第33話 教会、動く

 王宮の貴賓室。アンネリーゼが入ると、先にミヒャエル・フォン・エルツ枢機卿が椅子に座り、お茶を飲んでいた。すでに齢七十に近づきつつあるが、狡猾な目は、まだ教会を束ねる実力者のそれだった。銀糸の刺繍が施された深紅の枢機卿服は、その威厳を物語っている。

「おはようございます、ミヒャエル枢機卿。大事な早朝のミサを急がせてしまい、申し訳ございません」アンネリーゼは敬意を込めた深い謝罪をした。。

「陛下、ご心配には及びませぬ。主への祈りは既に済ませて参りました」彼は立ち上がり、僅かに頭を下げる。「しかし、このような早い時間に老臣をお呼びになるとは、よほどの急事とお見受けいたします」

 アンネリーゼと並ぶと、孫とそれをかわいがる祖父のようにしか見えない。だが、彼は二代の王に仕えてきた老獪な政治家でもあった。彼女は世間話もほどほどに、本題を切り出した。

「枢機卿様、実はクラウス・シュミットという神父の件で緊急の報告があります」彼の耳元に口を近づける。

 枢機卿は眉をひそめた。

「陛下、何か私の目の届かぬところで、ご迷惑をかけておりますかな?シュミット師といえば、確か聖ゲオルギウス教会の神父であり医師でもありますな。神学に精通し、病める者を癒す手腕も持つ有能な人物と聞いておりましたが……」彼は自分の長い白髭をゆっくりと撫でながら言った。

「いえ、迷惑など決してありません。ただ世間や貴族たちの間で被害が出ている、通称ブルーローズという薬の出どころが、そのクラウス氏である可能性が高いのです」

「それはまことか?ブルーローズ……」枢機卿は茶碗を置き、厳しい表情になった。「その噂は私の耳にも入っておりました。若い貴族の間で流行している悪魔の薬と。まさか我が教会の者が関わっているとは……」

 アンネリーゼは声を潜める。「医学博士でもある彼が、違法な実験を行っているとの情報も入っております。ぜひ枢機卿様のお力添えで早急の調査をお願いできるでしょうか」

 枢機卿は頷く。

「承知しました。異端審問官を直ちに派遣しましょうぞ。これは単なる不品行の問題ではなく、異端の疑いがあるなら教会の法廷で裁かれねばなりませぬ」彼は十字を切った。「主の御名において、この腐敗を洗い流さねばなりますまい」

「ありがとうございます。また、私の直属の部下が被害にあっておりまして、事情にも詳しいので、尋問の際は同席させてください」

「言っておこう。ただし、教会の法と手続きには従っていただきたい。この事態が公になれば、ただでさえ揺らいでいる信仰心がさらに損なわれかねません」枢機卿は息を吐き、疲れた様子で続けた。「最近の若者たちは昔と違う。教会の言葉より、悪魔の囁きに耳を傾ける者が増えております。私の力の及ぶうちに、この腐敗を断ち切りたいものです」

 アンネリーゼの普段見せる演技めいた態度は鳴りを潜め、大人びた常識人の振る舞いで、教会のトップとも渡り合っていた。アデル達が見たら、誰かと思うだろう。

「春のお花見には、またお招き致します。どうぞご自愛くださいませ」

「ありがたい言葉です、陛下。この老体、主の御心のままに。もう幾度花を愛でられるかわかりませぬが」彼は少し憂いを含んだ笑みを浮かべた。「どうか若き女王としての重責に耐え、この国を導いてください。私の祈りは常に陛下と共にあります」

 彼女が労うと、枢機卿は微笑み、女王の手の甲に口を近づけるに留め、敬意を示すように深く頭を下げた。


 数日後、大聖堂の説教壇にクラウスが立っていた。長髪を後ろでシニョンに固め、無精髭も剃り、パリッとした黒いカソックに身を包んでいる。しかし、げっそりした頬と目の下の隈は心労を隠しきれていない。

「そして、主は言われました。『汝の隣人を己のごとく愛せよ。憐れみの心を忘れぬ者は、天上の祝福を受けるであろう』」クラウスは声に温かさをたたえながら、説教壇の上から信者たちを見渡した。「思いやりの手を差し伸べることこそ、我らが生きる意味ではないでしょうか。たとえそれが小さな親切であっても、一人の心を救い、その波紋は広がりゆくもの。飢えた者に一片のパンを、悲しむ者に慰めの言葉を、病に伏す者に癒しの手を。いかなる富も、いかなる栄誉も、真の善行には及ばないのです……」

