第34話 ゲルトルーデの変異

 ヴォルフェンシュタイン邸の二階の一室、ストロスはゲルトルーデを前に、眉間にしわを寄せていた。

「これは……以前よりも状態は悪くなっているわ」

 ストロスは言葉を詰まらせる。

「入っていいわよ、伝染の心配はないわ」

 ドアから中を覗くノーラたちの顔がある。ストロスは彼女たちを呼んだ。

「で、どうなの?助かる?」ノーラが焦りを隠せない様子で尋ねる。

 ストロスは深いため息をつき、眼鏡を外して目を擦った。

「ひどいことをするものね。正直、私の手には負えないわ。ゲルトルーデの記憶に、もう一人の人間の魂が食い込んでいる。魂の色を見るに……」ストロスは眼鏡を額に持ち上げ、顔をを近づけると視力のモードを変えた。「恐らく邪な人間。それが彼女の記憶を侵食している、細胞レベルでね」

 アデルがごくりと唾を飲み、尋ねた。「……つまり?」

「絡まってほどけない糸のようなもの。手遅れだわ」

 ストロスは白衣と手袋を脱ぐと、汗を拭いて、お茶を一気に飲み干した。

「そうだ!ストロス、あなたのおじい様ならなんとかなるんじゃない?なんたって悪魔界で五本の指に入る名医でしょう」ノーラは拳で手のひらを打った。しかしストロスの反応は鈍い。

「確かに祖父なら何か方法を見つけられるかもしれない」彼女は一瞬躊躇した後、付け加えた。「でも、おじい様、人間が大嫌いなのよ。『あんな下等生物の治療はごめんだ』って言うに決まってる。そこは譲らないはず」

 セレスティアはゲルトルーデを哀れんだ。そして彼女のそばで囁いた。

「ねえ、あなたはただクラウスに再会したかったのよね。それを利用するだなんて、まさに悪魔の所業ね」

 ストロスやベルティーユたち、悪魔組が天使をぎろりと睨む。

「こ、言葉の綾でしょ。オ、オットーのことを言ったに決まってるじゃない。まったく、短気なんだから」

 セレスティアは話を切り替えた。

「そうよ!オットーがやったのなら、彼も相当な魂の技術者のはずよ。彼を拘束して、元に戻させるべきよ」

「確かに、難しいでしょうけど、それしかなさそうね。彼の居場所を探る方が建設的」ストロスがその提案を支持する。

 その時、ゲルトルーデの体が痙攣し始めた。ストロスは慌てて彼女に近づく。

「これは……ゲルトルーデが相手を拒絶している。でもウィルス、つまり相手のほうが強力みたい。彼女の自我がなくなるのは時間の問題だわ。ワクチンで内部から殺すのがいいのだけれど、一朝一夕でできるものではない」

 部屋の空気が一気に緊張感に包まれた。アデルとノーラは言葉もなく顔を見合わせる。救いの手を差し伸べられない無力感が、彼女らの心を重く圧迫していった。


 夕暮れ時、オットーは高台からヴォルフェンシュタイン邸を見下ろしていた。彼の手には、悪魔界特製の魔眼鏡。この装置は単なる双眼鏡ではない。魔力を持つ者を識別し、レベルに色分けして表示する優れものだ。赤は強敵レベル、オレンジは並のように。

「さて、どんな連中がいるかな」

 オットーは鼻歌交じりで、レンズを覗き込んだ。視界が青く染まり、邸内の人物たちが浮かび上がる。

「おや、これは……まずは懐かしき製薬会社時代の社長令嬢」

 ノーラの姿が現れる。色は予想以上に高い。

「ふむ、成長したようだな」

 次にアデル。

「人間にしては高いな。エレオノーラと契約した魔女か」

そして……

「おい、あいつは……!!」

 セレスティアの姿に、オットーは思わず息を呑んだ。

「即位式で出くわした天使じゃないか!なんで悪魔らと一緒にいる?」

 他にも見知らぬ悪魔や人間の幼子がいるが、エレオノーラと天使以外はオットーの力と比べてさほど脅威ではないと判断した。

 最後に、ゲルトルーデの姿を確認。「異端審問官に回収されるよりは、幸運だと思うしかないな。奴らなら、すぐに焼却処分だろう」アデルに布巾で顔を拭かれている。

 しかし、あの屋敷にいる全員を一度に相手にするのは彼とて勘弁したいところだった。できれば誰にも遭遇せずにゲルトルーデを連れ出したい。

「クラウスが捕まったのも好都合だな。邪魔立てされない」

 夜も寝静まったころ、オットーは静かに庭に降り立った。

「さて、どこから入るか……」

 突如、左から光の矢が走る。オットーは寸でのところで身をかわす。

「なんだ!?」

 今度は右から。目を凝らすと、不可視の糸が淡く発光し、そこら中に張り巡らされている。足を移動した先に新たな糸がある。再び魔力を込めた矢が飛来する。避けきれず、背中の羽に刺さった。

