第23話 クラウスの恋
「オットー、ずいぶんご機嫌そうじゃないか」
教会に出勤したクラウスはオットーに声をかけた。
「まあな、私の上司は機嫌がいい。私にもいいことがある。つまり君にもあるってことさ」
オットーは低級の使い魔を使って、クラウスの教会の事務室の床下に、ブルーローズの入った木箱を降ろしている。
そして、クラウスは説教を前に、ワインを一杯、いや二杯はひっかけて、心を落ち着かせた。深いため息をつく。
「そう、君のおかげで魂の収集は順調だよ」オットーがウィンクした。
「このブルーローズは何から作られているんだ」それを無視してクラウスが尋ねた。
「悪魔界の希少な植物と鉱物、そして私の特製ブレンドさ。分子構造を理解しないと作れない。顕微鏡をまだ持たない君たちがわかるようになるのはまだ先になるだろうね」今日はずいぶんと饒舌だった。
「それよりも、忘れていないだろうね。私との約束を」
「恋人の魂だろ。クラウス君、君は『灯台下暗し』ということわざを知っているかね」
「悪魔界にも同じようなものがあるんだな。大事なものは意外に近くにあって気づかない、ってことだろ」
「その通り!本人は気づかない。ある日、私はなんとなく君を尾行したんだが……」
「悪趣味な……」
「毎日、彼女の墓を訪れているね」
「……見てたのか。あまりいい気分はしないな。で、それがなんだというのだ」
クラウスがまだ修道士になりたての頃に出会ったゲルトルーデを亡くしてから、毎日会いに行っていた。そこで彼女と会話するのが彼の慰めとなっていた。
「ゲルトルーデの魂は、あの場所に縛られていたよ。正確には君の彼女への想いが彼女をつなぎとめているのだろう。愛の奇跡というやつかねえ。ただ君には彼女が見えない。幽霊を見ることができる人間も稀にいるがね。私が彼女と話してやってもいい、君の代理でね。彼女の記憶を宝石に固定化すれば、君の悲願も叶うかもしれない」
クラウスはオットーの首根っこを掴み、顔を近づけた。
「それは本当か!!私をだましているのではないか、狡猾な悪魔め!」
「落ち着け、嘘ではない。ただ、私も霊の復活は初めてだから、絶対確実とは言い切れない。だが、努力しよう」
「私は毎日トゥルーデと会っていたか……なんということだ」
クラウスはすでにオットーの声など聞こえていない。そして、その場に泣き崩れた。
オットーは冷徹な眼差しで彼を見下ろした。(人間のメロドラマとやらは苦手だね、面倒だよ)と、オットーは心の中で唾を吐いた。
クラウスとゲルトルーデの出逢いは、フラーベント地方北部漁村の小さな修道院だった。長く続いた戦乱の影響で、その村は男手が不足していた。修道女たちに大工仕事や機械の操作は困難であり、重労働には限界があった。
教会組合からの手紙が届いたのは、そんな厳しい冬の始まりだった。
『若い牧師を派遣します』
その知らせに、修道院全体が期待に沸いた。
数週間後、一台の馬車が修道院の門をくぐった。降り立ったのは、あどけなさの残る青年だった。やわらかいブラウンの髪を短く刈り、教会から支給された立襟の祭服はまだ真新しかった。
「クラウス・ヴァイスと申します。よろしくお願い致します」
クラウスは馬車を降り、出迎えたゲルトルーデ修道女長と握手した。彼は彼女を一目見て「綺麗なひとだ」と思った。それは下心というよりも、彼女の目に神聖な母性を見出したからかもしれない。
彼女は艶のある黒髪を固いシニョンにまとめている。目じりが垂れた笑顔が優しく、他人を受け入れてくれる寛容さに満ちていた。背は少しだけクラウスよりも低い。実際に歳を聞くまで、クラウスは自分よりも年下だと思っていたが、三つほど年上であった。修道女長というには威厳は足りないようだが、その愛嬌で、他の修道女からも信頼を得ていた。
「ようこそ、クラウス修道士。皆、あなたの到着を心待ちにしておりました」
翌日からクラウスは早速、修道院の仕事に励んだ。彼の勤勉さと知識の豊富さは、すぐに修道女たちの信頼を得た。日中は、信者が座る長椅子を作るトンカチの音が聞こえた。疲れているだろうに、夜は医学書を熱心に読みふける姿は、ゲルトルーデの目に留まるのに時間はかからなかった。