 善行の尊さを説いている時、突如、大聖堂の扉が乱暴に開かれる。

 黒装束の異端審問官数名が入ってくる。信者たちがざわめく中、隊長がクラウスの前に足音をことさら大きく進み出る。

「クラウス・シュミット神父、あなたを違法薬物の製造および流通の容疑で拘束する。これは女王陛下および枢機卿からの正式な命令だ。異議を唱える余地はない」

 鋭い声が大聖堂に響き渡る。クラウスは一瞬、理解が追いつかないかのように目を見開いた。

「何の……これは何の冗談ですか?」

 彼の声は震えていた。神父としての落ち着きが完全に崩れ、動揺がはっきりと顔に表れていた。信者たちは息を呑み、耳を疑うように神父を見つめた。

(どこかに落ち度があったか……密告か?いや、素顔はばれていないはずだ!)

 異端審問官たちは一切の感情を見せることなく、冷酷にクラウスに近づく。隊長が顎で部下に「やれ」と指示を出す。そのうちの一人が無造作に彼の腕を掴むと、同じ聖職者であることすら疑うような容赦ない力で強く押さえ込んだ。説教台に顔を潰されながら、両手を縄で拘束された。彼らの無慈悲な動きが一層場の緊張を高める。

「おやめください!私は無実だ!何もしていません!」

 クラウスは必死に叫び、信者たちに縋るように見渡す。しかし、皆、困惑と不安の表情を浮かべ、何も言えずに硬直していた。彼にも教会機関の厳格さはわかっている、異端審問官に慈悲は期待はしていなかった。ただ、このままではゲルトルーデを放置したままになってしまう、そのため抵抗せざるを得なかった。

 彼は容赦なく大聖堂の中央通路を引きずられていく。このまま逃走しようと、もがいたが、腹に拳が入り、息が止まる。よだれが流れ、項垂れたとき、彼が築いた信頼と敬意の全てが音もなく崩れ落ちた。

 外には車内が見えないように厚いカーテンが引かれた馬車が待っていた。警護の黒い装束を纏った異端審問官たちが周囲を取り囲み、その姿が不気味に影を落としている。商店から、客や店主が往来に出てきて、何事かと騒いだ。

 クラウスは腕を固く掴まれ、何度も抗議の声を上げながら、力づくで馬車の中に押し込まれた。

 馬車の扉が重く閉じられ、クラウスはカーテンのすき間から見慣れた教会を見た。すでにもう自分とは縁のない見知らぬ建物になったと感じるのだった。

 オットーが助けにくるかもしれないと一瞬考えもしたが、そんなことはないだろうとすぐに確信した。

(結局は私もただの駒にすぎなかったのだ。聖職者である自分は、悪魔の事を誰よりもわかっていただろうに。欲望に負けた私のミスだ……)

 彼はただただゲルトルーデのことが心配で、激しい焦燥感に駆られ、自らの処遇になど頭が回らなかった。


「陛下から連絡があったわ」と、ノーラは城との連絡に使う烏を窓から招き入れ、足に撒かれたメモを読んだ。「とうとうクラウスが捕まったわ。処刑もあり得るでしょ。時間がないわ、早速、面会に行きましょう」ノーラが決意を込めて言った。

 セレスティアは眉をひそめ、静かに言葉を返す。

「それは早計すぎるわ、ノーラ」

「どういうこと?」ノーラが不思議そうに尋ねる。

 セレスティアは真剣な表情で説明を始める。

「彼は異端審問官に囚われているのよ。彼らは対悪魔のプロフェッショナルなの」彼女はノーラやへレーネを指さし、「あなたたち、自分が悪魔であることを忘れたの?入口には聖水の洗礼があるだろうし、悪魔を見抜く能力にも長けているわ」と注意した。

「迂闊……」ノーラの表情が曇る。

「私なら無傷で通過できるわ」

 セレスティアは薄い胸を張って自信を持って言う。

「汚れなき天使である私には聖水は何の影響もない!」

「なんか言い方にとても悪意を感じるわね。私だってまだ純血よ」ノーラが拗ねて見せる。

 アデルが静かに提案する。

「私も一緒に行きましょう。大司教の娘である私なら問題ないはずです」

 セレスティアは頷く。

「そうね。アデルと私で行くのが最善だわ」

 と、アデルの手を握る。

 ノーラは不本意そうな表情を浮かべながらも、同意する。

「わかったわ。二人とも、気をつけて」

 アデルは久しぶりに本来の教会の正装をクロークルームから取り出した。黒色の厚手のウールで仕立てられた長袖のローブを身につけた。袖口や裾には、手刺繍の十字架模様が施さており、着る者の職務の尊さを静かに主張していた。また、腰には、小さなロザリオがぶら下がり、祈りの言葉を象徴していた。襟元は高く、顔の輪郭を際立たせ、同時に厳粛な表情を強調した。足元は黒色の革製の靴で、装飾は一切なく、実用性を重視。頭には、白いベールを被り、顔の半分を覆っていた。

(これなら、異端審問官も納得するはず!)

