第17話
父がいなくなった家庭環境がもたらす寂しさを知っていた真希にとって、ピースが一つ足りていないアンバランスにも見える状態を自分の手で補い切れるのかという不安。ただ、そんな不安を見せてしまうと、心配性である類に更に余計な負担を掛けてしまう。
「真希はね、自分が親元から離れて一人で大学生として暮らしていくまでの時間の中で、わたしに母親として何を心掛けていたのかを訊いてきたわ。わたし自身、海外を回っていたから正直親としての責務を果たし切れていなかったし、親戚にお世話になりっぱなしだったから偉そうな事は言えなかったけど…」
仕事と教育というバランスの難しさを身をもって経験した百合。ましてや国内にすらいない時間があるため、その釣り合いを保つことは至難の業であっただろう。
何を言ったのかを思い出しながら、当時の記憶を少しずつ言葉へ変えていく。
「あなたと会える時間が少ないから、出来る限り一緒にいる時間を大事にしたこと。ありったけの愛情を、あなたには与えたということ。でも、それだけで全ての寂しさを拭えたとは思えなかったけど、何とか埋めることで必死だったということ」
「あとは…」と、他に何か教えていたことが無かったかを振り返る百合。
「愛情の欠けは、子どもにとって最も避けなければならないということ、かしら。他にも佇まいや言葉、態度といった細かな部分を伝えられるだけ伝えたと思うけど、それよりも今言った「愛情が足りないと子どもが思う瞬間」を埋めなければならないということは、わたしの教育論としてのプライオリティだったわ。そう思っていながら結局果たせなくて、真希には申し訳ないと今でも思っているの」
愛情の欠落がもたらす悪影響は想像を超えるものがあり、最悪のケースとして犯罪にまで発展することも珍しくない。
百合は真希がそういった非行や悪行には手を染めないという思いはあったとはいえ、何かのきっかけ一つで道を踏み外す可能性というのは誰にでもあるだけに、すぐに軌道修正する環境が無い怖さのような感覚はあった。
そのあたりの細かな教育を親戚に委ねざるを得ない状況。とはいえ、今の仕事を全て捨てることも当然ながら出来ない。そんな板挟みは、思っている以上に百合を苦しめていく。
それだけに、親戚から聞く真希への褒め言葉やビデオ通話を通じて見える真希の真っすぐで純粋さを保ったままの瞳は、百合にとっては大きな救いであったし心の苦しさを解いてくれた。
百合は常に遠い場所から真希を思ったり心配をしていたが、真希は自分が果たすべき役割を完璧に果たすことで百合の心配を取り除いていった。
そんな時間を経験したからか、百合は真希に「あなたなら大丈夫」と伝えたという。
加えて、真希の場合は百合と違って子どもに近いところにいられる環境であったため、自分よりも精神的な負担は少なからず和らいだ状態で子育てに努められるという思いもあった。
でも、もし必要ならいつでも手助けをする準備は出来ていた。それが、百合にとって自分が育児と仕事の狭間での苦しみを解いてくれた真希への恩返しだと思っていたからだ。
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真希は亜希を育てるにあたり、驚く程に順調であった。とにかく泣くことがなく、一体何が起きているのかというぐらいに…。
育児に励む世間や周囲の人々が苦労する物事は一切なく、淡々と…いや駆け足なぐらいに成長曲線を登って行った亜希。例えば言葉を例に挙げると、通常言葉は1歳を前後に発するようになるが、亜希の場合は3か月程度の段階で言葉を発し始めていた。
「あまりの早さに、わたしも驚いたの…」
「亜希って、天才の類いだったのかしら…」
玲自身も、亜希のそんな幼少期があったことを知らず「えぇ…」と驚いている。
育児ノイローゼなる言葉があったりと、子育てというのは常に高い壁を乗り越えていかなければならず、その過程で心身が疲弊し人として破綻するケースは世の中に散見される。
亜希は、類が海外進出して一人となった真希が辛さを味わうことが無いように、生まれながらに他の子どもにはない大人過ぎる心を持ち合わせていたのかもしれない。
「亜希ってね、本当に凄いのよ!」
非現実的にも思える現実を前に、不思議な思いを含んだ興奮を表現する亜希の姿を百合は覚えている。
「あの子、感情とか表に出すようなタイプじゃなかったから、それだけ亜希さんに抱く感情は特別だったんでしょうね」
すると、ふと百合が亜希に関する驚いたエピソードを思い出した。
「わたしと二人で公園に行ったことがあってね、そこで同じぐらいの年の子たちが喧嘩をしていたの。小さな子どもたちだから、きっと些細な事だったと思うけど。そしたらね、亜希さんは腰掛けていたベンチから立ち上がって喧嘩をするその二人のもとへ歩いて行ったと思ったら、仲裁をし始めたの。信じられないでしょ」
まるで年齢の離れた学生や大人が作るようなエピソードに雫は
「そんなことしたんですか…!」
と、驚くことしか出来なかった。「わたしには到底出来ない」と雫は心で思ったが、そもそも雫に限った話ではなく普通の子どもが出来る芸当ではない。
「えぇ、そうなの。相手は男の子2人だから、何かあって巻き込まれたら女の子の亜希さんは怪我をするかもしれない。わたしも慌てて3人のもとへ行こうとしたら、程なくして喧嘩が収まって2人の男の子は仲直りをしていたの。亜希さんは、不思議なことばかり。わたし自身も真希の子育てを経験した身ではあったけど知らない出来事の繰り返しだったわ」
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