第32話 日の出の決闘
アデル、ノーラ、へレーネ、それにセレスティアがヒルデ邸の玄関で靴を履いていると、走る馬の蹄の音が聞こえてきた。今日は女王アンネリーゼに調査報告をしに行く日。聖職者クラウスが悪魔オットーを通じて、ブルーローズを流布しているということを。
馬上のひとはレオン、女王の近衛兵だ。
「急でいつも申し訳ない。アデルハイト嬢をお借りしてもよろしいか」
実は女王救出のあと、アンネリーゼは数論への趣味が同じアデルをひどく気に入り、チェスを指して以来、その実力を認め、対戦相手として度々呼ばれるようになったのだ。
「先に行ってらっしゃいな、アデル。ゲームに熱中していては、報告も無理でしょう。あとからゆっくり行くわ」
アデルはレオンの背中にしがみつき、馬が駆け出す。街中を通り抜けると、あちこちから歓声が聞こえてくる。
「レオン様!」
「かっこいい!」
年ごろの女性たちの黄色い声に、アデルは思わず体を縮こませた。
(レオンさん、美男子だもんね。本当に人気者なんだ)
風を切って走る馬上で、アデルの頭の中はぐるぐると回り始めた。
(わたし、大丈夫かな……臭くないよね?昨日ちゃんとお風呂入ったし)
頬が熱くなるのを感じる。そして、ふと耳に入った言葉に、心臓が跳ねた。
「なんであんな地味な子が、レオン様と?」
(そうだよね……わたしなんかが)
アデルは自己嫌悪に陥りそうになるが、すぐに別の考えが浮かんだ。
(わたしは悪くないもん。だいたい、アンネリーゼ様がおかしいのよ!レオンさんが慕っているのは女王様なのに、他の女の子を馬に乗せることが平気だなんて。それともわたしなんかがわからない大人の関係なのかしら?)
そしてアデルは自分の邪な考えを頭を振って否定した。
(わたしはノーラが好き。でも男性を好きになる時がくるのかな?魔法よりも難しそう……)
アデルは思わず笑みを漏らす。自分の中に芽生えた新しい感情に戸惑いながらも、どこか楽しさを感じていた。
馬は王宮の門を潜り抜けた。馬が揺れているのか、はたまたアデルの複雑な感情が揺れ動いているのか。
アンネリーゼの私室に入ると、女王はすでにチェス盤の前に座っていた。彼女の目は期待に輝いている。
「アデル、来てくれたか。座れ」
彼女は顎で椅子を示したが、そのような傲慢な態度でさえも優雅に見えた。
「はい、陛下。でも、報告の方は……」
「ノーラが来てからでよいではないか。まずは一局だ」と舌なめずり。
アデルは勇気を出して言った。恥ずかしさでとても早口で。
「あ、あの、レオンさんの背中に乗るのはまずいと思いますですので、事前に日にちを決めませんか!」
「あれ、アデル、まさかお主、レオンを……」
アンネリーゼは傍らにあった短剣をアデルに向けた。
「冗談じゃよ。貴族の令嬢も、以前は売国者などと呼んでいたくせに、今では『レオン様!』と色めき立つ次第。悪かったな、配慮が足りなかった」
「い、いえ、わかっていただければ……」
アデルはほっと胸を撫でおろした。
「イシシ、びっくりしたか?殺されると思った?」
「もう、アンネリーゼ様、帰らせていただきます!」
ぷんすかするアデルにアンネローゼが焦って引き留める。それくらいには軽口が言えるほどにふたりは打ち解けていたのだった。
眼鏡をかけて、チェス盤を見つめるアデル。遅れてきたノーラは観戦して待つことに。セレスティアは興味深そうに二人を見つめる。
「白をどうぞ」アンネが促す。
「ありがとうございます」
アデルが動かしたポーンを見て、アンネリーゼがにやりと微笑む。
「シシリアン・ディフェンスだな。面白い選択だ」
「はい、最近勉強中です」
数手が進むと、アンネリーゼが攻勢に出る。
「これでどう動く?」試すようなアンネの上目遣い。
「うーん……」彼女は眉をひそめ、盤面を真剣に見つめる。「あ、わかりました!」
アデルは眼鏡を指でくいっと上げると、思いもよらぬ位置に動かした。アンネリーゼの目が驚きで見開かれる。
「まさか……そこに来るとは。盤面をひっくり返したか、アデル?」
ノーラは「アデル、すごいじゃない!」と賛美した。アデルの駒の動かし方は偶然か意図的か、ノーラに似ていた。彼女の憧れが模倣になったのか、才能の酷似かはわからない。
「ふーん、なかなかやるじゃない」
ちなみにセレスティアはヒルデ邸でプレイするときは負け続きだった。
