第26話 アデルの母親

 アデルの母親、ブリギッテは神聖ロマーニュ帝国フラーベントの隣国、西フランベル王国の未開の地に赴いていた。

 夕陽が沈みゆく空を赤く染め上げる中、ブリギッテは息を呑んだ。目の前に広がる光景は、まるで大地が裂けて、大口を開けたかのような壮大な峡谷だった。「魔渓谷」と呼ばれるこの場所は、一般の地図には載っていない。魔法使いたちの間でのみ、その存在の有効性が密かに語り継がれてきた聖地だった。

 深さは優に千メートルを超え、幅は数キロメートルに及ぶ。峡谷の壁面は幾重にも重なる地層を露わにし、その色彩は赤褐色から黄金色、そして青みがかった灰色まで、まるで大地の歴史を物語る絵巻のようだった。至る所で消えかかっている魔方陣やルーン文字の跡を見ることができる。

「よし、ここが地脈の流れる線状ね。もうすぐ夜が来る。狼たちが騒ぎ出す前に結界を作りましょう」 

 ブリギッテは峡谷の縁に近づき、慎重にテントを設営し始めた。風が強く吹きつける中、彼女の手際は素早かった。テントを固定する杭を打ち込むたび、大地から微かな震動が伝わってくる。それは、この地に眠る強大な魔力の鼓動か。

「ここなら、きっとこれまでで一番大きな魔法ができるはず」

 彼女は呟きながら、テントの周りに認識阻害の魔方陣を描いてゆく。

 火炎魔法を弱く持続的に固定するのは、ただ火球を飛ばす攻撃魔法よりも熟練が必要だ。彼女はローブで体を包み、熱いお茶を飲んでいる。

 すると、お茶の水面が揺れだし、そこにかつて契約した悪魔、ローゼ・フォン・リッツェンシュタインの姿が映し出された。ノーラの祖母である。

「久しぶりだわね、ブリギッテ」その声は脳内に直接響いた。

「あら、ずいぶんかわいらしいおばあちゃんになったのね」

「あんたたちといるうちに、いつまでも生きる悪魔に嫌気がさしてね。老いを選んだのさ。その短い輝きに人間の価値があることを知ったからね」

「ずいぶん贅沢な悩みだこと。わたしも年をとったわ。生きているうちに、魔法の神髄に到達できるかどうか」

 ブリギッテは茶を置き、崖の先端まで行くと、そこから広がる星空を見た。人間がいない土地は空気が澄んで、星を鮮明に見せた。

「私の孫娘のエレオノーラがね、人間界に行ったの。血は争えないわね。それであなたには了承を取らなかったのだけれど、あんたの娘のアデルちゃんを頼りにしな、と助言してしまったの」

 ブリギッテはしばし無言になって、真剣な顔になった。

「……そう、別に私に断る必要はないわ」

「……怒ったかい?」

「それで、アデルはエレオノーラとやらと、契約したの?」

「ええ、すでに。便りではブルーローズという悪魔が作った薬が帝国を混乱させているみたいで、犯人を追っているらしいわ」

「それで、どうして連絡してきたの?」

「助けてやらないのかい?それに彼女はあんたが生きていることを知ったようだよ。不憫じゃないかい」

「話はわかった。もう、切る」

 ブリギッテはローゼの映るお茶を飲み干した。ローゼがなにか言おうとしたが、飲み切ってしまい、通信は途切れた。 


 ローゼとの会話は終わったが、その余韻が彼女の心に重くのしかかっていた。さっきまでの心の平穏は失われ、隅に押しやった過去が疼いていた。

「まだまだ、駄目ね。こんなことで動揺するなんて……」

 『こんなこと』、なのだろうか。親が子を心配することが、普通なのではないか。それを否定し、些末なことと片付けようとする自分こそ異常なのだ。しかし、それはずっと以前に受け入れたことではないか。普通の人生を捨てると。私は魔術の魅力と、人間性をトレードオフしたのだ。

 テントに戻り、オイルランプの下、地図と魔導書を広げるが、集中できなかった。もう、寝てしまおうと、ランプを吹き消す。遠くで狼の遠吠えが聞こえた。

 その夜、彼女は夢を見た。夢の中で、成長したアデルが何者かと戦っている。魔法の光が飛び交う中、刹那、光の矢が彼女の首を貫いた。激しく吐血するアデル。しかし、多量の血が口から溢れて、声は出ない。口をぱくぱくさせるだけだ。その口は『おかあさん』と言っているようだった。アデルが必死で手を伸ばす。

 ブリギッテはその手を掴もうと、手を伸ばしながら叫んで目を覚ました。冷や汗で全身がびっしょりと濡れていた。彼女は激しく動悸する胸に手を当て、深呼吸を繰り返した。

「夢?いや、わかっているだろう、夢ではないということが。これまでも何度もあったことだ」

 ブリギッテには若いころから、予知夢ともいうべき力があった。それは能力というには曖昧なもので、役に立つことはほとんどなかった。後になって、あれが夢のことだったのかと気づく程度。しかし、悪魔と契約し、魔術を探求するうちに、その力の鱗片は洗練され、ビジョンはクリアになっていった。だから、娘の死もまた未来の現実だと確信した。

 結局、ほとんど眠ることができず、夜明け前、ブリギッテは決意を固めた。ペンダントにしている小さな懐中時計を握りしめる。それは長年使ってきた、彼女にとって大切な品だった。

