第3話 エレオノーラの祖母ローゼ

 ある夜、家が寝静まったのを見計らい、ノーラは静かに部屋を抜け出し、階段を忍び足で降りた。城の裏口、厨房の料理人が使用するドアを開くと、そこにはすでにヘレーネが待機していた。

「お嬢様、馬の用意ができました。」

 ヘレーネの隣には、黒光りする毛並みの巨馬が一頭。額から生えたねじれた一角が、この馬が普通の馬ではないことを物語っていた。

「ありがとう、ヘレーネ。誰にも気づかれずに来られたわね」

 ノーラは馬の横腹をさする。

「よろしく頼むわよ、レイヴン」

 レイヴンは騒いではいけないことを知っているかのように、体を震わせて彼女に応えた。

 華麗に馬上に飛び乗り、手綱を握る。

「ノーラお嬢様、お気をつけて。」

 ヘレーネの言葉に、ノーラは小さく頷いた。

「行くわよ」

 馬の横腹を軽く蹴り、前進を促した。二人はすぐに夜の森へと消えていった。

 夜の森は魔獣のの独壇場だが、魔力の高いノーラに手出しするものはいない。魔獣の本能が相手の強さを見極めている。

 森を抜け、紫色に濁ったスライムの湖が見えてきた。ぬめりと無形の生き物が絶えず形を変えて、昆虫や動物を捕食している。ノーラは馬を止めた。湖のほとりには、小さな丸太小屋が佇んでいる。

「おばあちゃん……」

 レイヴンを小屋の近くの木に縛り付ける。ノーラは一瞬躊躇しつつも、小屋の扉を静かにノックした。

「お入り、開いてるわよ。ノーラ、よく来てくれたね」

 ヴィルヘルムの母、ローゼ・フォン・リッツェンシュタインは初老のおだやかな小さな女性だ。悪魔の寿命は人間よりも長いが、不死ではない。肘掛椅子に深く座り、編み物をしている。彼女は魔力を衰えをそのままに、静かに衰えることを受け入れていた。小屋の中は、暖炉の火がパチパチと音を立てていて、温かい。

「あんたが来るまでに仕上げおこうと思ってね」

「それ、わたしのマフラー?」

「ここらも冬が近いからね。それに人間界に行くなら、こうゆうファッションも必要だろ」

「どうしてそれを!」

 ノーラは、へレーネが計画を漏らしたのかとドキッとした。すでに父に筒抜けなのではないかと焦った。

「その様子だと考えているんだね」

「もう、驚かさないでよ!」

「手紙の様子から察するに、年長者の勘じゃよ。ヴィルヘルムは相変わらずのようだな。すまんな、息子が分からず屋で」

 祖母は、紫色の毛糸を器用に編みながら、ノーラを見つめる。

 ノーラは無言で首を振りながら、微笑んだ。

「わかってるの、私のわがままだということも。でも曲げられないこともあるんじゃない?ねえ、おばあちゃんはどうだったの」

「あたしかい、おじいさんとは見合いの時から気が合ったのよ。大変な時代だったわ……。ヴィルヘルムが九九を習い始めたころ、若かったおじいさんは天使大戦に出向いてね、戦場で惨状を目の当たりにしたの。仲間が次々と倒れていくのを見て、生き残るためには何よりも力が必要だと考えるようになってしまったのね、無理もないわ……」

 ローゼは遠い目で暖炉脇の肖像画を見つめた。そこには灰色の魔女のとんがり帽子を被った美しい少女と、その肩に手をのせた銀髪の悪魔、ローゼの今より少し若い頃の姿が油絵で描かれていた。

「戦争が彼を変えてしまったのよ。それまでは優しかったのに、生き残ったことで逆に、権力、財力こそ命を守るものだと思い込むようになってね……。なにより思いやりがなくなって、人を駒扱いするようになった。ヴィルヘルムが臆病で無口になったのも彼のせい。かわいそうだけど、私はもう耐えられなくなって。息子が成人を迎えたのを機に、旅に出たの……」

 それから、ブリギッテ・ミュラーリンという少女とその仲間たちの想い出をとつとつと語った。ローゼがブリギッテに出会った頃の記憶が、彼女の中に鮮やかに蘇る。

「今より人間界に行く悪魔は珍しくて、渡航も危険だったわ」ローゼはお茶で口を湿らせ、続きを話した。「ブリギッテという少女に出会ったのはその頃。私はもう若くなかったけど、彼女はまだ二十歳。でもなぜか気に合ったのよね。『姉貴』なんて呼ばれてね。あの娘は賢くて……私を必要としてくれたの。彼女とその仲間たちと過ごした時間は、愉快だったわ……。でも終わりは来るものね、私はここに戻り、ヴィルヘルムは家庭を持ち、あなたが生まれて……」

 ローゼは、お茶を置いた。「ごめんなさい、脈絡がない話で。あ、そうだ!」足元に置いてあった大きな水晶玉を机に乗せた。

「先日から見えるようになったのよ。私の人間界へのパスが残っているのね。ごらん、ブリギッテに似ている少女が映っているだろう。どうやらあたしの悪いところを真似して、ブルギッテも家を出たらしいの。因果応報ね」

 ノーラは目を輝かせ、水晶玉を覗き込んだ。そこには、教会の床を黙々と磨く少女の姿があった。その瞳には、確かにブリギッテの面影が感じられる。音は聞こえなかったが状況はわかった。そこへ彼女の父親らしき人物が横柄に入ってきて、彼女に無理な命令しているようだ。彼女は首を振り、頑なな態度をとる。

 ブリギッテの娘のくじけながらも、抵抗しようとする眼差しに、自分と共通するものをノーラは見た。

 ローゼは、興味を強く持った孫娘を見つめ、「魔法が存在しないと思われている世界で魔法を使うには、悪魔界と同じにはいかない。信じている者が魔力を提供しないと駄目。どうだい、人間界に行くなら、この娘のところにしてみるのは。ブリギッテの娘なら才能もきっとあるだろうね。契約することでこの子にも魔法を使う力が、あなたから流れるわ」

 ノーラは悪魔界からの逃亡計画がこうして現実味を帯びてくるのが、怖くもあり、わくわくもしていた。まるで外堀を埋めるように、実行は必然になってくる。

 ノーラはローゼのひざに頭を乗せて、つぶやいた。

「……おばあちゃん、未来って決まっているもの?」

「そうさね、ラプラスの悪魔でもいないかぎり、真っ白さ。ノーラの好きなように進みなさい」

 帰り道は、来るときよりも心は軽かった。レイヴンを納屋に入れ、そっと階段を上がり、ベッドに体を滑り込ませた。

「あの娘、名前はなんていうのかしら……私を怖がるかな?」

 ノーラはすでに人間界への旅が成功したかのように、着いてからのことを夢想するのだった。久しぶりに心が少し高揚して、寝付くまで時間がかかった。

 



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