第27話 アンネリーゼ女王即位

 王宮の華やかな控室で、アンネリーゼ王女は大きな姿見の前に立っていた。周りには四人のメイドたちが忙しく動き回り、即位式のための特別な衣装を着せていく。

「息を深く吸って、お嬢様」

 ベテランのメイド長が指示を出す。

 アンネリーゼは言われるがまま。メイドたちが厚手のリネンの下着を身につけさせる。その上から、何層もの薄いシルクのシュミーズが重ねられていく。

「少しきつすぎやしないか?」

 アンネリーゼが尋ねる。

「即位式の間中、姿勢を正しく保つためです。ズレ落ちたら大事でございます」メイド長が答える。「昔の王妃様たちも、同じようにお召しになりました。我慢も女王の大事な素養です」

「わかった、わかった。あ、背中がかゆい。もう少し下だ、ああ、そこ、そこ」

「アンネリーゼ様、お行儀が悪うございます」

「かゆいのは仕方なかろう」

 次に、豪華な刺繍が施された深紅のベルベットのガウンが運ばれてくる。金糸で織り込まれた複雑な紋様が、光を受けて輝いている。メイドたちが慎重にガウンを王女に着せていく。

「これは……重いな。わたしの背丈に合っていないんじゃないか」

 アンネリーゼが愚痴る。

「ご安心ください。重みは王の威厳の象徴です」

 若いメイドが励ますように言う。

 ガウンの袖口と裾には、貴重なエルミンの毛皮が縁取られている。メイドたちがそれを丁寧に整える間、アンネリーゼは自分の姿を鏡で確認する。幼い顔つきとは不釣り合いな、荘厳な姿に少し戸惑いを覚える。かっこなどどうでもいい、と思わないわけではないが、こうして懸命に支度してくれるメイドたちを立てようと思うのだった。

 最後に、金糸で編まれた幅広のベルトが腰に巻かれ、大きな宝石のついた留め金で固定される。

「さて、お化粧の時間です」メイド長が告げる。

 アンネリーゼは小さく溜息をつく。

「早く終わらせてくれ。こんなに時間をかけたら、しわしわの老婆になってしまうぞ」

 まず、メイドたちが白鉛(しろなまり)の粉を水で溶いたものを、アンネリーゼの顔全体に薄く塗っていく。これが当時の貴族の肌を白く見せるファンデーションの役割を果たした。