対局は続き、二人の間で駒が行き交う。時折、難しい局面で二人とも沈黙に陥るが、それもまた楽しげだ。
「チェックメイトだ、アデル。でも、素晴らしい戦いだったわ」
「ありがとうございます。次は必ず……」アデルは深くお辞儀をした。
「ちょっと待て、アデル」
彼女は本棚から一冊の古めかしい本を取り出した。表紙には複雑なチェスの盤面が描かれている。
「これは『王の挑戦:100のチェス問題集』という本だ。私の曾祖父の時代から王家に伝わるものなの」
アンネリーゼは微笑みながら本をアデルに手渡した。
「これを貸そう。王宮では皆、私相手では接待チェスしかやらん。おまえに強くなってもらわんと、対戦相手がいなくなる。この中の問題は、単なるチェスの技術だけでなく、論理的思考力や先を読む力を養うのに最適だぞ」
「本当にいいんですか?こんな貴重なものを……」
アデルは大事に本を抱きしめ、女王に深く感謝した。
「さて、報告の方を聞かせてもらおうかしら」
アンネリーゼはノーラの情報を聞きながら、チェスのナイトやキングの駒を、クラウスやオットーに見立てながら状況を整理していった。
「単なるナイトのクラウスにとってのクィーン、ゲルトルーデが何を意味するのか……オットーははたしてキングなのか、奴も捨て駒に過ぎぬか……」
アンネローゼがは駒をコツコツと盤上に当てながら、思考に耽る。
アデルは後ろに控え、暇を持て余し、室内の大きな全身鏡に釘付けになった。当時、鏡は高価で庶民が使うことはなかったから、アデルは自分の全身が映ることがとても珍しかった。
彼女は恐る恐る鏡に近づき、自分の姿を確認する。普段、こんなにはっきりと自身の顔を見る機会がないので、アデルは顔を近づけて、自分の目を覗き込んだ。(わたしって地味?)さっきの街頭での嫌味が思いのほか引きずっていた。
「目の色、こんなに緑だったんだ……」
突然、彼女の瞳の中に小さな人影が見えた。アデルは驚いて振り返ったが、ノーラたち以外誰もいない。好奇心に負けて、もう一度近づいて見た。
そこには、彼女の眼球の表面を螺旋状に歩いてくる男性の姿があった。上品に揃えられた口髭に、ポマードで丁寧に撫でつけた髪。上質な背広を着た長身の、見たことのない男性がだんだんと大きくなってくる。
アデルは目をつぶり、鏡を指さしながら、助けを求めた。
「あの……鏡の中に、誰かいます!」
ノーラたちは、鏡をほとんど見たことがないアデルが自分自身に驚いているのかと思った。しかし、そうではなかった。次の瞬間、鏡全体が波打ち始めた。そしてこぼれそうでこぼれない表面張力のような液体の中から、それは現れた。
「まさか……」ノーラの声が震えた。「お父様!?」
全員の視線が中年男性とノーラの間を行き交う。へレーネだけが刀に手を添え、臨戦態勢をとる。
ノーラの父が鏡から完全に姿を現す。全員が彼の次の行動を見守った。
「私が手配した追手はどいつもこいつも役立たずだから、こうして来たのだ。ノーラよ、お前が作った人間界へのパスを使わせてもらったぞ」
初めて人間界に来るには時の迷宮を越えなければならない。しかし、一度来れば自分の得意と知る媒介を使い、行き来は容易となる。ストロスが水を使用するようにだ。
ヴィルヘルム・フォン・リッツェンシュタインは部屋を見回し、鼻で笑った。
「ふん、いかにも安っぽい。人間の品位など、この程度か」
その言葉に、レオンが即座に反応した。彼は素早く剣を抜き、ノーラの父に向かって切りつけた。しかし、剣は父の体をすり抜け、幻影を切ったのみだった。レオンの目の前に瞬時に移動し、彼の足を踏んで転倒させた。
「なっ……!」
ヴィルヘルムはもうレオンに興味を失い、天使セレスティアに目をやった。
「天使までいるのかっ!なんということだ、汚らわしい」
念動力でアンネリーゼ特注の椅子を浮かせると、セレスティア目がけて飛ばした。ティアは防御壁を発動し、椅子はばらばらになった。
「私の苦労して作った椅子が……」
アンネリーゼが驚愕する。入口を守る守衛が騒ぎになにごとかと、駆け込んでくるが彼の力で金縛りにあって動けない。
「ノーラよ、この状況はどうゆうことだ。人間の女王にかしずき、天使と共にいるとは、頭がどうかしてしまったのか?」
ノーラは青い顔で声を失った。そして、アンネローゼがわなわなと体を震わせて、ヴィルヘルムの前に一歩出た。長身の彼を見上げて、睨みつけた。
