気味いい音を立てる。その音が虫を驚かせ、耳障りな羽音を出して飛び去って行く。
「彼が初めて戦果を挙げたとき、遠くへ行ってしまった気がしました。皆にもてはやされる彼が、どうしようもなく高みの存在であると思ってしまった。そして、このままだともっと遠くへ行ってしまって、取り返しがつかなくなると焦りました。私は、そのときやっと自覚したんです――私は、彼を独り占めしたい。有象無象にアルフレイ君の貴重な時間を奪われることなく、二人で――せめて、かつての仲間たちだけで過ごしたかった」
「……それは、恋というものなのでしょうか?」
なんと言葉をかけるか迷ってから、騎士はミルの気持ちに結論を求めようとする。
「わかりません。恋、なんて純粋な期間はとっくに過ぎ去ってしまったとは思っています。今ここに残っているのは、恋や愛といったものから白い部分を全て引き算してしまった、どこまでも黒い何かだと思います」
そこまで話してから、ミルは騎士の目を見た。
「だから、何かあれば私は王国より彼を優先してしまうかもしれない。王族として無責任だとは重々承知しています。許してもらおうとは思っていませんが、どうか頭の片隅に置いておいていただけませんか?」
「それは、我々に丸投げしたいということでしょうか?」
「意外と意地悪な言い方をされますね。ですが、有事の際は、確かにそうなるかもしれません」
「……そうですか」
そこから二人は言葉を交わすことなく、目的地である巨大な屋敷へと到着する。
「それでは、私はまだ私用がありますのでこれで失礼します。中へ入れば、騎士が王女様をご案内します」
「えぇ、色々とありがとうございました」
優雅に一礼し、ミルは屋敷の中へと姿を消した。それを見届けてから、騎士は座り込み、空を仰ぐ。一生分の重荷が肩にのしかかった気がして、彼は力なく呟いた。
「騎士団長、俺たち、これから死ぬんですかね? あなたがいてくれれば、もっと上手く王女様を説得できたのに……」
王女の意思一つで最大戦力である勇者が唐突に脱落してしまうかもしれない。そうなれば、ウェルドを制圧した武力に加え、聖騎士団を上回る人数を誇る近衛騎士団及びシリウス公爵家の勢力――中には、至高の九人の一人もいるというそれらと、自分たちだけで対峙しなくてはならなくなる。
そんな絶望的な未来を想像しただけで、騎士は逃げ出したくなった。しかし、今日まで聖騎士団に属してきた彼の矜持が、それを許さない。
「あーぁ、最悪だほんとに」
虚しい心の叫びが、大きなため息とともに吐き出された。
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