第22話 リッツェンシュタイン家の虚栄
ブルーローズの調査が暗礁に乗り上げ、今まで溜まっていた疲れが出たのか、ノーラはあまり騒ぐ気になれなかった。彼女が夕食の席から立ち上がるとアデル達は静まり、心配そうに無言で見送った。新しく加入したストロスは気にせず、眼鏡を曇らせながらスープを啜っている。彼女は自分の部屋のベランダで肘をついて、大きな満月をぼんやり見つめた。
ノックがしたようだが、無視した。いつの間にかへレーネが紅茶をお盆に乗せて、背後に立っていた。
「どうされました、お嬢様?どこか具合が」
「ううん、ちょっと疲れただけ、慣れない人間界に」
「魔力の供給はされているんですよね」
「ええ、アデルから。でも疲れてるのは気持ちのほうかも」
「……救えなかった少女のことでございますか?ストロス様に聞きました」
ノーラを紅茶をもらい、へレーネにも同席を求めた。
「あなたも座って、飲みなさいな」
「はい、かしこまりました」
しばし無言のふたりだったが、そにこは気まずさはなく、長年のタイミングがある。
「人間を見下したことはないわ。でも、ひとりの人間の死に動揺するなんて……ストロスが平気なのが当たり前なのに。私は弱くなったのかしら」
「そんなことはございません。上に立たれるお方であるノーラお嬢様が、ひとりひとりの民に同情の念を抱くのはすばらしいことです」
「そうゆうことではないの」
「は、申し訳ございません、浅はかな吸血鬼ごときに姫様の御心に理解が及ばず……」
ノーラはため息をつき、へレーネに微笑んだ。
「こんな月を見ていると、あの晩のことを思い出すわ」
「あの晩……で、ございますか?」
「そう、あなたが自分の目を抉り出して、真実を私に教えてくれた。そして、私が家を出ようと思った……」
ノーラの言葉に、へレーネの表情が一瞬こわばった。あの夜の記憶は、二人にとって決して消えることのない傷跡だった。
リッツェンシュタイン家、悪魔界きっての名門である彼らには、長年隠し続けてきた暗い秘密があった。
ノーラの父は家の本家筋の長男だったが、身分の低い女性悪魔と恋に落ちた。女遊びに奔放だった若い頃の父のことだから、周囲はすぐに飽きるだろうと思っていた。しかし、運命の恋とでも思い込んだのか、彼らは頑なに抵抗した。祖父たちは駆け落ちでもされてはたまったものではないと、恋愛を許可したものの、子を設けることは認めなかった。家の血統を守るため、別の高貴な女性との間にノーラは生まれた。
しかし、ノーラの生物学的母は出産後、不可解な状況で命を落としたようだ。真相は闇に包まれたままだが、今では家の陰謀が絡んでいることは明らかだとノーラは思い込んでいる。父の恋人は、表向きノーラの乳母という立場で家に残り、実の娘のように愛情を注いで育てた。ノーラとまったく顔が似ていないのも納得がいく。
この真実は、へレーネの自己犠牲的な行為によってノーラに明かされた。へレーネは長年リッツェンシュタイン家に仕えてきたメイド、その盛衰を目の当たりにしている。ゆえに、父と母のことも。祖父はノーラに真実を漏らされることを恐れ、へレーネの目に暗示をかけた。見たことを忘れる術。
しかし、子供時代からノーラの面倒を一番見てきたへレーネは、その愛情ゆえにからか、自分にかけられた暗示に気づいた。目に刻まれた魔法的な暗示を解くため、彼女は自らの眼球を抉り出し、その目を自分に向け、暗示を解いた。そして「ノーラお嬢様、これまで黙っていたことがございます」と両目に空いた穴を見せて、跪いて詫びた。鏡にむかって眼球を向けると、若かりし日の父と今の母、そして本当の母が映写され、その中には、傲慢に父を叱責する祖父もいた。
その衝撃的な真実を知ったノーラは、家を出る決意を固めた。意気地なしの父への反抗、従順で自分の意見を言わない今のかわいそうな母への同情と嫌悪、本当の母をただの駒として葬った祖父とこの家名への憎悪。
へレーネはその後、眼球を戻し、吸血鬼の再生能力によって再び視力を戻した。しかし、暗示を解いたのは祖父にも明かしてはいない。エレオノーラへの忠義だった。
一気にいろいろな感情がノーラを襲い、彼女はそれから数日熱を出して寝込んだ。そして熱が下がったとき、彼女は自分のアイデンティティを探し、家の闇に立ち向かうため、人間界への旅立ちを決意したのだった。
「あの晩から、私の人生は大きく変わったわ」
ノーラは静かに言った。
へレーネは黙って頷いた。
「私ね、実は教師になりたかったの」
「アマリエ様と同じ……」
「お母様はあんなに優しくて、生徒にからかわれたんじゃないかしら」
「お嬢様が先生になったら、厳しくて怖がられるでしょうね」
ノーラは眉を寄せて、へレーネを睨んだ。
「もちろん冗談でございます」
そして、ふたりはふふふと、笑いあった。
「でも、今はアデルに、ヒルデ、エマ、クララ。ルナとステラは問題児。なんだか教師の真似事みたいね」
「はい、これははじまりでございます。人間界で魔女組織を作ってはいかがですか。そう考えていたんです」
「権力はいらないわ。お祖父様のようにはなりたくないの」
「抗うためには、力も時に必要でございます。正しい力の使い方を学びましょう」
「そうね、少し元気が出たわ。ありがとう、へレーネ。あなたがいてくれてよかった」
「そういえば、近く、王女の即位式があるとか。人間の姫様を見学されるのも後学のためかと。それにブルーローズの黒幕も現れるやもしれません」
ノーラは現実問題はなにも解決していないが、へレーネと話せたことで、心が落ち着いた。その夜は、学校で先生になって、クラスの教壇でアデルやヒルデを受け持つ愉快な夢を見た。
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