第17話 行ってきます
「勇者様?」
女の声がした。振り向くと、背の高い翠髪の女がお兄さんを見ている。
勇者は、お姉ちゃんの仇だ。お兄さんと一緒に、絶対殺すと決めている人。
「誰ですか? 勇者と、お兄さんを一緒にしないでほしいんですけど」
そんな人物とお兄さんを一緒にされて、私は反射的に怒声を浴びせていた。
そして刹那――頭が真っ白になった。死ぬと思ったからだ。なんの前触れもなく振りぬかれた拳は、私の生存本能によって限りなくゆっくりと近づいてくる。
しかし、体は動かない。ゆっくり見えるだけで、私の体が速くなった訳じゃないからだ。その拳が段々大きくなってきて、私は怖くて怖くてたまらなくて――その拳は、私の頭を粉砕する直前で、強引に受け止められた。
私の視界に割り込んだ大きな腕を見て、思う。また、お兄さんが守ってくれたんだ。やっぱり、お兄さんはすごい。
脳が正常に活動を再開しようとしたところで、
「ま、そう簡単には行かないよね。勇者様、ごめんなさい。あなたのことを傷つけることになりそうです」
私の頭は再び真っ白になった。
お兄さんが、勇者かもしれない。
彼は飛行魔法が得意なだけだと言っていた。でも、私とレイルちゃんを運ぶときに展開していた障壁はダンジョンの硬い壁を冗談みたいにえぐり取るし、私に転移石を投げた時なんて、あの石に貫かれて死ぬかと思うほどありえない強肩を披露した。
彼となら、お姉ちゃんの仇を討てると思っていた。だけど時々、頭の中で声がするんだ。
――あの男は、お姉ちゃんを殺した。
私は思考の渦に飲み込まれそうになる。今は、考えちゃダメだ。事実がどうであれ、疑ってしまったら最後だと思う。
「ちょっと待って! どういうことなの……なんで、お兄さんを――」
あれ? 私はお兄さんを擁護したかっただけで、彼女らがお兄さんを追いかける動機なんか知りたくなかったはずなのに。
お兄さんの正体なんて、私は知りたくない。
「とぼけるなよクソ魔族。勇者様のことを誑かしておいて、今更しらを切るつもりか?」
目の前の女は、怒声を浴びせてくる。どうも彼女は、お兄さんが勇者であると確信しているらしい。そして、私のことを一目で魔族だと見抜いた。
――魔族に操られている勇者を探し、ローレイン王国は捜索部隊を派遣した。
なるほど。レイルちゃんが教えてくれた噂通りだ。誤解はあるが、魔族と人が一緒にいるだけなんて稀なことだし、この女が勘違いしても仕方がない。
でも、それは間違いなんだよ。ただの偶然。
「勇者って何のこと? 彼はただの……」
「ただの、何かしら」
私が口ごもると、隣に立っていた金髪の女がすかさず問い詰めてくる。静かな圧力を感じる女だ。
「ただの、飛行魔法の達人で、優しい人で」
私はお兄さんについて知っていることを、ゆっくり紡いでいく。
「優しいのは、あなたが精神支配してるからですよね? その分際で彼に優しくされただなんて、不快なことを言わないでもらえる?」
せっかくお兄さんが何者か教えてあげようとしていたのに、女は話の腰を折って文句をつけてくる。話が通じない、怖い人だ。
それにしても、また精神支配の話か。金髪の女といい、翠髪の女といい、なんでそんな思い違いをしているんだろう。
ともかく、知らないことは知らないと訂正しておかなければ。私はそれを彼女らに伝えようとして、
「ちがう。そんなの、私、知らな」
「昨晩取り急ぎ行われていたダンジョンの調査。それによると、そちらの彼が、負傷者を連れて一人で
最後のピースを、埋められてしまった。
私は、今度こそ思考の渦に飲み込まれてしまった。
あの猿は、明らかに異常な強さだった。それこそ、私が山で殺されかけたあの熊なんかとは比べ物にならないほどに、常軌を逸した存在。
狭くて逃げづらいダンジョンで、あの速さの魔物。いくらお兄さんの飛行魔法といえど、簡単に逃げられる訳がない。
そこまで考えて、昨日レイルちゃんが言った言葉を思い出した。
――アルさん、あの猿を倒してた気がするの。
――え? さすがに、見間違いじゃない?