「くっ……顔が重いぞ」アンネリーゼが眉をひそめる。

 次に、赤い顔料で頬を染める。メイドが慎重に筆を動かす。

「おい、そんなに赤くしなくてよい。私は人形じゃないんだぞ」

「でも、お嬢様。遠くからでもはっきり見えるようにしなければ……」

「ああ、わかった、わかった。好きにしろ」

 最後に、眉を整え、唇に蜂蜜とバラの花びらで作った口紅を塗る。

「眼帯は外しませんか?」若いメイドが恐る恐る尋ねる。

「……そうだな。魔眼を民衆に見せるのは危険だが、仕方ない。おまえたちのがんばりを台無しにはしたくない」

 アンネリーゼはわざとしぶしぶといった様子で答えた。

 メイド長が慎重に眼帯を外す。アンネリーゼの両目が現れると、部屋中がぱっとした明るい空気に包まれた。

「お嬢様……とてもお美しい」

 若いメイドが感嘆の声を上げる。

 アンネリーゼは少し照れくさそうに目をそらす。

「ふん、世辞を言うな」

 メイド長は優しく微笑みながら、両目にも同じようにメイクを施していく。

「これで本当に完成ですね」メイド長が化粧筆を置く。「まるで天使のようです!」

 アンネリーゼは鏡を覗き込み、少し戸惑ったような表情を見せる。

「別人だな……だが、悪くない。皆、ありがとう、感謝する」

 メイドたちは嬉しそうに頷く。早くも涙を流す者も。アンネリーゼの優しい言葉に、従者たちは胸を熱くした。


 アンネリーゼは、重厚な木製の扉の前で深呼吸をした。

「アンネ……大丈夫ですか」

 近くに控えたレオンが小声で囁く。

「こんなときに、その呼び方は卑怯だぞ」

 アンネはレオンの手を握る。少しだけ震えている。緊張がレオンに伝わった。レオンが握り返すと、アンネの震えが止まった。

 メイドたちが最後の衣装の調整を終えると、彼女は頷いて合図を送った。扉が開かれ、荘厳な大広間が姿を現す。

 両側に並ぶ貴族たちが一斉に頭を下げる中、アンネリーゼはゆっくりと歩を進めた。彼女の紫紺のドレスは床を優雅に滑り、金糸の刺繍が光を受けて輝いている。

 中央に据えられた玉座に到達すると、アンネリーゼは一瞬躊躇したが、すぐに背筋を伸ばして腰を下ろした。兄が座るはずだった場所。

 (兄上、私が意思を継ぐ。どうか安らかに眠ってくれ)

 祖父と孫くらい歳の離れた枢機卿が彼女の前に進み出る。彼の手には王冠がある。王冠は純金で作られ、円形の台座に八つの尖塔が立ち上がる形状をしている。各尖塔の先端には、大粒のダイヤモンドが輝きを放つ。台座の前面には、国の紋章である翼を広げた鷲が浮き彫りで刻まれ、その目には国宝の「海の星」がはめ込まれている。

「アンネリーゼ・フォン・ヴィッテルスバッハよ」枢機卿の声が広間に響く。「汝、この王国の重責を担う覚悟はあるか」

「はい、覚悟はできております」

 アンネリーゼの声は小さいながらも、はっきりとしていた。

「では、神と民の名において、汝に王冠を授ける」

 枢機卿がゆっくりと王冠を持ち上げ、アンネリーゼの頭に載せる。王冠が彼女の額に触れた瞬間、広間全体が金色の光に包まれた。

「万歳!」という声が上がり、続いて「アンネリーゼ女王陛下、万歳!」の唱和が広間中に響き渡った。

 アンネリーゼは、新たな重みを頭に感じながら、静かに立ち上がる。彼女の瞳には、決意の色が宿っていた。彼女は立ち上がり、

「私は、この国と民のために全力を尽くすことを誓います」と、その歳では到底持てない威厳を示した。

 彼女の言葉に、再び歓声が沸き起こった。アンネリーゼは、これから始まる新たな人生への期待と不安を胸に秘めながら、レオンと目を合わせて、頷いた。


 マイン川から引き込まれた水路によって造られた人工湖に架かる優雅な石橋の上には、貴族たちのための特別席が設けられ、華やかな衣装に身を包んだ彼らがお酒を飲んでいる。アデル達と三姉妹、他の悪魔たちは貴族席の末席にいた。ヒルデは男爵家なので仕方がなかった。納税を怠っていたので本来なら、呼ばれることもなかったが、ノーラが肩代わりしてくれたおかげでこうしていられるだけで幸せだった。

 大広場は、賑わいを見せていた。湖面には城の威容が鮮やかに映り込み、石畳の遊歩道は人で溢れ、子供たちは親の肩に乗って、少しでも良い場所を確保しようとしていた。柔らかな日差しの中、数千人もの民衆が集まり、即位式後の女王を一目見ようと、お披露目式を今か今かと待ち望んでいた。

 ヒルデはわくわくしているクララの髪を梳いた。「よかったな、クララ」

 

 数時間前、ヒルデの屋敷の朝は慌ただしかった。

「もう、アデル姉さん、そんな格好じゃだめだよ」

 ヒルデが呆れたように言った。普段は粗野な彼女だが、今日ばかりは違った。深緑のドレスに身を包み、髪も丁寧に結い上げている。

「男爵家の長女として恥ずかしくないの?」

 アデルは困惑した顔で鏡を覗き込んだ。

「えー、長女はヒルデちゃんでしょ。でも、これが精一杯なの……」

 ノーラが優しく微笑んで介入した。

「大丈夫よ、アデル。ここを少し直せば」

 彼女の手が素早く動き、アデルのドレスを整えていく。さすがは悪魔貴族の令嬢。

「あ、そうだ!」

 ノーラが何かを思い出したように言った。彼女は小さな箱を取り出し、中から繊細な銀細工のカチューシャを取り出した。

「これをつけてみて」

 アデルの頭にそっとカチューシャを載せると、彼女の表情が輝いた。銀の葉と小さな宝石で飾られたカチューシャは、アデルの髪に美しく映えている。

「わぁ!」エマが感嘆の声を上げた。「アデル姉さま、まるで妖精みたい」

 鏡の前で、アデルは自分の姿に驚いていた。くすんだ灰色の髪は泥を被っているようだと思っていた時もあったが、カチューシャが彼女の雰囲気を一変させ、洗練された貴族の娘へと変身させていた。