「おい、きさま!わたしの城での振舞いを教える必要があるな」
「わたしは生意気な子供が大っ嫌いなんだ」
ヴィルヘルムはなんと、幼いアンネリーゼを足蹴りにした。しかし、彼女はヴィルヘルムの足にしがみつき、嚙みついた。もうめちゃくちゃである。
「へレーネ、私に刃を向けるのか。お前の家を支えた恩を忘れたか」
彼女も悔しいが、長く一族が仕えたリッツェンシュタイン家の当主を切ることができなかった。へレーネは血が出るほど歯ぎしりをし、耐える他なかった。
「もう限界です。あなたの振る舞いは犬畜生以下です。人間と天使を愚弄する資格はありません」
ノーラは右手の手袋をゆっくりと外し、それを父親の顔面に投げつけた。「これ以上は許しません!」手袋は床に落ち、重い音を立てる。
「お父様、いいえ、ヴィルヘルム、あなたに決闘を申し込みます」
部屋中がノーラの言葉に息を呑む。アデルは小さく悲鳴を上げ、セレスティアは興味深そうに眉を上げた。
「何だと……?」
ヴィルヘルムは我が娘が何を言ったのか理解するのに時間がかかった、あまりの馬鹿馬鹿しさに。そして教育を母親まかせにしたことは後悔した。
「魔力はなし。人間界のルールで、正々堂々と勝負しましょう。もし私が勝てば、あなたには深く謝罪してもらいます。そして、私の生き方を認めること」
父親の顔に、驚きと怒り、そして何か別の感情―誇り、かもしれない―が交錯する。
「……よかろう。だが負けたらどうする?」
ノーラは答えに一瞬窮する。
「その時は……あなたの言うとおりにします」
アンネリーゼがふたりの間に入る。
「私が立会人を務めよう。レオン、セコンドを頼む。ざわついた気持ちを静め、明日の日の出前ではいかがかな」
「かまわん」「いいわ」
二人が睨み合いながら承諾した。
「ノーラよ、勝てる自信はあるのか、あの暴君に」
ヴィルヘルムが帰ってから、アンネリーゼは紅茶を皆に振舞いながら、話を続けた。
「悪魔の力を使わなければ……どうかしらね、彼も剣術の心得はあるわ」
「もっと時間があれば、私の剣技をお教えすることもできるのですが……」
レオンが我がことのように心配してくれた。
「ノーラ、あなたが人間界に逃げてきたのも納得だわ。天使の私でも我慢ならないわ」
セレスティアは、天使をゴミのように見るヴィルヘルムの視線を思い出す。
「別に逃げてきたわけでは……いいえ、その通りかも。だからこそ、勝たなければならないの。でないと、本当に逃げてきたことになってしまうから」
アデルは部屋の隅で懸命に祈っていた。
「どうか、エレオノーラをお守りください。怪我をしませんように」
「悪魔の無事を神に祈るなんて、あなた、冗談みたい」
セレスティアはため息をつきながらも、アデルの手を握り、慰めた。そしてノーラに近づくと言った。
「これは友達のアデルが望んでいるから、するだけよ。あなたに天使の加護を与えるわ」
セレスティアはノーラの頭に手を置くと、祈りの言葉を唱えた。
「全能なる主よ、我が友アデルの切なる願いをお聞き届けくだされ。
汝の御手により、ノーラに天より降りし光の加護を授け賜わらんことを。
邪悪なる者の企みを打ち砕き、彼女が無事この試練を凌ぎ得るよう導きたまえ。
彼女の身に宿る暗き力も、汝の聖なる光により浄められんことを」
彼女の手のひらから眩い光が広がり、ノーラを包んだ。
「とてもあたたかい……力が湧いてくる」ノーラはセレスティアを抱きしめた。「ありがとう、ティア」
彼女の抱擁にティアは戸惑ったが、抱きしめ返した。「しっかりね、負けないで」
アンネリーゼはセレスティアの悪魔を単に憎む態度が軟化した、その成長を見て微笑んだ。そして三族同盟が続くよう、彼女もまた心の中で祈った。
夜明け前の森。薄暗がりの中、木々に囲まれた、低い草がまばらな広場に一同が集まっていた。空気は冷たく、霧が地面を這うように広がっている。アデルはもちろん、セレスティア、ヒルデたちヴォルフェンシュタインの三姉妹、へレーネ、ベルティーユ、ルナにステラ……。
夜明け前の森。薄暗がりの中、木々に囲まれた、低い草がまばらな広場に一同が集まっていた。空気は冷たく、霧が地面を這うように広がっている。アデルはもちろん、セレスティア、ヒルデたちヴォルフェンシュタインの三姉妹、へレーネ……。依頼主が現れ、ベルティーユとステラ、ルナはばつが悪く、後ろに隠れている。