――どうだろ。私、ほとんど気絶してたから。
レイルちゃんは、自分の取り分である金貨を受け取ってから、そんなことを話した。倒せたとするなら、二人が無事であることにも納得がいく。
でも、さすがにそれは無理なはず。だって、お兄さんは、私よりは弱いはずなのに。
あれ、私っていつの間に強くなったんだっけ? だって私は、あんな熊の魔獣ごときに手も足も出ないほど、弱かったはずなのに――
「プリム」
私を呼ぶ声が聞こえる。いつも落ち着いていて優しい、私の大好きな声だ。その声が聞けただけで、私はいつも元気になるんだ。
ならなんで、今私の目から、涙が溢れそうになるの。
私は、どうして目の前の彼を仇敵だと確信してしまっているの。
彼が勇者だとして、私は彼を殺したいの?
――お姉ちゃん、私はどうすればいいの?
私の頭は回る。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる――
「プリム」
一面を包む緑。
柔らかくて優しい、大好きな声が私を呼んでいる。その声に答えるべく、私は起き上がって、声のする方へ振り向いた。
「あ、お姉ちゃん」
私はお姉ちゃんの方へ走って行って、腰に抱き着いた。
お姉ちゃんは私を抱えて座り、いつもみたいに私の頭を優しく撫でてくれる。私はそのこそばゆさと安心感に目を細めて、存分に堪能する。
「プリム、何か辛いことがあったの?」
お姉ちゃんは、いつも私のことなんてお見通しだった。
その声を聞くといつも気が緩んでしまって、時には泣きながら、時には笑いながら、時には怒りながら、洗いざらい話してしまう。
「うん……だけど、なんだか思い出せないの。思い出せないのに、辛いの」
いつもと違うのは、話す内容が思い出せないこと。絶対、何かあったはずなのに。
「そっかそっか。じゃあ、話しながら、ゆっくり思い出してみたら?」
「うん……えっとねー」
私は、ゆっくりと自分の記憶をなぞっていく。ある男の人がいて、いつも優しくて面白いその人のことが私は大好き。でも、私はどうやらその人にひどいことをされて、許せないみたい。
私の拙い話を、お姉ちゃんはうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれる。
「そっか。プリムはその男の人が好きなのね」
「うん! だけど、その人の顔も声も何も思い出せないの。だから、変な感じ」
「それはよかった。プリムに好きな男ができるだなんて、私はまだ早いと思うから」
お姉ちゃんは大げさに、安堵に胸をなでおろしている。私が黙ってお姉ちゃんのことを見つめていると、お姉ちゃんは慌てた様子で、
「冗談冗談! プリムももう大人だもんね」
私が本気にして怒ったと思ったのか、お姉ちゃんは慌てて訂正してくる。
「でも、思い出せないなら、想像してみるしかないと思うの」
「想像?」
「そう、想像。その人にひどいことをされたって言ってたけど、プリムはその人が嫌いになっちゃったの?」
お姉ちゃんが教えてくれた通り、私は想像してみる。大好きな人にひどいことをされたら、私はすぐに嫌いになるのかな?