大雪が降った翌朝、彼女は梯子にのぼり、修道院の屋根に積もった雪を払おうとしていた。
「ゲルトルーデ様、危険ですから、私にお任せください」
クラウスが心配そうに声をかける。
「大丈夫です、クラウス修道士。あなたばかりに負担を押し付けられません。私にもできることはあります」
ゲルトルーデは微笑んで答えた。
しかし、その直後だった。ゲルトルーデの足が滑り、彼女は屋根の高さ転落した。
「ゲルトルーデ!」
クラウスは敬称を忘れ、咄嗟に駆け寄ると、落下する彼女を受け止めようとした。しかし、衝撃は避けられなかった。
「痛っ!」ゲルトルーデが呻いた。
「足を動かさないで!」
クラウスは冷静さを保ちながら、すぐに彼女を診察した。
「腫れてきたでしょう、右脚首にヒビが入ったのかも。すぐに治療しましょう」
彼はゲルトルーデを抱えると、教会へ向かった。
「私の首に手を回してください」クラウスが真面目な口調で言った。
「は、はい、こうですか。で、でも、重いでしょう?」ゲルトルーデは異性と接触することに躊躇した。
「そんなこと言っている場合ですか!」
横を見ると、クラウスの真剣なまなざしと、唇がすぐ近くにある。こんなに近くで異性を見ることはない。ゲルトルーデは骨折よりも自分の体重を気にして赤面し、それを悟られまいと祈った。そして、自分の浅ましさを神に懺悔した。
彼は医学書で学んだ知識を総動員し、最善の治療を施そうと決意した。
「砂漠の国で医学の父と呼ばれたアル・ラーズィーは、石膏で固定する方法を100年前にすでに考えていたのです」
クラウスは慎重に石膏の粉末を水と混ぜ、適度な硬さのペーストを作り上げた。
「ゲルトルーデ、少し痛むかもしれませんが、耐えてください。さあ、タオルを噛んで」
彼は準備した細長い布を石膏ペーストに浸し、ゲルトルーデの骨折した足に丁寧に巻きつけていく。
「これで骨がずれることなく、正しく癒えるはずです。入浴時は濡らさないように。かゆくなったら、言ってください。はずして清潔にしましょう」
クラウスの手つきは慣れており、淀みがない。彼の額から汗が床に落ちる。
「すぐに固まるんですね、まるで魔法みたいです」
ゲルトルーデは不思議そうに石膏に包まれた足をそっと撫でた。
「聖職者の私が言うのは、はばかられますが、人間の身体は機械のように精巧にできています。奇跡や祈りで病は治りません、信仰と医学は別物なんです。でも、ここだけの話にしてください」
「え、ええ、もちろんですとも」
ゲルトルーデの頬が熱い。骨折による熱ではもちろんなかった。
数週間が過ぎ、ゲルトルーデの足は徐々に回復していった。クラウスは毎日彼女の世話をし、リハビリを手伝っていた。
「松葉杖を作りました。ゲルトルーデ、今日は買い物に行ってみませんか。筋肉は使わないと衰えてしまいますから」
クラウスが優しく声をかける。
「ええ、お願いします。……それと、ふたりだけの時は、トゥルーデと」
ゲルトルーデははにかみながら、クラウスの腕につかまり立ち上がった。
「……トゥルーデ」
遠くから、若い修道女たちが、寄り添うふたりの様子を見て、ささやき合った。
「ねえ、見て!クラウス修道士とゲルトルーデ様、すごく仲良さそう」
「本当ね。まるで恋人同士みたい」
ゲルトルーデはそれを聞いて、顔を赤らめながら彼女たちに向き直った。
「あなたたち、なにを馬鹿なことを言ってるんですか。彼とはなんでもないのですよ!」
しかし、声は上擦り、言葉とは裏腹に、ゲルトルーデの心臓は早鐘を打っていた。
訪れたのは海辺の小さな土産物屋。棚には貝殻や石で作られた簡素な装飾品、地元の織物、聖人の像、小魚の干物などが並んでいる。土産物屋というよりも食材も扱う近所の個人商店だ。クラウスとゲルトルーデが店に入ってくると、主人のトーマスが愛想良く迎える。痴呆症の母親を介護する独身の中年男性は肥満体で大男、ゲルトルーデの教会の信者だった。クラウスは外見で人を判断しないが、彼の印象は心地悪く、愛想笑いは不気味に感じた。
「いらっしゃいませ、修道士様、修道女長様。どうされたのですか、その足は!」