「ずいぶんと珍妙な大名行列だな、我が娘よ」
「これが私の大事な資産よ。あなたにはわからないでしょうけれど」
仲間を侮辱され、ノーラは冷徹な目で父を睨み返したが、ヴィルヘルムには効果がない。
広場の中央に、二本の松明が立てられ、その炎が不安定に周囲を照らしていた。松明の間に、アンネリーゼ女王が立つ。彼女は深紅のマントを纏い、金の王冠を戴いている。
「我らが立ち会う、この決闘の場に集いし者たちよ」アンネリーゼの声が厳かに響く。「今ここに、ノーラ・フォン・リッツェンシュタインと、その父ヴィルヘルム・フォン・リッツェンシュタインの決闘を執り行う」
レオンが用意した長台には純白の布が敷かれ、その上に様々な剣を並べられている。それぞれの剣が松明の光を受けて冷たく輝いている。
「両者、前へ」レオンが声を上げる。
ノーラとヴィルヘルムが、それぞれ広場の両端から歩み寄る。
ノーラは白い晴れ着のような装いで、ヴィルヘルムは黒の正装に身を包んでいる。
アデルはノーラの衣装を見て、出会った頃はいかにも悪魔らしい黒の装いだったが、この頃は白を好むようになったことに気づいていた。
アンネリーゼが続ける。「この決闘は、魔力の使用を禁じ、剣技のみで勝負を決するものとする。勝敗は、相手を倒すか、降参を認めさせた時点で決する。まずは、武器を選ぶがよい」
ヴィルヘルムが先に台に近づき、重厚なバスタードソードを手に取る。その剣は彼の長身に似合い、力強さを感じさせる。
次いでノーラが台に歩み寄る。彼女の目が細身のレイピアに止まる。手に取ると、その軽さに驚いたように目を見開いた。剣を軽く振ると、しなやかに空気を切る音が響く。
レオンが二人の間に立ち、剣を水平に掲げる。「両者、剣に誓え」
ノーラとヴィルヘルムは同時に選んだ剣を掲げ、声を揃える。
「我、この剣に誓う。公正なる戦いを行い、結果に従うことを」
レオンが下がると、アンネリーゼが高らかに宣言する。
「神と人と、そしてこの森の精霊たちの御前にて、決闘の開始を告げる」
松明の炎が風に揺れ、二人の影が地面に揺らめく。ノーラの手に握られたレイピアが、かすかに震えているのが見える。
アンネリーゼが腕を上げ、一瞬の静寂が訪れる。
「始め!」
彼女の声と共に、ノーラのしなやかなレイピアとヴィルヘルムの重厚なバスタードソードが激しく交わった。決闘の幕が切って落とされたのだった。
ヴィルヘルムのバスタードソードが空を切る音が響く。ノーラは身をかわし、その動きに合わせてレイピアを繰り出す。刃先がヴィルヘルムの胸元をかすめるが、彼は一歩後退して避ける。
「甘いぞ、ノーラ」
彼の剣が再び襲いかかる。ノーラはレイピアを横に構え、相手の刃を受け流す。金属がぶつかり合う音が鋭く響く。
ノーラは素早く距離を取り、レイピアの連撃を繰り出す。
「まだまだよ、お父様」
レイピアのリーチは彼より短い、離れすぎては守りのみになってしまう。彼女の軽快なステップで舞いながら、フェイントを混ぜる。左に振るように見せかけ、実際は右からの刺突を放つ。ヴィルヘルムは驚いた表情を見せるが、間一髪で身をひねって避ける。レイピアが空気を切り裂き、ヴィルヘルムの防御の隙を突こうとする。しかし、彼の経験豊富な剣さばきが、その攻撃を次々と退けていく。
「なかなかやるな」
ヴィルヘルムの声に、わずかな感心の色が混じる。魔力を使わずとも、その動きは人間の中年男性のそれを遥かに超えている。
一進一退の攻防が続く。実力は同等に見えても、ノーラの息は上がり、じりじりと後退させられてゆく。バスターソードによる連撃、重い衝撃が続き、軽いレイピアで捌き切れず、とうとうノーラの頬に掠り、血が流れた。
アデルは悲鳴を上げて、セレスティアに抱きつき、顔を逸らす。
「あの親父、自分の娘に手加減しないの?ほんとうに大人げない!」
ティアが憤慨する。
ヴィルヘルムが一度攻撃の手を止め、娘に問う。
「もう降参せぬか。私とて自分の娘を切りたいと思うはずなかろう。帰ろう、我が家へ」
ノーラは荒い息のまま、何も答えを返すことなく、剣で再び突き、それを返答とする。
決定的な一撃がないまま、時間が過ぎてゆく。周りの霧が晴れ、空が白み始めた。ノーラは後退しながら、周囲を見回す。そして、ふと東の空が僅かに明るくなっていることに気づいた。
(そうだ、ここは人間界……私が変わらなくちゃいけないんだ!)