「親らしいことね……」

 ブリギッテは時計の蓋をあけて、幼いアデルの似顔絵を見つめた。

 彼女は登ってくる太陽を頼りに魔方陣を描いてゆく。かなり複雑な紋様にその魔法の効果が伺える。二時間は経っただろうか、すでに日は登り切っていた。時計を魔法陣の中心に置き、長い呪文を唱え始めた。魔渓谷の力を借り、彼女の魔力が時計に流れ込んでいく。時計は魔方陣の中央で浮かび上がり、太陽と直線状に並んで光を吸収した。

 彼女が時計の文字盤を確認すると、地上に書かれた魔方陣が転写されていた。成功だった。まだ熱をもつ時計を丁寧に特殊な保護布につつみ、ポケットに入れた。

「この地の精霊が、アデル、あなたを守ってくれることを……」

 彼女は儀式の痕跡を消し、テントを畳んだ。寝不足の上に、複雑な魔法儀式に、疲労の色が浮かぶ。彼女は疲れた表情で空を見上げた。

「さて、どうやってこれをアデルに届けようかね……」


 ブリギッテは魔法使いの組合の門を叩いた。表向きは修道女のいる教会そのものだ。中から現れたのは、彼女より若い魔法使い、エリザベスだった。

「まあ、ブリギッテさん。珍しいわね、旅に出たと」

「急ぎの用があるの。組合の早馬を借りたいのだけれど」

 エリザベスは驚いた表情を浮かべた。

「急ですね?でも手続きが...」

「知ってるわ」ブリギッテは言葉を遮った。「でも、これは重要な任務よ。ルーカスの黒駿馬を貸してちょうだい。あれが一番速いでしょう?彼女は友達だから」

 エリザベスは躊躇したが、ブリギッテの真剣な眼差しに押され、頷いた。

「わかりました。ルーカス様には私から言っておきます」

「ありがとう」ブリギッテは微かに微笑んだ。「借りは必ず返すわ」

 数分後、ブリギッテは黒い駿馬に跨り、組合の門を後にしていた。数日後、フラーベント地方東部の小さな町、ヒルデの屋敷の近くまで来た。ローゼから聞いた情報を頼りに、彼女はこの地にたどり着いた。屋敷を遠巻きに観察しながら、娘の姿を探した。

 そして、ついにその時が来た。成長したアデルらしき娘が、小柄な少女とリュートを奏で、魔法を発現させていた。そんな方法を初めて見たブリギッテは驚き、感嘆した。そして、魔力の波動が異なる金髪の少女が悪魔のエレオノーラだろう。アデルに声をかけ、練習を中断し、ふたりが町に向かうのが見えた。ブリギッテは慎重に二人の後を追った。

 町の雑踏の中、ブリギッテはノーラに近づく機会を窺った。アデルが古物屋に目を奪われて、「少し覗いていいですか」と別行動をとる。その隙に、ブリギッテはノーラの肩に軽く触れた。

「あなた、エレオノーラね」

 ノーラは驚いて振り返えり、戦闘の態勢をとったが、ブリギッテは彼女の口元に指を当て、黙るよう促した。薄汚れたマントを着た低い声の女性。

「私はブリギッテ。アデルの母よ。長話はできない。これを彼女に渡してほしい」

 ブリギッテは懐中時計のペンダントを取り出し、ノーラに手渡した。

「なぜ、私に?直接渡さないのですか」

 ノーラは小声で尋ねた。

 ブリギッテは一瞬、悲しげな表情を浮かべた。

「私には……その資格がないの」

「でも、アデルは喜ぶはずです。会ってあげるべきでは?」

 ブリギッテは首を横に振った。

「いいえ、今は……ただ、これを彼女に渡してほしいの。危険がせまっているの、理由は説明できないけれど。これが彼女を守ってくれるはず」

 ノーラは躊躇いながらも頷いた。彼女は自分の育ての母親を思い浮かべ、ブリギッテの胸の内を想像し、これ以上追求することをやめた。きっといろいろあるのだ。

「私は母親失格なの。勝手だけど、あなたに頼むわ、エレオノーラ。彼女を守ってあげて。お願い」

 そう言うと、ブリギッテはフードを深くかぶり、人混みの中に姿を消した。

「ちょっと、待って!」

 ノーラが振り返ると、アデルが古物屋から出てきたところだった。

「ノーラ、誰かと話してたの?」

「え、ええ……ちょっとね」

 ノーラは懐中時計を握りしめながら答えた。

「アデル、あなたに渡すものがあるわ。驚かないで、いいえ、驚くに決まっているわ」

 アデルはノーラから時計を受け取った。

「……これは?」

「ある人から、あなたへと、頼まれたの」

 時計を開けると、蓋にはアデルの似顔絵が書かれており、裏側には彼女の出生日と「愛してる、アデル」という文字が刻んであった。

 アデルは通りの真ん中に駆け出し、「お母さんなんでしょ。なんでまた行ってしまうの!」と大声で叫び、人込みをかき分け、探し続けた。彼女の走った路上には涙の雫が跡を作った。

 家に帰ってきたアデルはすぐに部屋に閉じこもって、枕に顔を埋めて、また泣いた。その声は居間のヒルデたちにも聞こえた。

「アデル姉さん、なにかあったのかい?」

 ヒルデが心配そうにノーラに尋ねる。

「家族のことよ、今はそっとしておいてあげて。彼女が解決することだから」

 ノーラはブリギッテに託された信頼を実行する決意を新たにするのだった。




 




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