第18話 ルナとステラの災難
ルナとステラは、ヒルデの家を後にして、坂道を下りてきた。すっかり日の暮れたフラーベントの中央通り。狭い石畳の通りに、オレンジ色の灯りが揺らめいていた。
「まったく、あんな子供たちに負けるなんてね、焼きが回ったかな」
ルナが肩を落とし、ため息をつく。
「切り替えて、人間界を楽しみましょ」
ステラが空元気に答える。
通りには、仕事を終えた職人たちや、夜の街に繰り出す若者たちで賑わっていた。 鍛冶屋の金槌の音が遠くで響き、料理屋から湯気が立ち昇る。
「お酒のみたーい!」
ルナは限界のようだ。
「ここ、いいんじゃない?」
ステラが、看板に葡萄の絵が描かれた居酒屋を指さした。二人は中に入った。薄暗い店内には、すでに酔った男たちの笑い声が響いている。カウンターに座ると、太った店主が近づいてきた。
「お嬢さん方、何にしましょう?」
「赤ワインを」ルナが答える。「一番強いやつ」
二人の前には深紅のワインが注がれた。
「乾杯」ステラが木のコップを上げる。「失敗した任務に……」
ルナも苦笑いしながらグラスを合わせた。
「悪魔界のお酒にはかなわないけど、まあまあね」
時が過ぎ、店を出た二人は、少しふらつきながら夜の街を歩いていた。
「宿を探さなきゃ」ステラが言う。
「そうだな」ルナが答える。「でも、こんな遅くに……」
その時、近くの路地裏から女性の悲鳴が聞こえた。
「やめて!」
二人は顔を見合わせ、即座に声のする方向へ走り出した。
夜の裏路地。野良猫がネズミを追いかけて回り、ゴキブリが飲食店のゴミ箱から大量に這い出している。その奥の行き止まりに、男の背中が見えた。若い女性に覆い被さり、胸元を引き裂き、腰を擦り付けている。
「おい、おっさん!なにやってんだ、てめえ」
ルナが凄みながら、男性の肩に手をかけた。振り向いた男は、腹の出た低身長の小太り。髪と身なりだけは貴族然としていた。すでに股間のボタンをはずしている。
「うっわ、キモイんですけど。娼館に行っても相手されないからって、襲っちゃだめだよ、おじさん」
ステラはケラケラと笑った。
ルナは「早く行け」と女性を逃がした。女性は胸元を抑えながら、一目散に逃げて行った。
「あー、せっかくの獲物が……残念です。では、代わりにお二人がお相手してくださるのですか」
「なめてんじゃねえぞ、相手してやるけど、拳でな。って、ちょっと待て。お前、人間じゃあねえな。悪魔の匂いがする」
「悪魔なんて実在するはずないじゃないですか。酔っていますね」
ステラはハッとし、懐から黄ばんだ紙を出すとそこに描かれた似顔絵と男を見比べた。
「ルナ、こいつ、指名手配されてるオットーってやつだよ、ほら。どこかで見た気がしたんだ」
「ノーラの報酬の代わりに、おまえにかけられた賞金をもらうぜ」
オットーは一瞬、顔色を変えたが、すぐに取り繕った。
「なんのことだか。お嬢さん方、人違いですよ。私は……」
ルナは氷の矢を浮かべると、オットーらしき男に向けて発射した。しかし、その後の行動を予測できなかった。オットーは体格からは想像できない素早さで攻撃を避けると、コートの内ポケットに仕込んだ注射器をルナとステラに投げた。太ももに深く刺さったそれはすぐに効果を発揮した。完全な油断である。
「お二人いっぺんにベッドで楽しめると思ったのに残念です」
全身の痺れに倒れるルナとステラ。
「く、なにをした」
「私は臆病なんでね。対悪魔用の自家製麻酔薬です。まる一日は動けません。ではこれで失礼」
オットーの遠ざかる足跡を聞いて、「待て!」と叫ぼうとしたが、すぐに口も痺れて声も出せなくなった。
そして静かに瞼を閉じて、ふたりは昏倒した。
朝もやの立ち込める馬小屋。クララは大きな栗毛のたくましい馬に寄り添い、優しく話しかけていた。クララが飼育を担当するヴォルフェンシュタイン家最後の馬である。
「おはよう、ブレイブ。今日は大切な日なのよ」
クララは大きな木製のバケツから、たっぷりの燕麦をブレイブの前に置いた。
「ノーラお姉ちゃんたちを町まで連れて行ってほしいの。だから、たくさん食べてね」
ブレイブは首を下げ、クララの髪をそっと鼻先でくすぐった。クララは笑いながら、馬の首筋を撫でる。
