第36話 地獄の果てに

 耐え忍ぶ時が続いた。

 情報を集めるため聞くに堪えない自慢話を聞き、余計な体力を使わないため虚無の時間を過ごし、長い時が過ぎた。

 それが一週間なのか一日なのか、はたまた1時間にも満たないのかわからない。時間感覚はとっくに失い、夢と現実の狭間にいるかのような状態が続く。

 幸いなのは、入れられている牢の柵がいつまで経っても修復されないことだ。修復する手段を持っていないだけだと初めは思っていたが、レイモンドはあの一件以来、不用意に牢に近寄らず、常に一定の距離を保っている。俺を警戒し、何かあればすぐに仲間に助けてもらえるようにしているのだろう。

 なんにせよ、出口までの道が真っすぐ開けているということは希望だった。その光が、地獄のような時間を過ごす俺の心を支えてくれていたのだ。


「あの国王が、なぜ私のことを見逃しているか気になりませんか?」


 憎き男は、いつものように浮ついた口調で話しかけてくる。

 その見た目は40に差し掛かったところだろうか。知性溢れる大人びた顔立ちとは裏腹に、その純粋な悪意と興味は自由奔放な少年を想起させ、その合致しない印象に怖気立つ。何をどう学べば、このような人でなしが出来上がるのかと心底疑問であった。

 その気配を感じているだけで、次第に頭へ血がせりあがってくる。心拍数が上がり、体が自分のものでなくなり、ひとりでに暴れ出しそうな衝動に駆られている。そこまで至ったところで、俺はぎゅっと目を瞑る。これ以上、流されてはいけない。

 レイモンドを憎むのは体力の無駄だ。体力を失えば、魔力は回復しなくなってしまう。そうなれば、反撃の機会を完全に失い、待っているのは緩やかな餓死への一本道だ。何度言っても聞かない幼児に、それでも母が何度も諭すように、奮い立つ本能を理性で必死に抑え込む。

 身体の衰弱は、俺の精神までもを犯していた。


「……」


「やはりもう返事はしてくれないんですかねぇ。本当に寂しいです。それとも、空腹で動けないとか、喉が渇いて動けないとか、体力的な問題ですかね?」


「……」


「さすがの勇者でも、人間の体ですから仕方ないですねぇ…………だからといって、食料や水を与えるなんて自殺行為をするつもりはないので、我慢してもらうしかないのですが」


 わざと間を空けてから、しっかりと突き放す。

 本当に、あらゆる場面において心底腹が立つ男だ。


「まぁ、私の話が君の耳に届いていればそれで満足なので。君の意識があるうちに、話したい事は全部話すことにします」


 膝の鳴る音がして、俺にかかっていた影がおもむろに伸びた。

 立ち上がったレイモンドはコツコツと靴音を小気味よく響かせ、扉が開く音がする前にそれを止めた。


「そう、少し話が逸れていたんでした。なぜ、私が好き放題王国でやれているか、まだ教えてあげていませんでしたよね? それは、もうこの国に王はいないからなんですよ」


「……」


 予想はついていた。王が存命ならその愛娘をどこかへ幽閉できるはずなどなく、国王と長い付き合いのある、信頼されていたウェルドがあんな惨い目に遭う訳がないからだ。

 しかし、予想がついていたからといって、衝撃を受けない訳ではない。

 俺にとって国王ザリウス・ローレインは幼少期から馴染み深い人物であり、個人的な付き合いもそこそこ長い人物だった。

 心には、確かな落胆があった。


「この話には驚いてくれると思っていたので残念です」


 俺は変わらず、無反応を徹底する。今は、ぶつかる時ではないからだ。今度こそ、俺は間違えない。


「それでは、また」


 ようやく地獄のような時間が終わった。しかし今は、地獄が終わった後に待っているのも、また別の地獄だ。

 心が、体が、着実に擦り減っていく音がする。


(腹、減ったな……)


 胃が締め付けられるような感覚。それに意識を向けていれば、何も入っていないはずなのに吐き気に襲われた。

 気分の悪さから逃げようと他の部位へ意識を向けるが、どこへ逃げても痛みや不快感から逃れることはできなかった。

 生き地獄、という言葉をこれほど実感したことは今までなかった。


 二度と体験したくない時間を延々と味わい続けていると、レイモンドは再びこの場所へと姿を現す。


「生きてますか? 今回は、とっておきのプレゼントがあるんですけどねぇ」


 不快な響きをいつも通りそっぽを向いて意識的に無視していると、足音が近づいてくる。その音はいつもの場所で止まらず、俺のすぐ傍までやってきた。

 俺の体を強引に転ばせ、顔を掴んで目を合わせてからレイモンドは言った。


「今回だけは、ちゃんと参加してもらいます」


 手足に力が入っていないことを確認してから、レイモンドは強引に牢の外へと俺を連れ出した。焼け爛れた柵の上へ俺の上体を乱雑に置いてから、彼は俺の隣にあった牢の鍵を外した。


