第18話 勇者の背中
昼間だというのに、人っ子一人いない住宅街。閑散とした通りには砂埃が舞いあがっている
「ミル様、早く離れてください!」
老人は喉が潰れてしまうほどに叫ぶ。これでもう、何度目だろうか。
しかし、それを受けた彼女の反応は変わらず、全く意に介さない。絶望のその先にある何かを追いかけ続けている。
「嫌です。アルフレイ君を連れ戻すまで、私は逃げられない。逃げたくない」
狂気的に鈍く光る瞳には、ウェルドのことなど映されていなかった。
今はきっと、どんな言葉をかけようとも彼女には届かない。
「彼は……」
ウェルドの脳裏には魔族を引き連れた勇者が焼き付いていた。
彼は、本当に精神支配を受けていたのだろうか? 彼が失踪する直前、ウェルドは彼と魔族について語り合った。魔族を殺すことは、本当に正しいことなのかどうか。
彼が連れていた魔族は、悪には見えなかった。ウェルドが彼との対話で口にした、罪のない、友好的な魔族だと直感的に思った。それがあの人間的な容姿によるものなのか、ウェルド自身がこれまでの人生で培ってきたものだったのかはわからないが。
もちろん、精神支配を受けている可能性が高いのは事実。ローレイン王国内で、徹底的に管理されていた彼にとって、魔族の知人も友人も、いるわけがないのだから。
「そう焦るなよ、爺さん。お前らが逃げようが逃げまいが、全員まとめて殺してやるからよ」
ウェルドの声を聞きつけ、砂煙から姿を現したのは、重力に逆らう金髪と大柄な体格が印象的な男。ウェルドの倍ほどは背丈があるだろうか。肉付きもよく、まともに殴り合って勝てる相手ではないと、本能が訴えかけるほど生物的な強さを持っている。
「ウェルド、落ち着いてください。二人で倒しましょう」
圧倒的強者に目を奪われるウェルドを、正気に戻したのはミルだった。王都へ帰還する際のミリスとの一悶着といい、最近は随分と年甲斐もないことばかりしている気がする。この辺で、挽回しておかなければ。
「やはり、ミル様は下がっていてください」
「それはできま――」
「私一人で、十分だと言っているんです」
ウェルドは、はっきりと王女の目を見据えて豪語した。王女をこんなところで失ってしまえば、どんな恐ろしい結末になるかわからない。ミルを参戦させるわけにはいかなかった。
「……私が力不足なのは認めます。ですが、ヒーラーとしては私も十分戦えます。援護するぐらいなら、構いませんよね?」
ウェルドはその言葉に頷いた。そもそも、ウェルドの言葉は大言壮語も甚だしいものだった。全盛期の彼なら定かではないが、今の年老いた彼一人では、至高の九人になんて簡単に届くわけがない。
しかし、彼には理由が必要だった。ミルを納得させるための理由と、自分自身が怯えてしまわないための理由。
もうこれで、この勝負からウェルドは逃げることができない。彼のプライドが、有言実行しないことを許さない。でも、彼はこれでいいのだ。大口など好きなだけ叩いてしまえばいい。
――現実を、後で追いついてこさせればいいだけなのだから。
「かかってきなさい。ローレイン王国で二番目の剣を見せてやろう」
ウェルドは剣を構える。その刀身はウェルドの魔力によって更に輝きを増していく。魔法はからっきし駄目なウェルドであるが、魔力がないわけではない。様々な魔法の習得を諦め、特殊な剣と身体へ魔力を滑らかに流すことに特化する。
剣しか使えない彼が、それでも王国の聖騎士団団長の座を三十年も守り抜いてきた事実を証明する、純粋な暴力であった。
「あんたが二番目なのか? この程度の年寄りに負けてる若者ばかりなら、あんたらはウチに勝てないぞ」
それでも、ライドは未だ相手にする価値がないと言わんばかりに、呆れたように呟いた。魔族故に見た目こそ若々しいが、彼の年齢はウェルドを遥かに上回る。
