第17話 屋根の上で
夕食前のひととき、アデルとノーラは、ヒルデの家の屋根裏部屋から、屋根に出た。
昼と夜のわずかな時間、まだ家々のシルエットが確認できる。すぐにそれも闇に融け、微かな蝋燭の光だけが点滅するだろう。
その光のひとつひとつに、それぞれの人生があるという当たり前のことに、なぜかアデルは感動していた。そうして、ふたりはしばし無言で、急速に暮れ行く冬のフラーベントの街並みを見つめていた。
冷たい風が二人の頬をなでる。アデルは思わず身を寄せ、ノーラもそっと腕を回す。昼間は魔法の練習をする森から、フクロウの鳴き声が聞こえてくる。星々が一つずつその姿を現し始め、夜空はまるで黒いビロードに宝石をちりばめたかのよう。
「きれい……」
アデルが囁く。
「実はね、あの星はあそこにはないのよ」
「どうゆうこと?」
「星の光がこの町に届くまでには、何十年、時には何千年もかかるの。だから、今見えている星の姿は、ずっと昔のもの」
「知らなかった……知らない事ばかり。もう存在しないのに見えるなんてほんと不思議……でも、あの三角形の中にいるひと際眩しい星は、まるでいつもそこに輝いているみたい」
「私たちの目には変わらないように見えても、いつかは彼らも姿を消してしまうのよ。私たちの一生がどれほど短いかを感じさせられるわね」
アデルは星を見上げながら、静かに呟いた。
「お母さんがいなくなってから、お母さんのことをよく考えるの。それって、星のことと似ているかも……」
「星までの距離もあなたの得意な数学で導けるわ。お母さんのことも、きっと……」
ノーラは頷き、深呼吸をする。煙突から立ち上る薪の香りが、冬の夜気に混ざっている。町の片隅で、早くも酔っ払いの歌声が風に乗って聞こえてくる。教会の鐘楼からは、夜の訪れを告げる鐘の音が響き渡る。
「ねえ、アデル」
ノーラが唐突に言う。
「この町で、私たちの夢は叶うと思う?」
「ノーラの夢?そういえば、まだ聞いてない」
「自由……」
「今は自由じゃない?」
アデルは無邪気に首をかしげた。
「そうじゃないの……」
ノーラはじれったそうに呟いたが、なぜ否定するのか今のアデルにはわからなかった。
「わたしが協力するよ!まだ弱いけどね、へへっ」
アデルがノーラの手の平に手を重ねる。すっかり冷え切ってしまっている。
「ノーラ、私はね、数学で世界を変えたいの。数字は……嘘をつかないから!」
その時、階下からヒルデの声がした。
「姉さんたち、晩飯ができたぜ」
アデルは、さっと我に返り、手を離した。顔が少し熱いが、暗闇が隠してくれた。
「さあ、行きましょ」
ノーラが立ち上がる。
「うん!」
アデルは名残惜しそうに、夜空の星を振り返った。そこで、彼女の目に飛び込んできたのは、ひときわ明るく輝く青白い星だった。のちに人々がシリウスと呼ぶことになるその星は、冬の夜空を堂々と支配しているかのようだった。
「ねえ、ノーラ。あの頂点の明るい星、見える?」
アデルは空を指さした。
「ええ、すごく綺麗ね」
ノーラも感嘆の声を上げた。
アデルは続けた。
「あの星の周りに、まるで犬が駆け回っているような形の星々があるの。私にはそう見えるわ。今はまだ名前がないけれど、きっといつか誰かがその形に気づいて、名付ける日が来ると思うの。」
「あなたの目で見つけたのなら、あなたが名付けるべきだわ」
ノーラが微笑みながら、アデルにウィンクをした。
夕食の席、エマが熱々のシチューを皆に配っている。今日はヒルデが魔法弾で初めて撃ち落としたキジ肉が入っている。記念のごちそうだ。射撃の正確性はアデルよりもすでに上だった。
「どうだ、キジなんて、王様だってめったに食べられないんだぜ」
ヒルデが薄い胸をせいいっぱい張って自慢した。