「これで完璧ね」ノーラが満足げに言った。「さあ、歴史的瞬間を見に行きましょう」

 アデルは会場で場違いじゃないかと、ノーラに問うと、彼女は「私たちも貴族なのだから、どうどうと胸を張りなさい」と言われた。

 

 そうして、今、アデルは頭に載ったカチューシャの感触を確かめながら、貴族席に座り、少し背筋を伸ばしてあごを引いた。少しでもお淑やかに見えるように。

 城の正面、二階のバルコニーに国旗の垂れ幕を掲げ、左右に王家の紋章の旗がはためく。そこからアンネリーゼが姿を現す予定だ。ノーラはこの群衆の中に、ブルーローズの黒幕がいる気がして、気を張っていた。

「アンネリーゼ様は、わたしと歳が変わらないのにすごいです。こんなに大勢のひとの前に立つなんて、すごいと思わない?ね、ノーラも国に帰れば、お姫様なんでしょう?」

 アデルが目をキラキラさせながら尋ねた。

「まあ、そうかもね……」とノーラはとぼけた。

「その子は、せいぜい成金のお嬢様よ」

「ストロス!……それが事実ですけどねっ」とノーラはしぶしぶ認めた。 

 その時、城のバルコニーの扉が開き、群衆がどよめいた。アンネリーゼの姿が現れると、一瞬の静寂の後、大きな歓声が沸き起こった。

 彼女は紫紺のドレスに身を包み、頭には眩いばかりに輝く王冠を戴いている。バルコニーの手すりまでゆっくりと歩み寄ると、群衆の歓声に応えて、片手を上げ、手を振った。陽光を浴びて輝き、微笑む彼女の姿は、まるで天からの祝福を受けているかのようだった。

 レオンを含む近衛兵たちが彼女の後ろに控え、不測の事態に備えている。

「女王陛下、万歳!」人々は熱狂的に国旗を振り、ある者は帽子を投げ上げた。アンネリーゼは胸に手を当て、深く頭を下げて民衆への感謝の意を示した。この瞬間、アンネリーゼは国民の希望の象徴となり、新しい時代の幕開けを体現した。

 

 そんな華やかな雰囲気の中、一人の小柄な少女が群衆の中をもがきながら進んでいた。「ちょっと、通してください」。彼女の低い身長のかわいらしい女の子だ。ウェーブがかかったブロンドの髪に、瞳と同じ色の、大きな青いリボンをつけている。青いフレアスカートに白いシャツはひだの装飾がついたかわいらしくも上品。大きなくりっとした目は人懐っこそう。どうやら迷子になったと見える。しかし、周りの大人は女王に夢中で、少女には気が付かない。

 やっと半分まで来たが、どんどん密集度が高くなり、これ以上進めない。彼女は少し悩んだ末に、周りをきょろきょろと確認した。

「flying 」小声で囁く。

 少女のエナメルの靴が地面を静かに離れ、10cmほど彼女の視線が高くなる。

「なるほど、あの子が、アンネリーゼね。うん、あたしの勘では、あなたは歴史に名を残す名君になると告げているわ。偉大なるガブリエル兄さまの偉業に泥を塗ることはできません。今後は私が……アンネリーゼ、一緒にがんばりましょう」

 彼女はセレスティア。天使ガブリエルの妹で、地上に人間の姿で降臨していた。歴史のときどきに天界は介入し、調整してきた。

 熱狂する人々とは対照的に、天使は冷静に状況を観察し続ける。その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。まるで、これから始まる大きな物語の幕開けを楽しみにしているかのように。

