第23話 クラウスの恋

「オットー、ずいぶんご機嫌そうじゃないか」

 彼は低級悪魔を使って、クラウスの教会の事務室にブルーローズの在庫を降ろしている。クラウスは説教を前に、ワインを一杯ひっかけて、心を落ち着かせた。

「ああ、君のおかげで魂の収集は順調だよ」

「このブルーローズは何から作られているんだ」

「悪魔界の植物と鉱物、そして私の特製ブレンドさ。分子構造を理解しないと作れない。顕微鏡も持たない君たちがわかるようになるのはまだ先になるだろうね」

 クラウスは人間を見下す彼を無視して話を続けた。

「それよりも、忘れていないだろうね。私との約束を」

「彼女の魂だろ。クラウス君、君は灯台下暗しということわざを知っているかね」

「悪魔界にも同じようなものがあるんだな。大事なものは意外に近くにある、ってことだろ」

「そうさ、でも本人は気づかない。私はなんとなく君を尾行したんだが……」

「悪趣味な……」

「毎日、彼女の墓を訪れているね」

「……見てたのか。あまりいい気分はしないな。で、それがどうした」

 まだ修道士になりたての頃に出会った恋人ゲルトルーデを亡くしてから、毎日会いに行っていた。そこで彼女と会話するのが彼の慰めとなっていた。

「彼女の魂は、あの場所に縛られていたよ。正確には君の彼女への想いが彼女をつなぎとめているのだろう。ただ君には彼女が見えない、見える人間も稀にいるがね。私が彼女と話してやってもいい。彼女の記憶を宝石に固定化すれば、君の悲願も叶うかもしれない」

 ブルーローズを売人に配布するために、小分けに分配していたクラウスはオットーの首根っこを掴み、顔を近づけた。

「それは本当か!!私をだましているのではないか、悪魔め!」

「落ち着け、嘘ではない。ただ、私も霊の復活ははじめてだから、絶対とは言い切れない。努力しよう」

「私は毎日トゥルーデと会っていたか……」

 クラウスはすでにオットーの声など聞こえていない。そして、その場に泣き崩れた。

 オットーは冷徹な眼差しで彼を見下ろした。(人間の愛とやらは苦手だね、面倒だよ)と、オットーは心の中で吐き捨てた。


 出逢いはフラーベント地方北部漁村の小さな修道院。長く続いた戦乱の影響で、男手が不足していた。修道女たちに大工仕事や機械の操作は困難で、重労働には限界があった。

 教会組合からの手紙が届いたのは、そんな厳しい冬の始まりだった。

『若い牧師を派遣します』

 その知らせに、修道院全体が期待に沸いた。

 数週間後、一台の馬車が修道院の門をくぐった。降り立ったのは、あどけなさの残る青年だった。やわらかいブラウンの髪を短く刈り、教会から支給された立襟の祭服はまだ真新しかった。

「クラウス・ヴァイスと申します。よろしくお願いいたします」

 ゲルトルーデ修道女長が青年を迎え入れた。彼女は艶のある黒髪を固いシニョンにまとめている。目じりが垂れた笑顔が優しく、他人を受け入れてくれる寛容さに満ちていた。背は少しだけクラウスよりも低い。実際に歳を聞くまで、クラウスは自分よりも年下だと思っていたが、三つほど年上だった。修道女長というには威厳は足りないようだが、その愛嬌で、他の修道女から信頼を得ていた。

「ようこそ、クラウス修道士。皆、あなたの到着を心待ちにしておりました」

 翌日からクラウスは早速、修道院の仕事に励んだ。彼の勤勉さと知識の豊富さは、すぐに修道女たちの信頼を得た。日中は、信者が座る長椅子を作るトンカチの音が聞こえた。疲れているだろうに、夜は医学書を熱心に読みふける姿は、ゲルトルーデの目に留まるのに時間はかからなかった。