「すごーい、おねえちゃん。こんなおいしいお肉初めて食べたよ!」
クララは夢中になって食べた。彼女にはもっと良質なたんぱく質が必要だった。
ノーラは上品にスプーンで口に運びながら、そっと微笑んだ。生徒が成長するのは嬉しいものだった。
「私は一羽も当てられなかった……」
アデルがしょんぼりして、手を止める。
「そんなことないさ。あたしなんか、アデル姉さんの計算?なんてさっぱりだよ。呪文を唱える姿は、いつもの雰囲気と違ってキリっとしてかっこいいもん!」
アデルは苦笑いをして、素直に喜べないでいる。
「アデル、魔法にはそれぞれ得意不得意があっていいのよ。大事なのは、必要な時にどう使って危機を乗り越えるか。それに私たちはチームなんだから、協力して強くなれるわ」
ノーラはナプキンで口元を拭うと、みんなに向き直った。
「実は気になることがあって、あのあとストロスに調べものをしてもらったの」
そう言って、小さな白い錠剤を見せた。
「悪魔のお医者さん?物知りそうだったな」
ヒルデが思い出す。
「そうよ、彼女の知識はすごいの。この成分は人間界のものではなかったわ。でも、ここにこうしてあるのが問題なの。だれかが運んでるってこと。すでにこれで死んでしまった者もいるの」
真剣な顔になるノーラに、アデルが尋ねる。
「ノーラ以外にもこの町に来ている悪魔がいるってことだよね。それも悪いやつ」
「悪魔全員が悪い者ではないと言いたいところだけど、残念ながら否定できないわ」
「じゃあ、姉貴、おれたちで懲らしめようぜ」
ヒルデが立ち上がって提案するが、
「そう簡単ではないわ。でもそれには賛成。だから慎重に調べましょう。まずはどんな相手か」
その時、突然食堂のガラスが割れ、何かが投げ込まれた。すぐに煙幕が発生し、室内の視界を遮った。
咳き込むクララにエマが覆い被さり、守る。ヒルデが周囲を警戒する。
「みんな、背を低くして、頭を守って!」
そろそろかと、ノーラは思った。(追手ね、父からの!)
彼女は割れたガラス戸から、庭へ飛び出した。煙幕を抜けると、背後からの攻撃、鋭い氷の槍が貫かんと。ノーラは上半身を反らして、それを回避した。今度は頭上から、炎の放射が襲う。咄嗟に、手のひらで防御壁を展開し、炎を無力化した。
「誰なの、出てきなさい!目的は私でしょ。仲間には手を出さないで」
目の前に、二人の瓜二つの少女がツインテールを揺らして現れた。
「あら、ずいぶん殊勝なことですこと」緑髪のルナ。
「わかっているじゃない。お帰りなさいませ、お姫様」赤髪のステラ。
アデルとヒルデがノーラの横を固める。
「隠れていなさいって言ったじゃない」
「家を壊されちゃたまらないからな」
ヒルデが好戦的に剣を構える。
「で、出て行ってください!悪者の悪魔さん?」
杖を向けて、とんちんかんな挨拶をするアデル。
「あらあら、ノーラお姫様は、戦う気がないみたいよ。このお嬢さんは、悪魔界の偉い貴族様なの。あなたたちと遊んでいるような立場にはないのよ。下がっていなさいな」
ルナが氷の槍を空中に浮かべて、不敵に笑う。
「ふたりとも言うこと聞いて。これは私の問題なの」
「でも……」アデルが躊躇する。
「お願い」
ノーラは引かない。へレーネはいつでも行けるというように気を研ぎ澄ました。
「どう相談は終わったあ?」
ステラが暇を持て余すように足を組む。
「私が相手をするわ」
ノーラの目が赤く光り、山羊の角が出現する。角の両極端に稲妻が走る。獣の鋭い鉤爪が伸び、電撃をまとう。
「殺すつもりはないのに、でもそっちがその気なら、仕方ないわねっ!」