「さて、これからどんな展開になるのかしら」

 ふと、貴族らの来賓席を見る。彼女はぎょっとした。

「嘘でしょう!あんなところに、悪魔が1、2、3……どうゆうことからしら、まさか女王と契約しようというの!?あの人数を一度に相手にするのはあたしだって賢明ではないわ。とくに、あの金髪の悪魔は一筋縄ではいかない。落ち着くのよ、セレスティア、これでも一級天使なのだから」

 セレスティアが次の行動を決めかねている時、突如、轟音が響き渡った。彼女の目が即座にバルコニーに向けられる。そこでは、恐ろしい光景が繰り広げられていた。

 バルコニーの底に仕掛けられたと思わしき爆弾が、アンネリーゼが立っていたバルコニーを崩壊させた。群衆から悲鳴が上がり、パニックが広がる。セレスティアは逃げようとする観客に押しつぶされそうになるが、緊急事態とし、飛行術で最前列の場所まで前進した。心臓が高鳴った。この瞬間、数秒、アンネリーゼの体は瓦礫と一緒に地面に叩きつけられようとしていた。

「まさか、あの子の人生はここで終わってしまうの……」

 その瞬間、思いもよらぬ場所から救いの手が差し伸べられた。貴族席にいたアデルが立ち上がり, メロマギアを奏で始めた。その旋律は空気を震わせ、目に見えない力を呼び起こす。

「Wind, arise and cradle!(風よ、立ち昇り、包み込め!)」

 アデルの旋律が響き渡る。

 突如、強い上昇気流が生まれ、崩れ落ちるバルコニーの破片を押しのけながら、アンネリーゼの体を包み込んだ。彼女はまるで羽根のように、ゆっくりと宙に浮かび上がる。

 アデルは躊躇することなく、風に乗って空中へ飛び出した。彼女はアンネリーゼに腕を伸ばし、しっかりと抱きかかえる。二人はゆっくりと地上へ降りていく。きょとんとした顔でアデルを見上げるアンネリーゼ。

 セレスティアはその光景に目を見張った。

「まさか、ただの人間がこんなことをするなんて……」

 彼女の驚きもつかの間、別の動きが目に入った。貴族席の隅で、群衆に紛れ、一人の男が慌てふためいて逃げ出そうとしている。あきらかに悪魔の魔力の波動。オットーである。

 セレスティアの瞳が鋭く光る。

「逃がすものか!」

 彼女は不可視の翼を広げ、オットーに肉薄する。彼は人間ではない追跡者に気づき、同じように悪魔の翼を生やし、空中に逃れた。

 セレスティアは光の弓、ルミナークを構え、神のささやきという名の矢「ディヴァインウィスパー」を番えた。弓を引く彼女の姿は、少女ながら、古の神話から抜け出してきたかのような威厳を放っていた。オットーに警告する。

「止まりなさい!」セレスティアは叫んだ。

 男は立ち止まり、驚いた表情でセレスティアを振り返った。

「なぜ、天使がいる?」

「それはこっちのセリフよ。答えなさい!あなたは誰?さっきの爆発はあなたが?」

 セレスティアは警戒しながら問いただした。

 男は苦々しい表情を浮かべた。

「悪魔のくせに正義の味方ごっこをしてるエレオノーラだけでも面倒なのに、天使まで出てくるとはな」

 オットーは彼女の質問に答えることなく、先に動く。

「待ちなさい!弓が見えないの?」

 セレスティアは弓を強く引き、照準を定めた。

 オットーは冷ややかに笑った。

「いいや、待ちなさいと言われて待つバカがいるか」

 その瞬間、オットーの体が霞み始めた。そして完全に霧となって虚空に消えた。

 セレスティアは呆然と立ち尽くした。「こんなに一か所に大勢の悪魔が集まるなんて、何か企みが進行しているにちがいないわ」

 彼女は急いでアンネリーゼのいる方向へ戻り始めた。頭の中では次々と疑問が湧き上がる。エレオノーラとは誰なのか。なぜ悪魔が正義の味方をしているのか。そして、あの男の正体は?

「事態は思っていた以上に複雑みたい」セレスティアは呟いた。「早くアンネリーゼと接触しないと」

 彼女は上空から、逃げ惑う人々を見下ろし、アンネリーゼの即位式を台無しにした、さきほどの悪魔が消えた方角を睨んだ。

 

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