 大雪が降った翌朝、彼女は梯子にのぼり、修道院の屋根に積もった雪を払おうとしていた。

「ゲルトルーデ様、危険ですから、私にお任せください」

 クラウスが心配そうに声をかける。

「大丈夫です、クラウス修道士。あなたばかりに負担を押し付けられません。私にもできることはあります」

 マリアは微笑んで答えた。

 しかし、その直後だった。ゲルトルーデの足が滑り、彼女は屋根から転落した。

「ゲルトルーデ!」

 クラウスは敬称を忘れ、咄嗟に駆け寄ると、落下する彼女を受け止めようとした。しかし、衝撃は避けられなかった。

「痛っ!」

 ゲルトルーデが呻いた。

「足を動かさないで!」

 クラウスは冷静さを保ちながら、すぐに彼女を診察した。

「腫れてきたでしょう、右脚首にヒビが入ったのかも。すぐに治療しましょう」

 彼はゲルトルーデを抱えると、教会へ向かった。

「私の首に手を回してください」

「は、はい、こうですか。でも、重いでしょう?」

「そんなこと言っている場合ですか!」

 クラウスの真剣なまなざしと、唇がすぐ近くにある。こんなに近くで異性を見ることはない。ゲルトルーデは骨折よりも体重を気にして赤面し、それを悟られまいと祈った。

 彼は医学書で学んだ知識を総動員し、最善の治療を施そうと決意した。

「砂漠の国で医学の父と呼ばれたアル・ラーズィーは、石膏で固定する方法を100年前にすでに考えていたのです」

 クラウスは慎重に石膏の粉末を水と混ぜ、適度な硬さのペーストを作り上げた。

「ゲルトルーデ、少し痛むかもしれませんが、耐えてください。さあ、タオルを噛んで」

 彼は準備した細長い布を石膏ペーストに浸し、ゲルトルーデの骨折した足に丁寧に巻きつけていく。

「これで骨がずれることなく、正しく癒えるはずです。入浴時は濡らさないように。かゆくなったら、言ってください。はずして清潔にしましょう」

 クラウスの手つきは慣れており、医学書で学んだ知識を実践に移す姿は真剣そのものだった。彼の額から汗が垂れる。

「すぐに固まるんですね、まるで魔法みたいです」

 ゲルトルーデは不思議そうに石膏に包まれた足をそっと撫でた。

「聖職者の私が言うのは、はばかられますが、人間の身体は機械のように精巧にできています。奇跡や祈りで病は治りません、信仰と医学は別物なんです。でも、ここだけの話にしてください」


 数週間が過ぎ、ゲルトルーデの足は徐々に回復していった。クラウスは毎日彼女の世話をし、リハビリを手伝っていた。

「松葉杖を作りました。ゲルトルーデ、今日は買い物に行ってみませんか。筋肉は使わないと衰えてしまいますから」

 クラウスが優しく声をかける。

「ええ、お願いします。……それと、ふたりだけの時は、トゥルーデと」

 ゲルトルーデははにかみながら、クラウスの腕につかまり立ち上がった。

「……トゥルーデ」

 遠くから、若い修道女たちがその様子を見て、ささやき合っていた。

「ねえ、見て!クラウス修道士とゲルトルーデ様、すごく仲良さそう」

「本当ね。まるで恋人同士みたい」

 ゲルトルーデはそれを聞いて、顔を赤らめながら彼女たちに向き直った。

「あなたたち、なにを騒いでいるのです。彼とはなんでもないのですよ!」

 しかし、声は上擦り、言葉とは裏腹に、ゲルトルーデの心臓は早鐘を打っていた。

 海辺の小さな土産物屋。棚には貝殻や石で作られた簡素な装飾品、地元の織物、聖人の像、小魚の干物などが並んでいる。土産物屋というよりも食材も扱う近所の個人商店。クラウスとゲルトルーデが店に入ってくると、主人のトーマスが愛想良く迎える。痴呆症の母親を介護する独身の中年男性は肥満体で大男、ゲルトルーデの教会の信者だった。クラウスは外見で人を判断しないが、彼の印象は心地悪く、目の笑っていない愛想笑いは不気味に感じた。