「雪落しで足を滑らせてしまいまして」
「先日の説教は修道女長様でなくて残念でした」
それからもいろいろと質問してくるトーマスを、クラウスは「彼女は疲れているから」と、制止させた。ゲルトルーデが松葉杖をつきながら、棚の品々を興味深そうに見ている。
「クラウス、見て。この貝殻のロザリオ、素敵じゃありませんか?」
クラウスは微笑んで頷く。
「綺麗ですね。記念にいかがですか?」
「では、二人分」
クラウスは提案した。
「またあの子たちに噂されますよ」トゥルーデはクラウスの反応を伺った。
「私は別にかまいません。トゥルーデは気にするのですか」
「いじわるですね、ふふっ」
彼女は、素っ気ない彼の反応がなぜか気に入らなかった。
二人が楽しそうに品物を選ぶ様子を、トーマスは複雑な表情で見つめていた。彼の目には嫉妬の色が浮かんでいる。彼は二つのロザリオを紙に包みながら、はらわたが煮えくり返っていた。
(なぜあんな若造がゲルトルーデ様を……)トーマスは心の中で呟く。
店を出て、海を見渡せる埠頭で、ロザリオを交換し合った。その瞬間の二人の指先の触れ合い、見つめ合った。そして自然とキスをした。冬の海風が冷たかったが、唇はいつまでも熱かった。
その様子をトーマスは店の窓から見ていた。二人の体が重なり合ったとき、彼は怒りよりも冷酷な感情に支配されていた。トーマスの目に暗い影が宿る。
ある夜の遅い就寝前、教会の懺悔室をノックする音が聞こえ、見回りのゲルトルーデは「こんな時間に誰?」と不審に思いながらも、返答した。
「どなたですか?」
「トーマスです……」
震える声が返ってきた。以前訪れた土産屋の主人だった。
「どうしても……話を聞いていただきたくて。どうにかなりそうなんです」
ゲルトルーデは不安を感じながらも、相手の苦しみを察して答えた。
「わかりました。どうぞお入りください」
暗い仕切りの向こうから、トーマスの重く荒い息遣いが聞こえる。
「罪深いことを……してしまったんです」
トーマスの声が震えている。
「母が……私を罵倒するんです。役立たずだと……不能だと……何度も、何度も、何度も」
彼の声が次第に大きくなる。ゲルトルーデはこれ以上刺激しないよう、冷静に対応しようとした。
「主はあなたの苦しみを知っておられます。心を開いて罪を告白し、赦しを求めるなら……」
突然、仕切りをガタガタと揺らされた。トーマスの声が荒々しくなる。
「違う!もう耐えられなかったんです。私は……母を、母を殺した!」
ゲルトルーデは立ち上がろうとしたが、松葉杖が滑って倒れてしまう。そして、床に仰向けに倒れた。そこへ仕切り版を乗り越えて、トーマスが彼女を見降ろした。その目は虚ろで何も感情を読み取れない。
「あのクソアマを殺してやったぞ!」
「トーマスさん、落ち着いて……」トゥルーデは腰が抜けてしまった。
「あなたなら、俺を受け入れてくれると信じてる」
ゲルトルーデの細い白い首に、血で濡れたトーマスの大きな手がかかろうとしていた。
教会法廷が開かれ、トーマスが裁かれる日、クラウスは関係者席から彼を睨んでいた。厳かな雰囲気の中、審問が進められる。
トーマスの所業が詳細に述べられる。母親と修道女長、二件の殺人。証拠が提示され、目撃者の証言も聞かれた。聖職者たちは彼が悪魔憑きの異端者だと断じた。クラウスは悪魔がやったのではなく、彼のゲルトルーデへの偏愛が原因だと言いたかったが、それを言ったところで教会の重鎮たちが納得するわけがない。むしろクラウスの信仰が疑われる。クラウスは言葉を飲み込み、内心では彼の最も厳しい処罰を願った。聖職者への殺人行為は当時、神への冒涜とみなされる最重罪だった。
審議の末、裁判官は威厳ある声で判決を言い渡した。
「汝は、神の恩寵に背き、悪魔の取り憑かれた者として裁かれる。汝の罪は重大である。汝は聖なる母なる教会に対する冒涜を犯した。教会はこれ以上の血を求めず、汝の魂の救済を願う。しかし、世俗の法の下で、汝の肉体は火炎に焼かれ、魂は神の裁きを受けるであろう」
被告人はニタニタと笑っていた。判決の言葉も理解していないようだった。彼が死の恐怖に泣き叫ばないことにクラウスは怒り、血が出るほど唇をかみ、殴りかかるのをやっとのこと耐えた。
