第5話 プリム
ずっと一人だった。
記憶がはっきりしだす頃には、自分の身の回りのことは自分でこなせるようになっていた。やるべきことがわかった。生まれた時から自分で生活していたんじゃないかという錯覚すらあった。
「プリム、今までごめんね! また、一緒に暮らせるから!」
私が9歳のとき。嬉しさと申し訳なさが半々になった声で私の玄関を叩いた彼女は、自分のことを私の姉だと称した。言われてみれば、私と同じで角がなくて、人間みたいな見た目をしている。彼女のことなんて覚えていないのに、なぜか懐かしい気持ちになった。
「私が作るから大丈夫! プリムは座ってて!」
「おね――イグリムさんこそ、座って待っててください。料理ぐらい私が作ります!」
「こういうのは、お姉ちゃんに任せてくれていいのよ! 小さい頃なんて、遊んで遊んで遊びつくして暮らすものよ!」
しばらくお互い譲らない時間が続き、最後は二人で一緒に料理をすることになる。
「プリムは小さいのにすごいねぇ」
「そん、な、ことは」
知らないうちに自分を無理させてしまっていたのだろうか。突然泣き出す私を、彼女は私を抱きしめ、いつまでも慰めてくれた。時々仕事だと言って数日家を空けることこそあったが、彼女は――お姉ちゃんは、いつも私のそばにいてくれる。私のことを褒めてくれて、頭を撫でてくれて。
「お姉ちゃん」
「どうしたの?」
「あの、その……えっと、」
拒絶されるのが怖くて言葉に詰まってしまうが、お姉ちゃんは優しく微笑みながら、私のことを待ってくれる。
「あの、だ、大好き」
「きゃあああ! 私も大好き! 愛してる!」
そして、私の言葉にそれ以上の言葉で応えて――愛してると言ってくれて。私は、彼女のことがすぐに大好きになっていた。
村の子供たちとは仲良くすることができない。私の額を見て、からかうから。村の大人たちとも仲良くすることができない。私のことをそれとなく避けるから。
でもお姉ちゃんとは、仲良くすることができた。お姉ちゃんは、私にとってお母さんみたいなものでもあるし、お母さんとも仲良くできていることになるのかな。あ、それからもう一つ言いたいことがある。
「プリム様! イグリム様は大事なお仕事があるのです! どうかその手を放してあげてください!」
「やだやだやだ! またどっか行っちゃうの?」
「プリム様! おやめください!」
「まぁまぁ、バーグ。プリムもいつか、好きな子でもできてお姉ちゃん離れ」
お姉ちゃんの腰に半泣きになりながらしがみつき、目の前に立つ大柄な男――バーグを唸って威嚇する。私は、この男とだけは仲良くなれないと思う。理由は単純明快、こいつが嫌いだから。バーグを睨みつけながら、思う。私も、随分子供っぽくてワガママいうようになったものだなと。しかし、案外悪い気分はしなかった。だって、私はお姉ちゃんの妹なんだもん!
「プリム。イグリム様から手紙だ!」
「……そう。また、だいぶ間が空いたね」
「申し訳ない。イグリム様も多忙なんだ」
「……うん」
徐々に家を空ける頻度が高くなったお姉ちゃんは、いつからか戻らなくなっていた。今は時々、バーグさん経由で手紙を送ってくれるくらい。封筒を開けると数枚の便箋が入っていて、作法なんてお構いなしに、びっしり文字が詰まっている――それを読んで、返事を書いているうちは、まだ私は一人じゃないと実感できた。
「……」
いつしか、手紙すら送られてこなくなった。私は来月で18歳になる。もう一年も音沙汰がない。相変わらず村のみんなは私をそれとなく避けているから、友達はいない。私はまた一人になった。もう、何もかも、すべてがどうでもよくなった。
気づけば私は村を飛び出し、山の中を歩いていた。はじめは自然と一体化した気分になって爽快であった。しかし、そんな時間は長くは続かない。しばらくして私は、山に住む魔物たちに追いかけられ、ギリギリの中を必死に生き延びていた。
(なんで……? 魔族は、魔物に襲われないはずじゃなかったの……?)