「やっぱり、あなたには修道服が一番似合うわ」ティアが絶賛する。

「そうかしら、魔女のローブのほうが絶対チャーミングよ」ノーラが対抗する。

「あはは、どうだろう?」

 二人の間でアデルは苦笑いをして、どちらの好意も汲み取った。

 アデルとティアは情報にあった教会に出向いた。地下牢獄への階段には武装した下級兵士の者が立っていた。ティアはアンネリーゼが発行した、正規な面会許可を求める書面の入った封筒を護衛官に渡した。封には王国の紋章である鷲とオークの木を模った蝋封が施してある。

 ひとりが階段を下りていき、上司の確認を取ってきた。無表情で「入れ」と促される。アデルは緊張で、握った手の平に汗をかいた。

 牢獄は湿った空気が石壁に張り付き、松明の揺らめく光が不吉な影を落とす。セレスティアとアデルは、異端審問官に先導され、廊下を進む。石床を踏む足音がことさら大きく響く。

「止まれ!これより先は立ち入り禁止だ」

 常駐する審問官が厳しい声を上げた。ティアは呆れて、再度女王陛下の封筒を見せる。「指示系統がなってないんだから。これが私たち天使族の信徒だと思うと、複雑な気持ちになるわ」と独り言ちた。

 その後、彼女たちの前に聖水の入った大きな石盤が置かれる。

「清めの儀式だ。これを通れなければ、貴様らを悪魔であると判断する」

 アデルは緊張した面持ちでセレスティアを見る。セレスティアは落ち着いた表情で頷き、一歩前に出る。

「大丈夫よ、アデル」

 セレスティアがまず聖水に足を踏み入れる。もちろん何も起こらない。むしろ、水は淡く光り、より強力な聖水になってしまった。

「次!」命令口調で催促され、アデルは身を縮こませた。震えるアデルにセレスティアの手が差し伸べられ、ゆっくりと聖水に足を入れる。こちらも当然痛みはなく、むしろ温かい感覚が体を包んだ。

 儀式を終えた二人は、兵士に案内され、さらに奥へと進む。通路の左右には小さな鉄の扉が続いており、そこが牢屋であることがわかる。

 兵士が止まり、ある扉の施錠を解く。

「ご注意ください。面会は砂時計一つ分となっております」砂時計が入り口の椅子に置かれた。

 セレスティアとアデルは頷き合い、低い扉を腰を低くして中に入った。

 蝋燭一本の薄暗い牢獄の中、ふたりは目が慣れるまで何も見えなかった。次第に暗闇の中にひとりの人物を認識できた。クラウスは椅子に座らされ、手と足を鎖で拘束されていた。尋問の後であろう、手の指は不自然な角度に曲がり、顔は青あざだらけだった。

 アデルの足元に大きなムカデが這い、悲鳴を上げそうになる。

「……お前たちは何者だ」

 クラウスが長髪のすき間から血走った目で問いかける。

 セレスティアが一歩前に出る。彼女はクラウスの高さまで腰を低くし、小さな声で彼に話した。

「天界からの使者です。悪魔とつるんでいた、あなたなら天使の実在も信じられるでしょう。我々はオットーを追っています」

 クラウスの目が大きく開く。

「天界……だと?」

 セレスティアが手で彼の口を押えて、中指を口に当て、「黙って」という。彼は一瞬の躊躇の後、声を潜める。

「オットーを知っているということは、ゲルトルーデ……彼女も知っているのだろう。私の家に誰かが入った形跡があったが、おまえらなのか?」

 セレスティアが肯定だと頷く。

「今度はこちらの番です。オットーはどこ?」

 クラウスは「わからない」と首を振る。

「それよりも、ゲルトルーデを!家宅捜索されたらお終いだ、きっと殺される!」

「黙りなさい、自分のことばかり。あなたのせいでたくさんの人がブルーローズの被害にあったのですよ」

 アデルはセレスティアの普段の無邪気な部分しか知らず、天使としてクラウスを尋問する威厳ある姿勢に胸を打たれた。

「そ、それは彼女を蘇らすためなんだ、悪気はなかった。天使なら、分かるだろう」

「いいえ、分からないわ。天使は決してメロドラマの鑑賞者ではないのよ」彼女はぴしゃりと否定し、ため息をつく。「こうなったのは自業自得ね。でも、特別に彼女は助けるわ」 