「いらっしゃいませ、修道士様、修道女長様。どうされたのですか、その足は!」

「雪落しで足を滑らせてしまいまして」

「先日の説教は修道女長様でなくて残念でした」

 それからもいろいろと質問してくるトーマスをクラウスは彼女が疲れているからと、制止させた。ゲルトルーデが松葉杖をつきながら、棚の品々を興味深そうに見ている。

「クラウス、見て。この貝殻のロザリオ、素敵じゃありませんか?」

 クラウスは微笑んで頷く。

「綺麗ですね。記念にいかがですか?」

「では、二人分」

 クラウスは提案した。

「またあの子たちに噂されますよ」

「私は別にかまいません。トゥルーデは気にするのですか」

「いじわるですね、ふふっ」

 二人が楽しそうに品物を選ぶ様子を、トーマスは複雑な表情で見つめている。彼の目には嫉妬の色が浮かんでいた。彼は二つのロザリオを包みながら、はらわたが煮えくり返っていた。

(なぜあんな若造が……)トーマスは心の中で呟く。

 店を出て、海を見渡せる埠頭で、ロザリオを交換し合った。その瞬間の二人の指先の触れ合い、見つめ合った。そして自然とキスをした。冬の海風が冷たかったが、唇はいつまでも熱かった。

 その様子をトーマスは店の窓から見ていた。二人の体が重なり合ったとき、彼は怒りよりも冷酷な感情に支配されていた。トーマスの目に暗い影が宿る。


 夜も遅く就寝前、教会の懺悔室をノックする音が聞こえ、見回りのゲルトルーデは「こんな時間に」と不審に思いながらも、返答した。

「どなたですか?」

「トーマスです……」

 震える声が返ってきた。以前訪れた土産屋の主人だ。

「どうしても……話を聞いていただきたくて。どうにかなりそうなんです」

 ゲルトルーデは不安を感じながらも、相手の苦しみを察して答えた。

「わかりました。どうぞ」

 暗い仕切りの向こうから、トーマスの重く荒い息遣いが聞こえる。

「罪深いことを……してしまったんです」

 トーマスの声が震えている。

「母が……私を罵倒するんです。役立たずだと……不能だと……何度も、何度も、何度も」

 彼の声が次第に大きくなる。ゲルトルーデはこれ以上刺激しないよう、冷静に対応しようとする。

「神様はあなたを見守っておられます。祈りと反省で...」

 突然、仕切りをガタガタと揺らされた。トーマスの声が荒々しくなる。

「違う!もう耐えられなかったんです。私は……母を」

 ゲルトルーデは立ち上がろうとしたが、松葉杖が滑って倒れてしまう。そして、床に仰向けに倒れた。そこへ仕切り版を乗り越えて、トーマスが彼女を見降ろした。その目は虚ろで何も感情を読み取れない。

「トーマスさん、落ち着いて……」

 彼女の声に不安が混じる。

「あなたなら、俺を受け入れてくれると信じてる」

 ゲルトルーデの細い白い首に、血で濡れたトーマスの大きな手がかかろうとしていた。


 教会法廷が開かれ、トーマスが裁かれる日、クラウスは関係者席から彼を睨んでいた。厳かな雰囲気の中、判決が下される。

 クラウスが彼の所業を述べる。母親と修道女長、二件の殺人。聖職者たちは彼が悪魔憑きの異端者だと断じた。クラウスは悪魔がやったのではなく、彼のゲルトルーデへの偏愛が原因だと言いたかったが、それを言ったところで教会の重鎮たちが納得するわけがない。むしろ彼が疑われる。クラウスを言葉を飲み込み、彼の死罪だけを願った。即座に有罪判決が下された。当時、聖職者への殺人は禁忌とされていた。

 裁判官は威厳ある声で言い渡した。

「 汝は、神の恩寵に背き、悪魔の取り憑かれた者として裁かれる。汝の罪は重大である。汝は聖なる母なる教会に対する冒涜を犯した。この裁きにより、汝の肉体は火炎に焼かれ、魂は地獄の業火に沈むであろう」