「ふふっ、くすぐったいよ。ねえ、みんなのこと、よろしくね。大切な人たちなんだ」
クララは小さな木製のブラシを取り出し、ブレイブの毛並みを丁寧に整え始めた。
「あなたは力持ちだから、きっと大丈夫。でも、疲れたら休んでいいからね」
ブレイブは小さくいなないて応えた。その時、ノーラたちの声が聞こえてきた。
「準備はできてる?」
ノーラが馬小屋に顔を覗かせる。クララは明るく笑顔で振り返った。
「はい!ブレイブも準備万端です!」
「いい馬ね、あなたクララが大好きなのね」
ノーラがそっとブレイブに話しかける。異形のものと動物の直観で判断したのか、ブレイブは後ずさりしたが、ノーラとしばし目を見つめ合い、主従を理解し、落ち着いた。
「わたしもレイブンが恋しいわ。連れてこられればよかたのだけれど」
用意された馬車は主に商人の使う前部座席に二人、後ろに荷台をつけた屋根なしのタイプだ。幌つきの貴族ご用達のものは不要のため、売ってしまった。
「ごめんなさい、こんな古い馬車しかなくて、車輪もがたついて、お尻が痛いかも」
クララは申し訳なさそうに、上目遣いで詫びた。
「いいのよ、気にしないで。旅行にいくわけじゃないのだから」
へレーネが手綱を握り、助手席にノーラ、荷台にアデル。今回はヒルデは留守番だ。アデルが家庭教師をしていたミランダの死後、彼女の周囲の令嬢にも中毒症状がでているという噂をもとに聞き込み調査をすべく、ヒルデたちとは違う区画の貴族領へ向かった。
一本の長い坂道で遠くから登ってくる人影が見えた。
「女の人かな?めずらしい格好。荷車を引いてるなんて、行商人かな?」
アデルは視力の悪い目を細めて遠くを見た。
ノーラは目を疑った。学生時代のライバル、ベルティーユがここにいるとは思えなかったのだ。細身の体つきに、くたびれたトレンチコートを羽織っている。コートの裾は、歩くたびに軽く揺れ、その下からは、擦り切れた革靴が覗く。頭には、深く被ったフェドラハットがあり、その影で顔の半分が隠れている。口元は坂を上るのに歯を食いしばっているのに、咥え煙草は離さない。
次第に近づくにつれて、疑いは確信へと変わる。男装と言っても過言ではない服装と、長髪をシンプルに束ねた後ろ髪。学生時代は女性徒から幾人にも告白されていた。しかし、「わたしにはエレオノーラがいる」と断っていたらしい。学業はノーラが一番、必ず二番が彼女だった。そうして、勝手に学内で公認のカップルにされてしまったエピソードがある。
汗だくでリアカーを押すベルティーユの後ろには、動けないルナとステラがぐったり横たわっている。
「ベル!こんなところで何をしているの」
近づくにつれ、ベルティーユの表情が変わった。疲労の色がすっかり消え、代わりに華やかな笑顔が浮かぶ。
「おお、愛しのエレオノーラ!」
ベルティーユは突然、荷車のハンドルを離し、優雅な動作で片膝をつく。その仕草は、まるで舞台上の華麗な男役のよう。
「こんな場所でお会いできるとは、魔王様の采配、いえやはり運命の導きでしょうか」
ベルティーユは右手を胸に当て、左手を大きく広げる。その大げさな身振りに、アデルは目を丸くする。え、男の人?それとも女性?
ノーラはため息をつきながらも、眉間を揉んだ。
「相変わらずね、ベルティーユ。あなたもお父様の使いに出されたようね」
「お久しぶりです、エレオノーラ。あなたのために私はここにいます!」
ベルティーユは立ち上がり、トレンチコートの裾をひるがえして華麗なターンを決める。その動きに合わせ、煙草の煙が美しい曲線を描く。
「って、ちょっと!荷車から離れないで!」
アデルが慌てて叫ぶ。荷車が坂道をゆっくり後退してゆく。次第にスピードを上げ、石に車輪を取られた。大きくジャンプし、地面に叩きつけられ、バラバラの板切れと化す。
弾き飛ばされたルナとステラが原っぱに叩きつけられた。
「……ベルティーユ、てんめえ」
やっと口をきけるようになったルナが毒づいた。
「もう帰りたいかも……」
ステラはガクリと項垂れた。
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