 背後からアデルが優しく尋ねる。

「どうして、ゲルトルーデさんは人形になんかになったのですか?」

「オットーが彼女の魂を宝石に閉じ込めて、人形に宿したんだ」クラウスは苦痛に顔をゆがめる。「お願いだ、彼女を……頼む……」

 その時、外から声が聞こえる。

「時間だ!」

 セレスティアは素早くクラウスに近づき、囁く。

「わかりました。あなたも彼女を愛しているのなら、この苦境に耐えるのです」

 セレスティアは痛みを和らげる祈りを素早く詠唱し、クラウスの指を触れた。クラウスの表情が微かに和らいだ。

 そして二人は早い動悸を悟られないように、ことさらゆっくりとした歩調で地上を目指した。

 二人が教会の門を出ると、アンネリーゼが従者と共に馬車で待機していた。そしてレオンは愛馬に跨っていた。

「これから異端審問官たちがクラウスの自宅を捜索するぞ。時間がない」

 アンネリーゼが教会の動きを読み、アデルたちを迎えに来たのだ。

「ゲルトルーデさんを救出します」アデルが強い決意で宣言する。

「お前たちの選択なら尊重しよう、三族同盟の長として、な」

 女王はレオンに命令した。

「彼女たちを頼んだぞ」

「お任せ下さい、陛下」

 レオンがアデルを馬に乗せる。アデルは戸惑わなかった。(今日は恥ずかしがっていられない!)