 被告人はニタニタと笑っていた。判決の言葉も理解していないようだった。彼が死の恐怖に泣き叫ばないことにクラウスは怒り、血が出るほど唇をかみ、殴りかかるのをやっとのこと耐えた。

「早くそのおぞましい存在を連れて行け、しっしっ」

 嫌悪感を露わにした教会裁判官が手で払う。刑吏たちに引っ張られ退場した。

 大司教がクラウスに耳打ちした。

「クラウス修道士、今回は教会の民衆へのメンツがある。火。ゲルトルーデ修道女長もそれを望んでいるだろう。彼女の無念を晴らしたまえ」

 クラウスの胸に激しい感情が渦巻く。復讐心と、修道士としての慈悲の心が葛藤する。

 火刑台。トーマスが縛り付けられている。群衆が見守る中、執行人がクラウスに松明を渡す。

「修道士様、どうぞ」

 クラウスは震える手で松明を受け取る。トーマスと目が合う。

「お前を許すことはできない」

 クラウスの声が震える。

「なあ、おまえは悪魔に操られたのか?それなら、私が憎むべきは、お前ではない」

 トーマスは答えない。クラウスは深く息を吐き、ゆっくりと松明を薪に近づける。次第に勢いが増す火がトーマスの肉体を焼いてゆく。彼の苦痛の叫びも次第に火にかき消され、肉と骨が焼き落ちた。

 教会の重鎮が拍手をし、それに倣い民衆に拍手が広がる。これで教会の信者が増えるだろう。

 クラウスは焼ける肉の匂いを嗅ぎながら、空に小さく呟いた。

「神よ、おまえを許さない!」


 クラウスは遠い目をして、過去の記憶から現在に戻った。オットーが彼の表情の変化に気づき、尋ねた。

「何を思い出していたんだい?」

 クラウスは重い口を開いた。

「あの日のこと……トーマスを火刑に処した日だ」

 オットーは興味深そうに眉を上げた。残酷な話のほうが、愛より面白いのだ。

「そうか。で、どう思う?正しい判断だったかい?」

 クラウスは苦々しい表情で答えた。

「正しかったのかどうか……今でもわからない。ただ、あの時から私は神を憎んでいる。憎むことが私の信仰心だ。今では悪魔と手を組んでいる、私も火刑になるかもな、ははっ」

 クラウスは深く息を吐いた。

「オットー、聞きたいことがある。トーマスには本当に悪魔が宿っていたと思うか?」

 オットーはしばらく沈黙し、それから意味深な笑みを浮かべた。

「人間の精神は脆いものさ。性欲に嫉妬……人間が一時、悪魔になるんだろうさ」

 クラウスは息を呑んだ。

「では……」

「そうさ。トーマスを動かしていたのは悪魔じゃない。彼自身の深い闇だ」オットーは続けた。「人間は自分の中の影に向き合うのが怖いんだ。だから外部の存在、つまり我々悪魔のせいにする。便利な言い訳さ。こっちはとばっちりだぜ」

 クラウスは言葉を失った。彼の中で何かが崩れていくのを感じた。

 オットーは更に畳みかける。

「最も危険なのは悪魔ではなく、正義の名の下に刑を執行する人間たちだな。つまり君のお仲間たちさ。人間の正義というものは、悪魔から見ても相当醜悪だと思うぞ」

 クラウスは長い沈黙の後、震える声で言った。自分に言い聞かせるように。

「だが、ゲルトルーデは苦しんで殺されたんだぞ」

 オットーは肩をすくめた。

「死は彼女が初めてではない、生命が生まれてから続いてきた。だが、わかるよ、人間が個人の死に縛られるのはね。君自身で答えを見つけなければならないね。倫理観を捨てる勇気が必要だ」

 クラウスはオットーの言葉を噛みしめながら、窓の外を見つめた。陰鬱な曇り空に教会の鐘が鳴り響いていた。教会に入ってくる信者の列が、死者の行進に見えた。







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