「ううん、嫌いではないと思う。でも、許せないのは間違いないの」
「そう、じゃあ……話をしないとね」
「話?」
私が聞き返すと、お姉ちゃんは悲しそうに遠くを見た。
「そう、とても大事なことよ……私はそうしなかったせいで、妹と絶縁状態になってしまったの。しかもその子は死んじゃって……もう二度と会えなくなっちゃった」
お姉ちゃんに妹がもう一人いる、という話は聞いたことがあった。話したことはなかったけど、私にとってはもう一人のお姉ちゃんでもあるのだろう。
「まぁ、抜け目のない子だったから、案外しぶとく生きているのかもしれないけどね」
私がなんと言葉を返してよいかわからず押し黙っていると、お姉ちゃんは微笑んでそう補足した。
「とにかく、話すのは大事ということよ。私はもう、あの子と話すことはできないけど……プリムはその彼とお話できるんでしょ?」
「うん、できると思う。話、するよ」
私が頷くと、お姉ちゃんは私の髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。
「にしても、嫌な気分だわ。プリムのこと、どこの馬の骨かもわからない男に取られて、しかもその男が――」
お姉ちゃんはしりすぼみになりながら嘆く。でも、踏ん切りはついているように見えた。
「まぁ、勝者総取りってことなのかな。だからプリム、あなたは、私のことで思い悩まないで。いや、思い悩んで欲しくはあるんだけど……」
お姉ちゃんの言葉はどっちつかずで、思わず笑いがこぼれてしまった。
「なっ、なんで笑うのよ。ほんと、みんなそうやっていつの間にか大きくなって、年老いた私のことを揶揄うんだから……」
「ごめん、そんなつもりはないよ」
私はお姉ちゃんの悩みに初めて触れた気がして、目線が並んだように感じ、嬉しかっただけなんだ。
「とにかく、私のことは気にしないで。いや、気にしてほしくはあるんだけど」
お姉ちゃんは気を取り直して言い直そうとするが、相変わらず二つの矛盾する本音から逃れられない様子だった。
「うん、わかったよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんのことは気にするし、お姉ちゃんのことは気にしない」
私はそれがおかしくって、ついつい笑うのをやめられない。
「もう、揶揄わないでよ……でも、その様子なら、大丈夫そうね」
「うん」
私はもう、全てを思い出した。それを自覚した瞬間、お姉ちゃんの姿も、この世界も透けて見え始める。透けて透けて、白へと近づいていく。
「そうそう、その男のことなんだけど。私を殺したこと、ちゃんと謝らせといてね」
「うん、わかった。でも、私が伝えるまでもなく、お兄さんは申し訳なく思ってると思うよ」
お姉ちゃんが、満足げに頷いた。
「お姉ちゃん、また会えるかな」
「また会えるわよ。これから何度も生まれ変わって、きっといつかは。その時は、私もプリムも、お互いのことなんてわからないでしょうけどね」
お姉ちゃんはそう言って苦笑した。なんて、愛おしい笑顔なんだろう。もうこの顔を、見ることはできないんだと思うと胸が苦しくなる。
更に強くなる白。もう、時間がない。
私は、お姉ちゃんに絶対言わなきゃいけないことが一つだけある。
「お姉ちゃん」
「なぁに? プリム」
「――大好き、愛してる」
言いながら、私の目はついに決壊した。大粒の涙がとめどなく溢れて、もうずっと止まりそうにない。
お姉ちゃんはそんな私の目を優しくぬぐう。そして、昔みたいに微笑んで――
「私も、大好き。愛してる」
その日、私はお姉ちゃんが泣くのを初めて見た。
お姉ちゃんは、私を強く抱きしめる。もうどこにも行かないでほしい。私とずっと一緒にいて欲しい。そんな思いが言葉もなく伝わるほどに熱い抱擁。その力も、周りが白く染まるにつれて、段々弱くなっていって。
「またねプリム。いってらっしゃい」
お姉ちゃんは抱きしめる力を抜き、今度は私の肩を掴んだ。そして、目を見る。
最後にお姉ちゃんは、とびきりの笑顔で、別れの挨拶をした。
――いってきます
もう、真っ白で何も見えない。いや、真っ白じゃなくても何も見えないほど、私の目には涙があふれている。
でも、ここでいっぱい泣いたから、もうこの話はおしまい。いつまでも、お姉ちゃんの影を追い続けるわけにはいかない。
お兄さんと、じっくり話をする。そして、私はお姉ちゃんの分までしっかり生きる。
次に視界が開けると、お兄さんと目が合った。
「起きたか。ライザさんに知らせてくる」
お兄さんは私から逃げ出すように、歩いていこうとする。ダメだ。今逃がせば、私はまた勇気が出ないかもしれない。
私は急いでお兄さんの袖を引っ張り、こちらへ倒してから、お兄さんを背後から抱きしめる。そして、一呼吸おいてから、私は声を出した。
「お兄さん、待って……」
「プリム、俺は……」
お兄さんは何か言おうとする。何か、言い訳しようとしているのだろうか。
でも、待ってほしい。私の言うことを先に聞いてほしい。私はお兄さんの口を掌で塞いで、告げた。
「お兄さん。私と、話をしよう」
私は、ここでケリをつける。
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