「悪いが、すぐに終わらせてもらう。後がつかえているのでね」
少し離れたところでは、ミリスを始めとした捜索部隊たちが、同じく至高の九人の一人――マーメイと一戦交えているはずだ。早く応援に向かわなければならない。あの有望な若い命たちを、こんなところで散らすわけにはいかない。
魔王の首に我々の手が届くまで、進み続けなければならないのだから。
――『勇者』に依存しすぎている
いつかミリスに言われた言葉が、深く胸に突き刺さっている。言われて初めて、その自覚が芽生えたからだ。勇者に頼ってばかりでは、王国は衰退するばかりだ。
彼が聖剣に頼らないように、我々も勇者に頼りっきりではいけない。聖騎士団団長であるウェルドが、勇者に丸投げしてどうする? ウェルドは今ここでライドを討ち、証明しなければならない。王国は、たった一人の若者に命運を託してしまうほど、愚かで弱い国ではないのだと。
「
「効かぬわ!」
ライドが手指から繰り出した小さく速い雷を、ウェルドは瞬時に見切り、手に持つ刀身をあてがう。そこに込められた魔力により、雷は冗談みたいに弾かれ、空高く昇ってゆく。
「年の割にはやるな、クソジジイ」
ライドがその瞳に興味を宿し、口の端を歪めてウェルドを凝視する。ウェルドのことを取るに足らない虫けらではなく、一人の危惧すべき敵であると認識した瞬間だった。
「ふん」
ウェルドは小さく鼻を鳴らすだけで、何も言葉を返さない。戦いに言葉など不要。互いの力でこそ語り合うべきだ。
ウェルドは体を倒し、ライドへ向かって一直線に加速した。
「あれ、もう終わりなん?」
同時刻。もう一つの戦場では、たった一人の女の持つ圧倒的な暴力が、人々を蹂躙していた。
他のみんなは、もう息絶えてしまっているだろうか。ミリスはその力を前にして、己の無力さを嘆いた。
(私一人では、こんなバカそうな女も倒せない)
勇者は、たった一晩でこんな化け物たちを五人も葬り去ったそうだ。
あの時から憧れ、追いかけ続けたはずのあの大きな背中。少しは近づけたと思っていたのに、その差は広がるばかりであった。
「あ、まだ生きてたんや。あんたはしぶといんやねぇ」
「クソ!」
魔力を込めて腰の回転を乗せ、その腹目掛けて全力の蹴りを放つ。技術と魔力の
合わせ技。そこらの魔獣であればたった一撃で真っ二つにするほどの威力を持った技の極致――ミリスがヒーラーでありながら、たった一人でAランクまで上り詰めることができた理由。それでも目の前の女――マーメイには届かない。
彼女は涼しい顔をして、ミリスの足を片手で受け止めていた。そしてミリスの脚を掴み上げ、玩具で遊ぶように軽々しく振り回し、思い切りたたきつけ――地面が、割れる。
瞬間、全身を強く打ったことによる痛みがミリスを襲う。しかし、それは徐々に和らいでいく。ミリスが治癒魔法を使った訳ではない。ならば、何故か。
(これ、ほんとに死ぬ――)
ミリスは途切れそうになる意識を強くつなぎ止め、その精神力で再び立ち上がる。何度も重い一撃を受けたせいで、通常ならば明らかに体の限界を迎えている。
しかし、ミリスはヒーラーだ。その精神力と魔力がまだあるなら、体に鞭打って何度も立ち上がることができる。
「諦めが悪い子ぉやね。そういう子、嫌いじゃないけど」
「私はお前みたいな女、大嫌いだけど」
ミリスは挫けない。ここで負けたら、もう彼に会うことができないのだから。彼の隣に並びたい一心でここまで頑張ってきた。私は、ここで終わるわけにはいかないんだ。
想いのままに暴れるミリスだが、マーメイの蹴り一つでミリスの体は吹き飛ばされてしまう。
「狂気的やね。勝ち目なんて一つもないのに」
「は、じゃあ逃げたら私のこと見逃してくれんの?」
「そんなわけないやろ? 今は遊んであげてるだけ」
絵に描いたような性悪女だ。性悪という言葉はこいつのために存在するとすら思った。今度は前触れなく殴り飛ばされ、ミリスの頬が刃物で斬られたかのように切れ、後から高まる熱を感じる。
「
そしてその痛みを和らげようとして、次に感じたのは吐きそうになるほど猛烈な虚脱感。それは魔力切れだった。ついに、限界がやってきたのだ。
体に力が入らず、ミリスはぺたりと座り込んでしまう。
「あらぁ、ついに魔力も切れてしもたん? 若い子は大変やねぇ」
音もなく目の前に現れたマーメイがミリスの頭を鷲掴みに資、容赦なく地面へ叩きつける。鼻の骨が粉砕され、頭蓋にもいくらかヒビが入ったような音がした。ミリスの脳はついに生存することを諦め、痛みを感じることを放棄する。
「……」
もう、言葉が出てこない。ミリスの胸中を支配しているのは、強い敗北感と悔恨。
「もう、ほんまに終わりっぽいね。じゃ――」
不快な声は言い切る前に途切れ、代わりに周囲を轟音と強風が包み込む。
「すみません、ヒーラーさん。俺の事情は後で説明するので、安静にしておいてください」
代わりに聞こえたのは、ミリスが追いかけ続けた彼の声だった。
ミリスはずっと彼の背中を見ていたのに、彼は自分の後ろなんて振り返ろうともしない。ヒーラーさん、なんて呼ばれた時には強烈な悔しさを覚えた。私は認識すらしてもらえていないのだと、彼のことを理不尽に恨みそうにすらなった。彼が私を知らないのは、私が彼に話しかけることすらできなかっただけなのに。
先ほどまで精神支配を受けていたはずなのに、こうして一人でなんとかして現れるところを見ると、本当にすごい人だと感じる。
「パぺ――」
「『魔力砲』」
立ち上がったマーメイは、勇者のことを最大限に警戒し、ミリスの前では使うことすらなかった魔法を繰り出そうとする。切り替えの早さはさすがに長い時を生き、経験を積んだだけある。しかし、無詠唱で放たれる勇者の切り札『魔力砲』は、その詠唱すら許さない。開かれようとした口は焼かれ、マーメイは叫ぶことすら叶わない。
「『魔力砲』」
容赦のない追加の一撃が、マーメイの頭を容赦なく貫き、その命を刈り取った。ミリスが手も足も出なかったマーメイを、たった二つの魔法で殺してしまった。
私が追いかけていた人は、やはりすごい。アルフレイ先輩は、本当にすごい。
ならどうして、私の心は素直にその事実だけを受け入れてくれないんだろう。
ミリスの心は生き残ったことへの安堵感と、アルフレイ・バーンロードへの憧憬を抱きつつ――その大部分は、どす黒い感情の渦に飲み込まれている。
嫉妬、絶望、無力感。私じゃ、どんなに頑張っても彼に追いつけない。私じゃ、どんなに頑張っても彼の隣に並ぶことはできない。私に、生きる価値はあるの?
その半生をアルフレイの背中に追いつくことを目標にしてきたミリスにとって、その事実は耐え難いほど彼女の心を苦しめた。思わず、目のふちから水が溢れる。
「すみません、遅くなって……痛いですよね。こういう魔法は苦手なので、気休めかもしれませんが……」
彼の手が温かい緑に包まれ、ミリスの痛みはほんのり和らぐ。拙い治癒魔法だ。間違いなく、治癒魔法に関してはミリスの方が圧倒的である。
しかし、そんなことでミリスは満たされない。彼女が憧れたのは、彼の『魔力砲』であり、肝心な時に何の役にも立たない治癒魔法などではないのだから。
「……ありがとうございます」
魔力枯渇による虚脱感を堪え、ミリスはなんとか感謝を伝える。
「いえ。それじゃ俺、もう一人倒さないといけないので」
彼の姿は、一陣の風を残して消え去ってしまう。ミリスは汚れなど気にせず、仰向けに寝転んで空を見上げた。
「私じゃ、無理なのかな」
普段気の強いミリスは、いつになく弱気に呟いた。
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