「ぎゃあ、こ、この痛み、熱は悪魔のものではないぞ!矢は悪魔の物だが、付与された魔力は天使のものだ。奴ら協力しているのか、信じられん」

 オットーは矢を一気に抜いた。焼けるような激痛が貫通部から広がってゆく。これでは二階の窓からの侵入は無理だ。

「くそったれ、あの天使のガキめ。絶対に殺す!」

 彼は激情をなんとか抑え、痛みに歯を食いしばりながら、一本、また一本と糸を注意深く避けながら進んだ。やっとこ玄関までたどり着いた時には額から脂汗が大量に流れていた。

「面白いじゃないか……久しぶりの好敵手というやつだ」

 彼は不敵に舌なめずりをして、口を拭った。

 オットーは深呼吸をし、静かに玄関のドアノブに手をかけた。しかし、開けた瞬間、上から何かが落下してきて頭頂部を直撃して鈍い音を立てた。星が舞い、目がちかちかした。

「なっ!」

 激痛に叫びそうになるのをこらえる。レンガが一個足元に転がる。

「くっ……今度は人間の仕掛けか。こんな幼稚なトラップに引っかかるとは」

 彼は頭をさすりながら、玄関ホールに踏み入れる。暗い室内、すでに全員就寝しているようだ。オットーは警戒しながら前進した。

 突如、床が軋む音。

「ん?」

 次の瞬間、足元の板が抜け、オットーは穴に落下。何とか両手で縁を掴み、ぶら下がる形に。

「ちっ、まさか罠がこんなところにまで……あいつら、私のためだけに家を魔改造したのか?」

 苦労して這い上がると、今度は廊下に張られた縄。足を取られ、顔面から転倒。鼻を強打して、悶絶した。しかし声を出すことができない。涙が溢れてきた。

「もう、くそっ!俺が馬鹿みたいじゃないか。目上への敬意はないのか」

 顔を上げると、目の前に階段が。オットーは慎重に一歩ずつ上がっていく。

 突然、階段の一段を踏み抜け、片足がはまる。トラップではなく、エマが注意書きをして応急の板を貼っておいただけだ。単なる老朽化であった。

「がはっ!」

 その音でクララが目を覚まし、寝ぼけ眼で起き出してきた。廊下で見知らぬ男を見上げたクララはオットーと目を合わせ、大きな悲鳴を上げた。「きゃーーーー!!」  

 それに合わせて、全員が起き出してくる。

 オットーはよろめきながらも、何とか二階へ。そこで彼は立ち止まり、息を整える。

「ゲルトルーデの部屋は……最奥だな」

 彼は走った。ゲルトルーデの部屋までは罠はさすがに用意していないようだ。彼女はベッドで寝ている。

「やっと……見つけた」

 オットーは疲労と痛みで息を切らしながら、ゲルトルーデに近づいた。

「さあ、今こそお前の力が必要なんだ。目覚めろ」

 足音がどんどん近づいてくる。オットーは素早くポケットからナイフを取り出し、ゲルトルーデの首元に当てた。

 部屋に駆け込んできたノーラたちは、その光景に息を呑んだ。

「ゲルトルーデさん!」アデルが叫ぶ。

「来ると思ったわ。探す手間が省けたってものよ、観念しなさい、オットー」ノーラが一歩踏み出す。

「動くな!」オットーは冷笑を浮かべながら、ゆっくりと後退した。

「こちらは、生憎おまえらと交戦する気はないんでね」

 ゲルトルーデの目に薄く開かれる。

「クラウス……どこ……?」

 その声にオットーは一瞬驚くが、すぐに取り繕う。

「ああ、そうだ。クラウスのところへ連れて行ってやろう」

 窓に到達したオットーは、肘で窓ガラスを割った。

「さらば、愚かな娘たちよ」

 そう言い残し、ゲルトルーデを抱えたまま窓から飛び出した。

「待て!」

 ノーラの叫びも空しく、オットーはゲルトルーデを抱えて夜の街に消えてゆく。

「ルナ、ステラ、オットーを追って!」

 ノーラが指示をだすが、追跡してしばらくすると、「見失った」と戻ってきた。

「決定的なチャンスを逃してしまったわ、悔しい」ノーラは歯ぎしりした。

 部屋に残された者たちは、唖然とその場に立ち尽くした。


 石畳の道を、重厚な馬車が城の裁判室へと進んでいく。車内では、鎖で拘束されたクラウスが、無表情にカーテンのすき間から外を見つめていた。彼の手首と足首を縛る鎖は、動くたびに冷たく音を立てる。