ふたりはそう答えると、一気に距離を詰めてきた。ルナとステラは息の合った連携で攻撃を仕掛ける。氷の槍と炎の球が交互にノーラに襲いかかる。ノーラは回避しながら、電撃をまとった拳でそれらを撃破するが、近接戦闘が得意なノーラにとって、遠距離攻撃のふたりになかなか一撃を入れられない。コンビネーション攻撃に徐々に押されていく。汗が額に浮かぶ。
「まずいわね……時間がたつほど、不利だわ」
その時、ガラスの割れた居間からエマの声がした。
「ノーラお姉ちゃん、噴水!」
ノーラは背後にある噴水を見た。すでに干上がって、かつての貴族ぶりの面影はない無用の長物。しかし、ノーラにはわかった。その周囲に張られた結界の印に。
ノーラは噴水の前に追い込まれたように見せかけ、高くジャンプした。ノーラは空中で翼を大きく広げ、急上昇。その瞬間、ルナの氷の槍がノーラの髪をかすめ切った。その下に二人が入った時、エマが遠隔で結界を解除した。
三点から、青く輝く糸が伸び、中心にいるルナとステラをがんじがらめにした。攻撃に夢中で結界には気づけなかったのだ。空中で蜘蛛の糸に捕まった蝶のようだ。
ノーラは地面に嫡子すると、荒い息をついで膝をついた。
「くそ、ほどけ!」
余裕をなくした二人は言葉遣いが荒くなる。そこへエマが歩いてくる。エマはルナとステラを見上げると、微笑んで質問した。
「もう悪さはしませんか?」
「……」黙るふたり。
「もう悪さはしませんか?」
もう一度優しい笑みで問いただすエマ。実は怒らせると一番怖いのは、エマだとノーラは気づいた。
「いつの間に用意していたの、エマ?」
「わたしって、ネズミ退治が担当だったんです。だから、それに使えないかなって勉強してたんです。これは泥棒用の応用。おふたりさん、ネズミを捕まえるよりも簡単でした♡」
エマは首を傾げ、にこっと笑った。
「あたしらは、ネズミ以下かあっ」
「すげーじゃねえか、エマ!」
ヒルデたちが走ってきて、エマを取り囲んで喜んだ。こうして、またひとつ新たな才能が花開いた。
「いいから、下ろせ!」
エマがちょきんと指でハサミのまねをすると、ふたりはどすんと地面に落ちて、尻もちをついた。ルナとステラは互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。まさか子供たちにここまでやられるとは思っていなかった。
「で、お父様にいくらで雇われたの?」
ノーラが捕縛されたふたりを見下ろし、尋ねた。
「それは守秘義務だから言えないわ」
「そっ、でも割ったガラス代はもらうわよ」
ノーラはルナのポケットを探って、金貨を頂戴した。
「お父様に言っておいて、私にはまだやることがあるから、帰らないと」
そう言って、ステラの持っていた契約書に血のサインをすると、自分を攻撃しないことを追加事項として書き足した。血のサインには魔力が宿り、契約を破ると厳しい罰が下るのだ。これには強制力があるため、ふたりはノーラに攻撃できない。
「せっかく人間界にきたんだから、あなたたちもいろいろ見ていきなさいな。退屈で慣習ばかりの悪魔界より、よっぽど刺激的よ。お父様には適当に見失ったとでも言っておけばいいわ」
ノーラは厳しい表情を崩し、今しがた戦った相手に少し微笑んだ。
「気を付けて帰るのよ」
ふたりは降参して、町へ降りていった。襲撃を乗り越え、チームワークを強めたノーラたち。アデルとヒルデは安堵の表情を浮かべ、エマは誇らしげに微笑んだ。クララは次は自分の番だと、密かに心に思うのであった。割れたガラス戸から入る冷たい北風に、みんなは寄り添うように毛布で身を包んだ。今夜の出来事が、彼らの絆をより一層強めたことを、誰もが感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます