第31話 クラウス邸への侵入

 地下室の薄暗い階段に、クラウスの足音が響く。彼の手には、木のトレイに載せられた食事が。愛する人が蘇ったと言うのに、彼はここに降りるのがつらく、気が重い。病気の進行を止めることができない無力な医師だった。

「ゲルトルーデ、食事の時間だよ」クラウスの声は優しく、「今日は精をつけるために、鹿肉の煮込みに挑戦してみたんだ」しかし少し震えている。

 ベッドに横たわるゲルトルーデの姿が見えてくる。彼女の体の一部はまだ人形のままで、足の関節は機械仕掛けだ。人間の肌と磁器の質感が不自然に混ざり合っている。彼女の目は生きているが、どこか虚ろだ。

「どうしたんだい、ゲルトルーデ。どこか痛いのかい?」クラウスが心配そうに尋ねる。「あれから、ぼくもたくさん勉強したんだ、まかせてくれ」

 クラウスは精いっぱい虚勢を張った。

 ゲルトルーデはゆっくりと首を動かし、クラウスを見つめる。

「……なんだか、わたしがわたしじゃないみたいなの、あなたの顔がおかしく見えるときもある。なんだか怖いわ」

 彼女の言葉に、クラウスの顔が曇る。しかし、すぐに明るい表情を取り戻そうと努める。

「そうだ、薬を飲み忘れちゃいけない。さあ飲んで」

 クラウスはブルーローズと水を渡すが、彼女は拒絶する。

「それは飲みたくない、頭が痛くなるのよ。……ねえ、あなたの知り合いのオットーさん、本当に信用できるの、少しあの人が怖いの」

 クラウスは話を逸らそうとした。(一度、オットーを問い詰めねば)

「ほら、覚えてるかい」クラウスは枕元に置かれた古い絵を手に取る。「これは君と行った、あの波止場で旅の画家に描いてもらったぼくらだよ」

 絵には若いクラウスとゲルトルーデが寄り添い、幸せそうに微笑んでいる姿が描かれている。クラウスは懐かしそうに絵を見つめ、ゲルトルーデに近づける。

 しかし、ゲルトルーデの反応は薄い。彼女は絵を見つめるが、その目には認識の色がない。

「ごめんなさい、クラウス……思い出せないの」

 クラウスは深いため息をつく。諦めたくない気持ちと諦めかけている気持ちがシーソーゲームをしている。トレイを置き、ゲルトルーデの冷たい手を握る。

「大丈夫だよ、ゆっくり思い出せばいい。僕がずっとそばにいるから」

 部屋に沈黙が広がる。クラウスの目には涙が光り、ゲルトルーデの瞳には混乱の色が浮かぶ。まるで、この男、クラウスがなぜ泣くのか彼女は理解していないかのよう。

 二人の記憶の齟齬は、だんだん大きくなっていった。

(わたしの行いは間違っていたのか、いいや、初めからうまくいくわけはない。これは神への挑戦なのだ。わたしは勝利してみせる!)

 クラウスはゲルトルーデの食器を洗いながら、折れそうな心を鼓舞した。


 クラウスの留守を見計らい、ノーラ、へレーネ、ストロスの三人がクラウスの家に忍び込んだ。ヒルデたち他のメンバーは活躍の場がないことに駄々をこねたが、今回は敵地への潜入である。戦闘経験のある二人と、医学的知識のあるストロスになった。

「いくわよ、へレーネ、ストロス」ノーラが小声で合図を出す。

 三人は腰を低くし、足早にクラウス邸に近づいた。

「お嬢様、わたくしが先に偵察に行けば良いのでは?」へレーネが背後から問いかける。

「黙りなさい、こうゆうのは雰囲気が大事なの。私たちは女王のスパイで、王国を救う任務中なのよ」

「は、はあ、畏まりました。へレーネ、不測の至るところです」

「もう、一番ふざけてるのはノーラじゃないの?はしゃいじゃって」ストロスが咎める。

 たしかにノーラは少し楽しんでいた。それは人間界に来て、はっきりした目的と仲間ができて、悪魔界では感じられなかった開放感があったからだ。

 家に入っ途端、ストロスが顔をしかめて、鼻をつまんだ。

「これは……すごく嫌な気が停滞しているわ。一刻も早くここを出たい」

「へレーネは周囲の警戒、何が潜んでいるかわからないわ」

 へレーネは日本刀を構えて、薄暗い空間に目を光らした。夜に生きる彼女の目をもってすれば、暗闇など太陽の下と変わらない。

「アデルの話では、地下から声が聞こえてきたそうね、この部屋には入り口は見当たらないみたい」

「ちょっと待って」ストロスが食器棚に近づき、腰を低くする。「ここの床に、何度も棚を引きずった跡がある」彼女が床の傷を指でさする。

 学術肌のストロスには重いようだ。「情けないわね。へレーネ、手を貸してやって」

 へレーネが食器棚を横にずらすと、背後にかがんで通れるほどの大きさのドアが隠れていた。

 ストロスがドアを開けると、生ぬるい風が地下から舞い上がってきた。

「ここからよ、臭気の源は」ストロスは眼鏡の曇りを拭きながら、階段をゆっくり降りた。「匂いがだんだん強くなってくる。ねえ、ノーラ、私、怖い話が苦手なの知ってるでしょ」

 ノーラもへレーネもお喋りをする雰囲気ではなくなり、無言で進む。

 階段を降りると、入り口の光は届かない。ノーラは電流を球状に手の平に出現させ、周りを照らした。。地下は地上の部屋の配置など比べ物にならないほど、込み入っていた。まるで迷路である。そこら中に世界中から集めたかのような様々な人形が置かれ、侵入者を見つめてくる。

「とにかく、普通じゃないわ。不気味ね」ノーラが呟く。

 照らされた壁には至る所に魔方陣や数学公式など、書き散らしている。「魂」や「復活」の文字も混じっている。

「嫌な予感しかしないけれど、進むの?ノーラ」ストロスが露骨に嫌がる。

「嫌な予感には同感だけど、ここで帰れないわ」ノーラが迷宮の奥にあるドアを見つめる。

「お嬢様、私が先に入ります」へレーネがノーラらを止める。

 「ちょっと待って」とストロスがドアに手を置き、目を閉じる。

「……女性の魂かしら、おかしい、初めて感じる気配。少し変ね、男性のものもわずかに感じる。身ごもっている?とにかく何か変よ、気を付けて」

 へレーネがドアをそっと開ける。オイルランプがあるのか、ほのかな明かりが廊下にもれた。

「ベッドに女性が寝ています。男性はおりません。入りますか」

 ノーラが頷く。

 ストロスはドアを開けた瞬間から、頭痛を訴え、壁に寄りかかっている。彼女はノーラよりも人間で言うところの霊感に強い。魂の数を壁越しにわかったのもそのためだ。 

 部屋にそっと入る。ベッドの人物は微動だにしない。

「私の勘違いだったかも。も、もしかして等身大の人形じゃないかしら。きっとクラウスって人は、人形相手しか相手できない変人なのよ」

 ストロスはノーラに背中に抱き着きながら、恐々覗き込んだ。

「ストロス、あなたが女性の魂を感じると言ったのよ。へレーネ、掛けてある布をとってくれる」

 へレーネは、日本刀の柄を伸ばし、引っ掛けるとそっと持ち上げた。

 そこには想像を絶する光景が広がっていた。ベッドの上に横たわる人影。人形と人間の中間のような、不自然な姿。それがゲルトルーデだった。足は膝まで陶器で、その先が人間の肌。細い毛細血管が走っている。腹部と胸部はまだら模様になっており、一部の臓器が透けて見える。

「まさか……」ノーラの声が震える。

 ストロスは顔を背け、吐き気を抑えるように口を押さえた。「こんな……ひどい」

 へレーネは無言で剣を構え、部屋の隅々まで目を光らせる。

 ノーラたちは悪魔である、醜悪なモンスターも見たし、不気味な場所にも行った。しかし、人間の魂を人形に無理やり入れた、この姿は不完全ゆえにモンスターにもなりきれなかった廃棄物を思わせる。

 生きているとは思っていない三人の声に、ベッドの上のゲルトルーデがゆっくりと目を開け、定まらぬ視点で見つめた。その瞳には混乱と恐怖が浮かんでいた。

「あなたたち……誰?」

 掠れた声で、ゲルトルーデが尋ねる。

 ストロスは叫び声を上げ、室内から逃げ出した。「ちょっと!」とノーラの制止も聞かない。

 ノーラは勇気を振り絞り、一歩前に出た。そしてごまかずに事情を話した。

「私たちは女王の命で、ブルーローズというこの薬を広めている人物を探しています」

 ノーラはサンプルのブルーローズを見せた。しかし、すぐにベッドの女性の枕元にある錠剤に気づいた。

「あなたのご主人のクラウスさんは、それに関与している疑いがあります。あなたのこの状況がどのようなものなのか、説明は可能ですか」(おそらくオットーに仕業に違いないだろうけど)