「アンネリーゼ、気を付けて帰って。私は人目がなくなったら、飛んでいくから大丈夫よ」セレスティアは従者に聞こえないように彼女に耳打ちした。

 アンネリーゼは頷くと、従者に城に帰るよう命じた。

 大通りから森への道に入ると、セレスティアは大きく羽を広げる。純白の羽はまごうことなき天使だ。彼女はレオンの早馬に併走する。

 アデルはセレスティアを「かっこいい!」と思ったのもつかの間、彼女は木の枝に危うく激突しそうになる。アデルは、焦った彼女もまた彼女らしいと微笑むのだった。

「ちょ、ちょっと、アデル、なんで笑っているのよ?緊張感がないわよ」

「ご、ごめんなさい。それよりも前を向いていないと危ないわ」

 ティアは少し高度を上げて、審問官たちが近づいていないかを確認した。

 クラウスの家に到着すると、レオンが剣の鞘で鍵を壊し、三人は素早く室内へ入った。

「彼女は?」レオンが問う。

「地下よ」ティアが答えるが、付け加える。「わたしとアデルの力では運べないわ、頼める?」

 レオンが了解する。

「それと、私も見ていないのだけれど、ゲルトルーデの姿は異形よ。勇敢なあなたでも怯むかも。でも敵意はないらしいわ」

「わかった、覚えておこう」

 セレスティアが屋根の上に飛んで上がり、今しがた来た道を見通す。森の入り口に大型の馬車数台が入ってくるのが見えた。「急いで、レオン!」

 地下に降りたレオンはなかなか戻ってこない。アデルたちは焦っているのでことさら時間が遅く感じた。

「まだなの、レオン?」と、やきもきしたその時、彼がゲルトルーデを担いで隠し扉から現れた。「遅くなってすまない。私も触れるのに躊躇してしまった」

 彼女の意識はすでになく、人形との融合部分は物質と霊的成分が曖昧になっていた。アデルとセレスティアは始めてみる彼女の姿に驚愕して言葉を失った。

「はっ!」とセレスティアが我に返り、棒立ちするアデルの手を引っ張る。

「さっさと、行くわよ!」

 三人は、いや四人は、家の裏手の茂みに飛び来んだ。馬は森の奥へと放していた。呼べば戻ってくるだろう。

「来たわ!」セレスティアが小声で告げる。遠くから馬車の音が聞こえ始めた。

 異端審問官たちはクラウス邸の前に停車すると、ぞろぞろと馬車から出てきた。班長が指示を出す。「彼の有罪の証拠物を押収せよ。もちろん悪魔との契約の痕跡もだ!」

 三人は息を潜めて微動だにしなかった。レオンは剣の鞘に手をかけいつでも攻撃できるよう準備した。、アデルは両手で口を押え、苦しそうだ。

「王宮の者が猟で使う道具小屋が近くにある。そこまでこのまま行こう。クラウスが話していなけらば、審問官たちはゲルトルーデの存在を知らないはず。それだけが幸いだ」

 彼らが全員、家に入ったことを見届け、レオンたちは移動しはじめた。ある程度離れたことを確認し、レオンは指笛を吹こうとする。

「音が響きませんか」

 アデルは心配になり声をかけた。

「大丈夫。森の中では、鳥の鳴き声だと思うでしょう」

 レオンは親指と人差し指で輪っかを作り、舌の上に乗せ、唇をすぼめた。短く鋭い音が鳴る。アデルは指笛を使う人間を初めて見た。そしてその音にとても感動した。いつか自分も吹いてみたいと思った。メロマギアの習得で音に興味が沸いたせいだろう。

 彼の言葉通り、しばらくすると森の奥から馬の蹄の音が近づいてきた。レオンが馬の背をさすって褒める。

「さすがね、頭がいい馬」セレスティアが感心したように呟く。

 レオンは素早くゲルトルーデを馬の背に縛り付ける。

「セレスティア様、アデル嬢を頼む」

 セレスティアは頷き、アデルの脇下から手を入れ、抱き上げる。「きゃあ」と手足をばたつかせる。「じっとしてて。低空飛行で行くわよ、アデル」

 白い翼を広げ、セレスティアはアデルを抱えたまま飛び立ち、レオンの後を追従した。

 森の中を縫うように進む三人。木々の間を抜けるセレスティアの飛行技術は驚くほど巧みだ。

「ティア、すごい……」アデルが感嘆の声を漏らす。「でも、重くない?」

「こういうのは得意なの」セレスティアが少し誇らしげに答える。「でも、とっても重いわあ」

 ほどなくして、森の岩陰の見つかりにくい場所に小さな小屋が建っていた。中はロープや獣を捕る仕掛け、止めを刺す槍など雑多な内容だ。

「もうすぐ日没だ。暗くなるまでここにいましょう」レオンが提案する。「その後、私がヒルデ邸に助けを呼びに行きます」

 横たえたゲルトルーデの口からうわ言のようにクラウスの名が漏れた。今ここで彼女に施せる治療はなかった。たとえ天使がいたとしても。

 

「レオンさん、遅いですね。何かあったのかも」

 アデルは狭い小屋の中を行ったり来たりしながら、焦燥感に駆られていた。

「まだ教会の小鐘も鳴っていないわ、落ち着きなさいな」

 セレスティアはゲルトルーデの体に手を置き、癒しを与えるが気休めにもなっていないようだ。

「だいたい、なんでこんなことになっているんです?ティアさんならわかるでしょう」

「それは愛ゆえの盲目のせいよ。人間の住むこの世界の階層の者は、皆魂を持っているの、自覚はないだろうけど。上の階層、悪魔界や天界において魂はそれぞれ別の価値があるものなの。あなたたちの紙幣に銅貨から金貨まであるようにね」ティアは独り言ちた。「私もノーラも傲慢な種族なのかもね、人間は愚かだけれど進化の伸びしろがある。きっといつか天使のことも必要としなくなる時がくるのではないかしら。私たちは完成してしまっているがゆえに袋小路だと言う天使もいるくらいよ」

 アデルはセレスティアの言うことを完全には理解することはできなかった。なぜなら、アデルはこの人間界に縛られていて、悪魔界や天界に自由に行き来することはできないからだ。知っているのはフラーベント地方の一部のみ。ロマーニュ帝国の先になにがあるのかさえ、想像がつかない。母はそれを知りたくて、遠くに旅立ったのだろうかと、ふと思った。それは私を捨てるほど、抑えきれない衝動だったのだろうか。

 アデルが深い思索に囚われていると、馬の蹄の音が聞こえてきた。行きよりもそのリズムはゆっくりのようだ。ドアを静かに開けて、覗き見ると、馬の後ろには荷車が繋がれており、ヒルデとエマが乗っていた。

「アデル姉さん、遅くなってごめんよ」二人が荷台から降りる。

 帰り道はゲルトルーデを荷台に横たえ、布を被せて隠蔽した。アデルはティアに運ばれ、軽いエマはレオンの後ろに乗った。ヒルデがゲルトルーデと荷台に。彼女はとても嫌がったが仕方がない。

 なるべく裏道を通り、通行人に会うことはなく、夕食前になんとかヒルデ邸へ到着することができた。これでクラウスとの約束の半分は果たされたことになる。あとの半分はゲルトルーデを人間に戻すことができるかどうかだった。

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