ノーラは一瞬の隙を見て、葉のない裸の木に駆け上がった。ヴィルヘルムが追いかける。
「逃げるのか、ノーラ!」
「いいえ、お父様。これが私の答えです!」
ヴィルヘルムの視線はノーラを追って上空へと移動する。ノーラが木の頂上に達したその瞬間、太陽が地平線から顔を出した。眩い光が森を包み込む。
ノーラの背後で夜明けの太陽が顔を出す。ヴィルヘルムが目を細める。
「くっ……」
その隙を突いて、ノーラが木から跳躍。太陽を背に受けながら、父の背後に回り込んだ。
「チェックメイト!」
ノーラの剣先がヴィルヘルムの首元に触れる。
ヴィルヘルムはゆっくりと剣を下ろした。
「……負けだ」
場が静まり返る。
「そこまで!勝者、ノーラ・フォン・リッツェンシュタイン!」
高らかな女王の声が森に響く。
ヴィルヘルムの顔には怒りや軽蔑ではなく、複雑な感情が浮かんでいた。そして、ふと気づいたように、薄く笑みを浮かべた。
「おまえは剣技ではなく、地形を活かして勝った」ヴィルヘルムの声に、皮肉めいた感心の色が混じる。「そうだ、悪魔とは狡猾で、なにを使っても勝利をつかむべき種族なのだ。おまえの勝利はまさに悪魔のものだ」
ノーラは父の言葉に、言葉を失う。つかんだ勝利の喜びが、急速に萎えてゆく。
ヴィルヘルムは続けた。
「おまえが私をいくら軽蔑しようとも、おまえ自身からは逃げられないのだぞ。おまえは私の娘だ!……誇りに思っている、それだけは忘れないでくれ」
彼の言葉は、彼女に重く響いた。ノーラを憎んでいるとばかり思っていた。しかし、全てではなく、彼の一部はやはり娘として愛していたのだ。
ノーラは何を言うべきか、言葉が喉に詰まる。
「お前の選んだ道を私は認めよう。だが、これで終わりだとは思うな」ヴィルヘルムは背を向けた。「お前が本当の自分に気づく日まで、私は待っている」
そして、彼は娘の言葉を待つことなく、森の中へと消えていった。
ノーラは力尽き、レイピアを落とし、その場に膝をついた。へレーネが駆け付け、支えた。
「お嬢様、立派でした」冷静なへレーネが珍しく泣いている。「ヴィルヘルム様のお言葉、その……く、くそったれの言葉など気にしないでください」
「へレーネ、もう笑わせないで、疲れてるんだから」
ノーラはへレーネの肩を借りて、泣きながら笑った。(終わった……いいえ、始まりね)
アデルたち全員が駆け寄ってきて、ノーラを囲んだ。
「あやつ、わたしへの謝罪をしとらんぞ?」
アンネローゼはご立腹なポーズをとったが、「まあ、良い、貸しにしておこう。いつかあやつの力を利用する時がくるかもしれぬ」と怒りの矛を収めた。
ノーラは自分の手を見つめる。その手に流れる悪魔の血を自覚し、「だったら唯一無二の悪魔になる」と静かに誓った。
朝日が森全体を黄金色に染め上げる中、新たな日の始まりと共に、ノーラの新しい章が幕を開けた。
「どうだ、みんな、腹が減ったであろう?うちのブレックファーストを食べて行かぬか」
アンネリーゼ女王陛下が提案した。皆は大喜びで、王宮の豪華の朝食を平らげたのだった。
アデルはほっとして、ノーラを離れた食席から見つめて微笑んだ。そしてアデルの視線に気づいた彼女は、ウィンクを密かに返した。
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