 まさか、と思った。そして、俺の予感が正しいことはすぐに証明された。


「ミル・ローレイン第三王女です」


「ミ――」


 俺の声は彼女の名前を呼ぶことすら叶わず、巨大な圧力によって体は柵に突き刺さる形で固定された。

 それでも必死に顔を上げて、彼女の姿を確認しようとする。

 ひどい有様だった。美しい金色の髪は荒れ、顔を大きく覆っている。通常なら不快に感じるはずの髪を払いのけることすらせず、ミルは力なく倒れこんでいた。

 口元に残る痣を見れば暴行を受けたことは明らかだったし、痩せて乾燥した体を見ればまともな食事が与えられていなかったことがよくわかった。

 煌びやかなはずのドレスは、薄汚れた粗悪品にさえ見えた。


「く、そ。ミル……」


「ここで嬉しい知らせがあります。他の王子王女はいざ知らず、ミル・ローレイン第三王女は辛うじて生きています」


 思わぬ朗報に、俺の瞳は大いなる希望を取り戻した。死んでいてもおかしくなかった彼女が、まだ生きている。

 その言葉の真偽を疑う余裕などなく、俺はその幸福を噛みしめていた。

 そんな俺がミルを見つめる視線に、不快にも割り込んだレイモンドは、その顔を醜悪に歪めて話を続ける。


「君には二つの選択肢がある。一つは、彼女と自分の命を諦めてしまうこと。今ここで、私が彼女を殺す様を見届けること」


 人差し指を立て、レイモンドは最も残酷な提案をした。

 そんな提案をされれば、もはや二つ目以外に選択肢はないも同然だった。


「そしてもう一つは――彼女と自らの命を救うこと」


 レイモンドは、中指も立てて、最も慈悲ある提案をした。

 もはや疑う能力を失っていた俺は、そこまで聞いて思わず声を張り上げそうになる。しかし、レイモンドの言葉は当然終わっていなかった。


「代わりに、君には私の傀儡となってもらいます。そして、王女以外すべての友人を、君自身の手によって始末してもらいます」


 レイモンドの瞳が怪しく輝き、口元は大きく吊り上がった。


「今すぐ、この場で選んでください」


 そんなの、選べる訳がなかった。

 助けを求めるようにミルの顔を見ようとするが、それはレイモンドによって妨害されている。

 仕方なく俺の視線は彼女の足元に落ちた。


「俺、は……」


 選べるはずないのに、レイモンドに気圧されて口を開く。当然、それに続く言葉などない。


「さぁ、どうしますか?」


 かかった獲物を逃さまいと、レイモンドは俺の答えを催促する。

 そんな俺を励ますように、閉め切られた牢屋の中を風が吹き抜ける。

 その違和感に気付いた俺の視線の先に、ミルの姿はもうなかった。


治癒ヒール


「は? なぜ――」


 理解が追いつかないレイモンドを置き去りにして、ミルは行動を開始した。俺を拘束している鎖を、彼女は隠し持っていた鍵で解くと、その鍵は砂粒のように崩れ落ちてしまった。


「行きましょう、アルフレイ君。戦闘は苦手なので、頼りにしてもいいですか?」


 理解が追いつかないのは俺も同じだった。だが、理解する必要はない。

 心を沸騰させんばかりに燃え滾る熱さのままに、駆け抜ければ良いだけだ。


拘束バインド


「当たり前だ。来い――聖盾」


 イグリムの猛攻を完璧にいなした大盾。レイモンドの魔法がそんな代物を打ち破れるはずもなく、分解され、空気中へと溶け去った。


「悪い。俺こっちしか常備してないから、戦闘ダメかも」


「なら、一緒に逃げましょうか」


 牢の壁を突き破ると、運よく外へ直通していた。久方ぶりの新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込みつつ、それを全て吐き出すほどに叫んだ。


「ありがとう! 生きててくれて、助けてくれて。ミルと話したいこと、いっぱいあったんだ! まずは――」


「まずは、逃げ切らないといけませんよ?」


 走りながら器用に俺の口へと人差し指を当て、ミルは艶っぽく微笑んだ。


「ごめん! その通りだ!」


 時は真夜中。逃げるには最適。

 皆が寝静まる夜更け、俺とミルの逃走劇が幕を開けた。

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