「よかったな、クラウス神父よ。今日の裁判は公平に進むはずだ」護送官の一人が、半ば嘲るように声をかけた。彼の制服の胸元には異端審問局の銀の紋章が光り、顔には硬い自信が浮かんでいた。

 クラウスはゆっくりと窓から視線を移し、男をじっと見た。その目は疲れ切っていたが、なお知性の輝きを失っていなかった。

「公平だと?」クラウスはかすれた声で言った。「教会が心を決めた裁判に公平などという幻想を抱いているのか。お前たちは私の罪を決めるためではなく、確認するために来たのだろう」

「主の御名を汚すな、異端者め!」もう一人の護送官が低い声で唸った。彼は腰に下げた鞭に手をやり、威嚇するように指で撫でた。「お前のような輩に聖なる教会の裁きを疑う資格などない」

 クラウスは苦々しい笑みを浮かべた。瞳の奥に何かが灯る。

「ふっ……」短く笑った後、彼は前かがみになって顔を近づけた。「私を異端者というのですか。真実を求めた者が、なぜ悪とされるのか。真の闇は誰の心に潜んでいるというのに」

「真実だと?」先の護送官が眉をひそめ、声に軽蔑を滲ませた。「無実の人々を毒し、悪魔と契約を交わしたのが、お前の言う真実か?」

 クラウスが言い返そうとした瞬間、激しい衝撃が馬車を襲った。

「なっ……!?」

 馬の悲鳴、木材の砕ける音、運転手の叫び声が入り混じる。クラウスは前方につんのめり、体が宙に浮く。

 次の瞬間、世界が回転した。

 馬車が横転し、内部は混沌と化す。護送官たちは壁や天井に叩きつけられ、クラウスは鎖の重みに引かれて天井に転がった。

「くっ……」

 頭を強打し、耳鳴りがした。視界が霞む。二人の護衛官が歪んだドアを蹴破り、外に這い出す。しかしその直後、断末魔が聞こえ、クラウスのすぐ側に倒れてきた。白目を剥いて、見るからに絶命していた。

 もぞもぞと動き、体の向きを変え、外に出ようと試みる。と、その時だった。あらぬ方向から腕が車内に伸びてきた。その左手の薬指には、クラウスがゲルトルーデに送った婚約指輪があった。

「ゲルトルーデ、なのか!?」

 クラウスは牢獄で会った天使が彼女を救い、自分を助けに来たのだと思った。

 直後、彼女の手がクラウスの首根っこを掴み、強引に引きずり出した。女性の力ではなかったし、そもそも彼女は動ける状態ではなかった。回復したのだろうかと、淡い期待を胸に彼女を見上げた。

 そこには変わり果てたゲルトルーデの姿があった。目は悪魔の血のように真っ黒に染まり、口は人形の材質になり、笑った形のまま顎が外れたように上下している。何より、腕が四本になっていた。うち二本はゲルトルーデの細腕だったが、残る二本は筋肉質の男性のものだった。

 ゲルトルーデはクラウスを片手で持ち上げた。首がしまり、息ができない。彼女はもう片方の手をクラウスの心臓部分に伸ばしたが、直前でなぜか停止した。彼女の中の何かが、阻止しようと抵抗して手が震えているようだった。

 彼女の二本の腕が彼を引き寄せ、抱きしめた。苦悶の表情をしながら、わずかに残るゲルトルーデの残滓が彼に告げた。

「……わ、わたしを……こ、殺して……」

 そしてすぐにまた狂気の側に引き込まれたように、クラウスは宙吊りにされた。だが、ゲルトルーデはなんとか彼を解放しようと、クラウスを投げ飛ばした。石畳に強打する。のたうち回り、気が遠くなるのを堪える。

 ゲルトルーデだった存在はクラウスへの興味を失い、城の方向へ機械的に進んでゆく。その後ろをオットーが歩いていた。クラウスの怒りが沸点に達する。

「オットー、彼女になにをしたあああ!」

 クラウスの叫びにオットーは一度振り返り、用済みとばかりに、「そこで見ていろ」と冷たく吐き捨てた。

 クラウスは近くで息絶えていた護衛官のポケットをまさぐり、手錠の鍵を見つけた。口にくわえて、鍵穴を探る。落ちていた剣の鞘を杖代わりに、足を引きずり、ふらつきながらゲルトルーデたちを追った。

「待ってろ、決して殺させやしないさ」

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