「この異端者を世俗の権力に引き渡せ!」
嫌悪感を露わにした教会裁判官が命じると、市の刑吏たちが被告人を連行した。
翌日、市の広場に火刑台が設けられた。トーマスが縛り付けられている。見物人が大勢集まる中、市の判事が刑の執行を宣言した。その場に立ち会うようクラウスも招かれていた。
大司教がクラウスに耳打ちした。
「クラウス修道士、今回は特別だ。教会は直接血を流さないが、象徴的な意味で君の立ち会いを求める。ゲルトルーデ修道女長もそれを望んでいるだろう」
クラウスの胸に激しい感情が渦巻く。復讐心と、修道士としての慈悲の心が葛藤する。
トーマスの周りに薪が山と積まれている。市の執行人が火を灯そうとした時、クラウスは思わず前に出た。
「待て。一言、彼に言わせてほしい」
執行人は躊躇いながらも、クラウスを火刑台に近づかせた。
トーマスと目が合う。
「お前を許すことはできない」クラウスの声が震える。「なあ、おまえは悪魔に操られたのか?それなら、私が憎むべきは、お前ではない」
トーマスは答えない。クラウスは後ろに下がり、執行人に頷いた。火が灯され、次第に勢いを増す炎がトーマスの肉体を焼いていく。彼の苦痛の叫びも次第に火にかき消され、肉と骨が焼き落ちた。
群衆は沈黙を守っていた。執行が終わると、大司教は満足げに拍手を始め、集まった聖職者たちがそれに続いた。やがて群衆の間にも拍手が広がっていく。この『正義』の執行が教会の威厳を示し、信仰を強めると信じているのだ。
クラウスは焼ける肉の匂いを嗅ぎながら、空を睨みつけた。
「神よ、おまえを許さない!」
クラウスは三杯目のワインを飲みながら遠い目をして、過去の記憶から現在に戻った。
オットーが彼の表情の変化に気づき、尋ねた。
「何を思い出していたんだい?そんな赤い顔で説教ができるのかい。私の心配することじゃないがね」
クラウスは重い口を開いた。
「あの日のこと……トーマスを火刑に処した日だ」
オットーは興味深そうに眉を上げた。残酷な話のほうが、愛より面白い。
「そうか。で、どう思う?彼を火刑にしたのは正しい判断だと思うかい?」
クラウスは苦々しい表情で答えた。
「正しかったのかどうか……今でもわからない。ただ、あの時から私は神を憎んでいる。憎むことが私の信仰心だ。今では悪魔と手を組んでいる、私も火刑になるかもな、ははっ」
クラウスは深く息を吐いた。
「オットー、聞きたいことがある。トーマスには本当に悪魔が宿っていたと思うか?」
オットーはしばらく沈黙し、それから意味深な笑みを浮かべた。
「人間の精神は脆いものさ。性欲に嫉妬……人間がひととき、悪魔になるんだろうさ」
クラウスは息を呑んだ。
「では……」
「そうさ。トーマスを動かしていたのは悪魔じゃない。彼自身の深い闇だ」オットーは続けた。「人間は自分の中の影に向き合うのが怖いんだ。だから外部の存在、つまり我々悪魔のせいにする。便利な言い訳さ。なんでもかんでも悪魔のせいにされちゃたまったもんじゃない」
クラウスは言葉を失った。彼の中で何かが崩れていくのを感じた。
オットーは更に畳みかける。
「最も危険なのは悪魔ではなく、正義の名の下に刑を執行する人間たちだな。つまり君のお仲間たちさ。人間の正義というものは、悪魔から見ても相当醜悪だと思うぞ」
クラウスは長い沈黙の後、震える声で言った。自分に言い聞かせるように。
「だが、ゲルトルーデは苦しんで殺されたんだぞ」
オットーは肩をすくめた。
「死は彼女が初めてではない、生命が生まれてから続いてきた。今のどこかの戦地で大勢が死んでいる。だが、わかるよ、人間が個人の死に縛られるのはね。君自身で答えを見つけなければならないね。ほしいものがあれば、倫理観を捨てる勇気も必要だ」
クラウスはオットーの言葉を噛みしめながら、窓の外を見つめた。陰鬱な曇り空に教会の鐘が鳴り響いていた。教会に入ってくる信者の列が、死者の行進に見えた。
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