「お名前は」ノーラはなるべく動揺を隠し、優しく尋ねた。

「ゲ、ゲルトルーデ……」

 ストロスは部屋の入り口からノーラを手招きした。

「あの女性は、おそらく死者よ。それを人形という器で復活させようとしている」

「ブルーローズの真の使い道を見つけようとしているわけね。ストロス、怖いのはわかるけど、彼女を見てあげて、敵意は感じないから」

 ストロスはため息をつき、頷くと、「私は医者です。少し拝見させてください」と勇気を出して、触診した。

「……魂がそもそもないわ。わたしが勘違いしたのは記憶の方。記憶で動いているのだわ」彼女が腹部に手を置いた時、わっと驚き、後ずさる。

「どうしたの、ストロス?」

「えっと……妊娠してるのかも。まだ膨らんでいないけれど」ストロスはゲルトルーデに質問した。「答えにくいでしょうが、この姿になってから性交渉をクラウス氏と持ちましたか」

「いいえ。彼は悪くありません、優しく介護してくれます」

 ストロスはもう一度ノーラに耳打ちした。

「希望的観測だけど、彼女と彼の生前の願望が具現化したのかもしれない。でも、わたしには邪悪なものが宿っていると感じる。生むのはとても良くないことが起きると思う」

 へレーネが上の階の物音に気付いた。

「お嬢様、誰か入ってきました」

 まずい、食器棚を戻す時間がない。「仕方がないわ、そのまま脱出しましょう」

 ノーラは彼女に近寄り、ブルーローズを取り上げた。

「これはあなたを健康にはしません。もしまた飲まされた時は飲んだふりをして吐き出してください。今日私たちが来たことは、秘密にしていただけると助かります。私たちはあなたの味方です。また必ずお会いしますので、助けを求めたいときには……」ノーラは部屋の隅にいたネズミと目を合わせた、ネズミはノーラの肩に上ってきた。「このネズミに話しかけて、外に出してください。わたしのところまで走ってきますので」 

「ノーラ、はやく!」ストロスが急かす。

 廊下に出ると、階段を下りてくる足音が聞こえる。

 水桶あった。ストロスは水面に外界への通路を作る。三人はぬるい水に飛び込んだ。ストロスの魔法で作られた通路は、まるで長い滑り台のように彼らを運んでいく。暗闇の中、水の轟音だけが耳に響く。

「くっ……息がっ!」ノーラが苦しそうに呟く。

「もう少しだから!」ストロスの声が水中でかすかに聞こえる。

 へレーネは無言で、ただ前を向いて泳ぎ続ける。

 突然、光が見え始めた。そして次の瞬間、三人は勢いよく川面に飛び出した。

「ぷはっ!」ノーラが大きく息を吸う。

 冷たい夜気が肌を刺す。月明かりに照らされた川面に、三人の顔が浮かび上がる。

「み、みんな無事?」

 ストロスが歯を震わせながら問いかける。

 へレーネが周囲を素早く確認する。

「追手はいないようです。お嬢様、岸まで……」

 冷たい水が服を重くし、体にまといつき、泳ぎにくい。三人は必死に泳ぎながら、岸を目指す。全員が息を切らしていた。見ると、遠くにクラウス邸が見える。近くを流れる川につながったのだ。

 ノーラが岸に這い上がりながら、くしゃみをする。

「さ、寒い……」

 ストロスも震えながら謝った。

「し、仕方ないでしょ、焦ってたんだから。水から入ったら水から出るしかないの」

 へレーネは無言で二人を助け起こす。三人は互いの姿を見て、思わず笑いが込み上げてきた。髪は滴り、服はずぶ濡れ、まるで溺れネズミのような姿だ。

 その時、近くの茂みが動いた。三人は一瞬身構えたが、そこから現れたのはヒルデたちだった。

「あんまり遅いので、探しに来たんです」

 アデルが心配顔で駆けた来た。

「何してるの?まるで川遊びしてきたみたい」

 ヒルデが呆れたように言う。

 エマが心配そうに駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか?風邪引いちゃうわ。早く帰ってお風呂に」

 ノーラは湯船で体は温まったものの、地下でのゲルトルーデの姿が脳裏から離れず、暗い気持ちになってしまった。

「ストロスでもわからない現象……オットーは何をしようとしているのか。クラウスはなぜ騙されていることに気づかないのか、愛ゆえの盲目?」

 ドアの外からストロスの催促が聞こえた。

「ちょっと、早くしなさいよ」

「ごめんなさい、今出るわ」(考えても答えは出ない、ならやることは……)

 ノーラは立ち上がると、タオルを胸に巻き、窓外の暗闇を凝視した。





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