憎しみという感情の話④

私は、王を睨みつける。


「風よ」


 閉め切られた王城の中、淀んだ空気がかき混ぜられる。辺りに風が吹き抜け、裾をはためかせる。

 王が持つ、憎しみの宝石を見つめる。ブレスレットとして加工されたそれを王から切り離せば、正気を取り戻す可能性はある。


「来たれ風精霊シルフよ。呪物を切り裂き、禍々しきを取り払え」


 小さなブレスレットを狙い、鎌鼬を飛ばす。しかし王が腕を捻るだけでかわされてしまう。

 ヘドロが辺りに撒き散らされ、それを鎌鼬で切り裂いて、再びブレスレットを狙うものの、王はそれを許さない。


「くそっ……杖を持って来てれば……」


 焦る。これ以上長引かせたくない。

 いっそ腕ごと吹き飛ばしてしまうか……しかし、それは……


「油断したな、黒魔女よ」


 王が笑う。


「は?」


 私は辺りを見回した。

 足元にはヘドロが点々とちらばる。それらは魔物・スライムのように這いずって、ヘドロ同士でくっ付き合う。

 あっという間に巨大なヘドロの塊となって、私に覆いかぶさってきた。


「くっ……」


 ヘドロに飲み込まれる。

 頭から足先まで、体全体がドロドロとした半液体に包み込まれる。

 視界は真っ黒に塗りつぶされ、何も見えない。


 こんな手に引っ掛かるなんて、とんだ間抜けじゃないか。

 くそっ……


「息吹よ」


 魔法のために呪文を唱えようとするが、口の中にまでヘドロが侵入してきて声が出せない。口の中に、鉄臭さが広がる。鉄というよりは、これは……血液の生臭さだろうか……


 くそ。不快だ。気持ちが悪い。

 そもそも、王が私を恨むなど、お門違いだろう。

 この世界の厄介事に、首を突っ込むんじゃなかった。

 魔女狩りなんてそもそも私を炙り出すための行為だろう。それをわかっていながら、火消しに向かうなんて私はバカだ。


 空があんなことを言わなければ、私は殺すか殺されるかの選択ができた。私が自死を選べば、すんなり解決したことじゃないか。


 そもそも、星降堂がこの世界を選ばなければよかったんだ。

 それなら王子に会うこともなかったし、弟子入りしたいと言われることも、結果王から恨まれることもなかった。


 ああ、全部、全部腹立たしい。憎らしい。


『魔女さん』


 声が聞こえた。


『魔女さん。早く帰ってきてくださいね』


 空の声だ。

 暗い視界の中、私は目をこらす。


 美空色の光が、私を照らしていた。

 弱々しい光だが、私のすぐ近くにあることはすぐにわかった。

 光の元を探す。


「これ……」


 前掛けエプロンのポケットから出てきたのは、昨日直したばかりの魔法具。『さやかな花水晶フロラクォーツ』……どうしてここに……


「ああ、そうか。くふふ……」


 出かける前、ブラウニーがポケットに忍ばせていたのだと気付き、笑いがもれた。

 ああ、私は魔法使いとしてまだまだ半端者だな。弟子の『希望』と、家付き妖精ブラウニーの機転に助けられるなんて。


花水晶フロラクォーツよ。浄化せよ」


 水晶の中で、ガーベラが花開く。青い光が辺りを照らし、黒いヘドロを内から照らす。音もなくヘドロは崩れ去り、跡形もなく消え去っていく。

 

 ああ、これは希望の光だ。

 あまりに大きくて、あたたかい。初夏の空のような、爽やかな色。美空色の、希望の光だ。


 …………

 気付けば私は床に倒れていた。

 すぐに体を起こして、同じように床にひれ伏した王へと目を向ける。

 彼の手首を飾っていた憎しみの宝石は、まるで灰のようにぐずぐずになって、音もなく消え去った。


「……すまない……」


 王が口を震わせた。


「魔女よ、すまない……民よ……すまなかった……」


 王は震える声で謝罪する。

 自分を押し潰していた憎しみが消えたことで、自分が仕出かした罪の大きさを知ったんだろう。今、王から見える感情は、恐怖の黒に悲しみの青。深い深い、海の色。


「アレキサンダーから言われていたのだがな。

 自分が死んでも、誰も恨まないで欲しいと。死ぬかもしれないリスクを負ってでも、自分の夢のために魔法を学ぶと決めたのは、自分自身だと」


 王子は気づいていたのか。魔法を使うにはリスクが高いこと。


「だが、儂は心が弱いばかりに、誰かを恨まずにいられなかった。息子が死んだ理由を、外に欲したんだ」


 目を伏せる。

 断罪することができない。憎しみに囚われて、無関係の国民を殺していったのは確かだろうけど、でも、弱りきった王をどうこうしようと思えなくなっていた。


 踵を返す。

 王はこれ以上何もしないし、できないだろう。

 私がやるべきことは終わったから。


 星降堂に帰ろう。

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