第23話

帰りのタクシーで、真希は最悪の事態を考えた。


「もしものことがあったら…わたしは、亜希や玲の未来を見守ることすら出来ないの?まだ二人に伝えなきゃいけないことがあるはずなのに。まだまだ二人に家族と一緒の時間を過ごしてもらいたいのに」


厚く鮮やかとは言いがたい灰色の雲から降り続く雨は、何を伝えたいのか。雲の向こうにあるはずの青空や太陽のような、そんな未来は手の届かない世界の話なのか。


---


自宅に着いた真希は、一旦類に連絡を入れることにした。


「もしもし、類?」

「どうした?何かあった…いや何かあったから連絡してきたんだよな」


他愛もない世間話のような回り道はせず、真希は単刀直入に告げる。


「実はね、わたし近日中に検査入院する予定なの」

「えっ?どこか悪いのか?」

「前々から体調が優れないことが続いていてね。さっき戻ってきたんだけど、そんなことを病院で言われてさ」


医師からの言葉を端的に類へ説明していく。


「そうか……」

「でも、心配しないで。きっと大丈夫よ」


真希のその言葉に、類はこれまでの事を思い出していた。


「何かあっても、真希はいつも「心配しないで」って言うんだよな。これまでは何とかなったけど、万一命に関わることとなれば話が違う。一旦俺も帰国する。こっちの話は付けておくから大丈夫」


「さっきも言ったでしょ?わたしは大丈夫だから…」


真希がそう言った瞬間、いや若干食い気味で類が


「大丈夫じゃないんだよ!」


と、やや感情に任せた声で答えた。


「ごめん…でも、今回は俺のわがままに応えてくれないか?それに、あの子たちのこともある。亜希は小学校を卒業していないし、玲に至っては卒園すらしていない」


類は冷静沈着で包容力のある人であるため、感情の波に溺れるなんてことは滅多に無い。長年付き合ってきた真希ですら、さっきのような声を荒げる類を見たことがなかった。


それは、類が家族のことを心配していると同時に自身の中で起きている異常への強い不安のようなものがあったのだろう。


「それに、もう一つ謝らなきゃならない。真希がそれほどに苦しみながら家事もこなし続けていたのに、俺ときたら仕事ばかりで家を空けてばかり…。時間を追う毎に、どんどんタスクは増えていくから家族との時間も取れない。果ては、真希の不調にも支えてあげられなかった」


さっきの大きな声から一転して、ずいぶんと元気の無い声で類が話している。


「海外へ行く話を決定付けたのは、わたしよ。類は最後まで国内に残るか悩んでいた。類は決して悪くない。だから自分を責めないであげて」


複雑な心境、妻を苦しめた罪悪感…色々な思いが類の心を駆け巡る。


「子どもたちは、真希の体調について知ってるのか?」

「心配させたくなかったから一切口にはしなかったんだけどね…亜希は体調が悪そうなわたしに気付いていたらしい。今日病院に行く決め手も、亜希が泣きながらわたしに訴えたことが理由だったの」

「亜希は本当に周りが見えてるから…取り繕っても、一瞬の隙を見逃さないんだよな。玲は気付いていないか?」

「亜希の話を聞く限り、今のところは大丈夫みたい。玲も今日の朝ごはん、いつも通り食べていったわ。まだ5歳だしね、さすがに状況を理解することは難しいと思う」


---


その電話のあと、類が明日には帰国する手配をしたという。


夕方になっても雨足が緩むことはなく、引き続き降りしきる。


夕方ぐらいにはマンションの前に幼稚園からのバスが留まり、玲が降りてくる。普段であれば仕事終わりに幼稚園へ向かい、真希の帰りを待つ玲を迎えに行く。


ただ、今日においては真希自身が自宅にいるためバスから降りてくる玲をマンションの前で待っていた。


少しすると玲は同伴する先生や友だちに別れを告げて、バスから降りてきた。


「ただいま!」


そう玲は言うと、幼稚園で起きた出来事を話し出した。


今日は粘土を使って色々なものを作った。体育館で友だちとドッチボールをした…遊具で遊んだ……。


ごくごく当たり前な園児としての時間を過ごす玲であるが、そこには家族以外との時間もあったりするわけで、少しずつ自分の世界を広げていることを意味していた。


小さくも確実な一歩。毎日が玲には新たな発見。


無邪気な笑顔を見せながら話を続ける玲の姿は、そういった未踏の地へ足を運ぶことで得られる経験が作り上げている。それは大人へ向けて成長している証で、毎日の玲が話に耳を傾ける時間は真希にとっても楽しいものであった。


「玲。明日、お父さんが帰ってくるよ」


真希のその言葉に、先ほど以上の笑顔をぱあっと見せた玲。なかなか同じ空間で時間を過ごせない父との時間は玲にとって貴重である。


普段は三人で暮らすことに慣れているのかもしれないが、だからこそ家族全員が揃う時間を味わえる意味は大きいのだろう。


「お仕事が終わったの?」


「すべての仕事が終わって、これからはずっと一緒にいられるの?」といったような疑問。その言葉に、心の内側でもう一人いるはずの父が不在である事実に寂しさを抱いているのか…と真希は察した。


「いや、何日か戻ってくるって言っていたわ。目一杯楽しんでね」


類が帰国する理由を今は明かさない真希。


添えた言葉には、父である類と過ごす時間を出来るだけ楽しんでほしい…という内容であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る