嫌な汗が体中から噴き出る感覚。今まで当たり前だと思っていたものに、突然裏切られた気分だった。必死に山を駆け回るが、一向に村は見つからない。大人の魔族でも気をつけて進まなければ遭難するほど広大な山で、慣れない私ががむしゃらに走りまわり、もう一度村までたどり着くなんてことは、覆水を盆に返すほど不可能なことだった。
「ハァ、誰か、たすけ、て……」
息も絶え絶えで、掠れた声だった。誰にも届くはずはないが、私の生存本能が、迫る死への恐怖で刺激されて、足りない空気をさらに吐き出させ、口が勝手に助けを求めた。体力が尽きて殺される前に、窒息で死んでしまうとさえ思った。
ふと振り返って――見る。熊のような魔物は目と鼻の先まで来ていた。先ほど遠目で見たときより、その体はずっと大きく見えた。その凶悪な爪が無残に振り下ろされ、引き裂かれる幻が見える。あんな大きいやつから逃げられるわけはないし、勝てる可能性なんてもっとない。それでも私は僅かな可能性に賭け、足を踏み出す。最期の一瞬まで。
そして、背中に何かが触れる感覚がして――体が、ふわりと宙に浮いた。痛みはない。
「え、え?」
戸惑う私に、頭上からこんな山の中ではありえないはずの、誰かの言葉が聞こえた。
「怪我はないか?」
爽やかな顔から、私を安心させてくれるような優しい声が発せられていた。
「……」
「えーと、そうだな。とりあえず、俺の名前は――いや、名乗るほどのもんじゃない」
彼は一瞬逡巡するかのように言い淀み、名前は教えてくれなかった。知りたかったのに。
「あー、俺は君の味方だ。安心してくれ。君の名前を聞いてもいいか?」
「……」
夢心地だった。本当は私はあそこで死んでいて、何か幻でも見ているのかと思った。
「暑さにやられたのか……?」
彼は何かに集中するように一点を見つめ、小さな氷をいくつか空中に作り出した。彼は虚空から二枚タオルを取り出し、氷を包む。そして一つは私の首に設置し、一つは私に手渡してきた。
「とりあえず、どこかでゆっくりしようか」
彼は近くの日陰にゆっくり降り立ち、私を丁寧におろしてくれた。
「……ありがとう、ございます」
「気にするな。たまたま通りかかっただけだから。それよりほら、これ飲めよ」
彼は水筒を虚空から取り出し、私に手渡してきた。私が飲むのを申し訳なく思って躊躇っていると、彼は私が嫌がっているように見えたのか、慌てて口を開いた。
「すまん、それ俺の飲みかけだ。魔法で水を生み出してもよかったが、不味いかと思ってな。嫌なら代わりに水を――」
「……んくっ」
一気飲みした。水筒の中身はすっからかんだ。顔が熱くて、赤くなっている気がする。私は心臓の高鳴りを感じ、恥ずかしくなってタオルで顔を覆い隠した。少し冷静になってから、貴重な水を飲んでしまったことを申し訳なく思った。
「おお、意識がハッキリしたか? 名前、言えるか? どこから来たんだ?」
「……プリム。この近くにある、リアレス村からきた」
ぼうっとする頭からなんとか言葉を絞り出し、なんとか身元を伝える。しばらく休憩を挟んだ後、私は彼に抱えられ、リアレス村を目指して飛び立った。
「じゃあ、今後は気をつけてな」
彼は村長の元まで私を送り届けると、すぐに立ち去ろうとしてしまう。このまま彼と別れたくない、もっと彼と言葉を交わしたい。勢いのまま、私は声を出していた。
「あの!」
「……? どうした?」
振り返った彼は、私の目を見つめ返してくる。それだけで私は恥ずかしくなって、顔を覆い隠したくなる。見切り発車で声をかけてしまったせいで、何を言えばよいかわからない。
「あの、えっと……」
彼は優しく笑いかけながら、私の言葉を待ってくれている。
「その、ありがとうございました! 鳥のお兄さん!」
本当はその名前を聞きたかったのに、恥ずかしくなって変なあだ名で呼んでしまった。
「鳥……?」
「ああ、いや、その、空飛ぶのがすごい上手かったから! それより、もう少し時間はありませんか? もう少し、話したいです」
お兄さんは困ったように苦笑しながらも、私の勢いに押し負けて暫しの間私の家に来てくれた。彼の話はどれも面白かった。ずっと、聞いていたかった。
「また、来てくれますか?」
「そうだな。まあ、近い内に」
もう会えないと思った。しかし、彼はまた会いに来てくれた。あれほどすごい飛行能力を持った人だ。きっと、これからも会いに来てくれる。だから、今度こそ私は一人じゃなくなった。それなのに――
「殺した。俺の手で」
「……お兄さんの、裏切り者」
お兄さんが、お姉ちゃんを殺した? 許せない、絶対に。あの優しくて美しくて世界で一番のお姉ちゃんを殺すなんて、死んで詫びればいい。小さい頃の記憶がよみがえっては、剥がれ落ちていく。もう、お姉ちゃんには会えないのだと、認識する。そんなの嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――
でも、お兄さんは勇者で、お姉ちゃんのことを殺さないと自分が王様に反逆者として殺されてしまうかもしれなくて――だから、仕方ないと思う自分もいる。
心がぐちゃぐちゃにかき乱されて、未だ小さい私ではとても耐えられなかった。なんとか意識を保とうとするが、それを無に帰すほどの強い衝動が私の体を突き動かそうとする。そして私はついに、『私』を手放してしまった。
☆
「これは、一体……」
村人も、魔王軍も、その誰もが沈黙を守り、流れを見守っている。まるで、嵐が過ぎ去るのをじっと待つように。只事ではないと、その場にいる誰もが理解していた。そんな中で、俺の間抜けな声が揺れる空気に溶け込んで消えていった。
――彼女がここまでの魔力を有しているのはおかしい。そう頭では思っていても、実際に見せられたら受け入れるしかない。幼少期、一度だけ同じようなことがあった。明らかに、同じ生物とは思えない力を発揮した男。怪我さえなければ、俺じゃなくてあいつが勇者になっていたんじゃないかと、今も思ってしまうほど、鮮烈な衝撃の記憶。
「プリム……」
虚空を見つめる彼女から返事はない。そして、感じた――これは、彼とは違う。プリムは今、正気ではない。体に途轍もない負担がかかっていて、意識を保てていない。
どうする? この様子じゃ対話は不可能だ。いつ襲いかかってきてもおかしくない。俺は、この子も殺さないといけないのか……?
「ウェルドさんなら」
彼なら、どうするだろうか? そして俺は、どうすればいいんだ?
「……ぁ」
プリムの掠れた声がして、先ほどバーグが放った業火よりも、さらに数段激しく燃え上がる太陽が、俺目がけて飛んでくる。運命は、俺の選択を黙って待ってはくれなかった。
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