第4話 アデルの母の墓参り

「いらっしゃい」来店のベルがチリンと鳴る。

 アデルが古本屋の扉を開けると、店主のエーファが優しく迎えた。アデルは度々本を探しに、よくこの店を訪れる。どこに何の本があるのか、記憶しているほどに。エーファとは懇意の仲だ。

 狭く薄暗い店内は、昼間でも薄暗く、入り口から射す外光で埃が舞っている。まるで時間が止まったかのような空間だ。アデルは、ふと「時間ってなんなのかしら」と疑問が頭がよぎった。

「エーファさん、新しい数学の本は入りましたか?」

「ああ、ちょうど写本を終えたところだ。ほら、この本はどうだい?」

 二十ページ足らずの冊子だが、当時はまだ印刷技術が一部のものだった。エーファは本屋であると同時に写本師でもあった。彼の片目は見えない。はじめに店に入った時は、黒い眼帯が怖かった。それでも付き合っていくうちに人懐っこい笑みは彼の優しさを示していた。そして、武骨な体格でありながら、知的で博識だった。

 アデルはパラパラとめくって内容を確かめた。星の軌道に関する天文学の本。

「すごい!どうしてこんなに私の好みを知っているんですか?」

 エーファは優しく微笑む。突然、彼女はうつむいて暗い表情になった。

「どうしたんだい?」

「……私は悪い子なんです。聖書の文句も覚えずに、数学の本ばかり読んでいる。エーファさんが一生懸命写本してくれたのに、お父さんに取られて燃やされました」

 アデルの頬を自然と涙が流れ落ちる。アデルの父は彼もよく知っている。ここら一帯に力のある厳格な男だ。もっと若いころのエーファなら、自分の娘を泣かすなんてと、血気盛んに彼に拳を上げていただろう。

 エーファは少し困ったように眉を寄せた。

「つらかったね……知識を探求するのは罪ではないよ。でも、君の父上は偉い立場にいる。君の将来を考えて……」

「エーファさんまで、お父さんのようなことを言うの!!」

 アデルの突然の反論に、エーファは何も言えない。

「……ごめんなさい、大きな声をだして。わかってはいるんです」アデルは袖で乱暴に涙を拭いた。「これから、母のお墓参りにいきます。本はまた今度にします、それじゃ」

「待って!」と言う間に、アデルは店を小走りに出て行ってしまった。

 エーファは考え込んだ末、店の看板を「閉店」にすると、足早に彼女を追いかけた。


 アデルは、母の墓前に佇んでいた。枯れた木々が細い枝の影を墓石に落としている。シンプルな墓石に、「ブリギッテ・ミュラーリン」の名が刻まれている。結婚前の苗字だ。

「母さん、お父様と喧嘩しちゃったんだ。母さんはお父様のどこが好きになったの?きっと、わたしのとこが嫌いなんだわ」

 来る途中に生えていた冬の小さな花を摘んで、墓に添えた。

 アデルは幼い頃から、母の不在に疑問を感じていた。父は「馬車の事故で死んだ」としか言わず、詳しい説明はしてくれない。

 ふと、背後に人の気配を感じた。アデルが振り返ると、エーファが息を切らして立っていた。どうやら走ってきたらしい。

「やあ、俺も花を上げていいかな」

「え?はい、いいですけど、母と会ったことあるんですか」

「そのことを話したくて、追いかけてきたんだ」

 エーファは墓石にひざま着き、買ってきた花を置いて、深く祈った。

「そこに座ろう」

 風にさらされ、今にも折れそうなベンチを指さした。二人は昼下がりの墓地で風に吹かれて座った。烏が墓石に止まり、遠吠えをしている。

「俺とブリギッテは、アデルちゃんが生まれる前、一緒に仕事をしていた時期があったんだ」

「薬草売りでしょ?お父さんはそう言ってた」

「違う、人の命令を受けて、おつかいをする……」

「傭兵みないな?」

「アデルちゃんは物知りだね」

「ひとに言えないようなことを……」

「……そうゆうこともあったかもしれない。否定はしない」 エーファは腰の革袋から陶器の小瓶酒を取り出し、コルクを抜くと、グイッと一口あおった。

「金のため汚れ仕事もしたけど、俺達には俺たちのルールがあったよ。だから、母さんがひとでなしだとは思わないで」エーフェは眼帯を捲って見せた。その下には深い傷跡が目を縦に走っていた。「俺の片目はその頃の名残りさ。ブリギッテも君の父さんもあの頃は貧しかった、君を生んだあともヴァルターさんには内緒で仕事を続けた。でも、最後の仕事の時、君の父さんに目撃されて、自分が母親にふさわしくないと思ったのか、ある日突然失踪してしまった。本当の理由は僕にも、親父さんにもわからないと思う」

 アデルは立ち上がり、お墓を指さした。

「じゃあ、ここに埋まっているのは誰?」

「誰も埋まっていないんだ。ヴァルターさんが君に告げるものだと思っていた。もう十分大人だしな。でも言わないということは、ずっとだまっているつもりだったのだろう。俺は君をずっと見守ってきた身として、忍びなくてな、伝えようと決めたんだ」

 アデルは、エーファの告白に言葉を失った。母が生きているかもしれない。でも、父は嘘をついていた。エーファまでもが真実を隠していた。頭の中が真っ白になり、世界がぐらぐらと揺れる。

「うそつき!」

 感情が爆発した。アデルはエーファが肩に置いた手を振り払うと、墓地を走り出した。足を地面に叩きつけるたび、悲しみと怒りが込み上げてくる。

「どうして、どうしてみんな私に嘘をつくの?」

 涙で前が見えなくなる。木の枝にひっかかり、転倒した。しかし、痛みも感じず、構わず走り続ける。風が髪を乱し、頬を叩く。

「お母さん、どこにいるの?なんで私を置いていったの?」

 アデルの心はあらゆる問いかけでいっぱいだった。すべてが混じり合い、彼女の中で渦巻いている。

「私は……私は一体どうすればいいの?」

 走っても走っても、答えは見つからない。焦燥感だけが、アデルの心を蝕んでいく。

 やがて、疲れ果てたアデルは、大きなほこらに入り込んだ。冷たい風を遮断し、汗ばんだ肌を冷やしてくれる。今日だけは家に帰ることはできない。ここで眠ってしまいたい、もしも、寝付けるのならだが。

「お母さん、会いたい!真実が知りたい……」

 アデルは膝に顔を埋めた。樹木のざわめきだけが、彼女の嗚咽に応えていた。

 素数を数えて、鼓動を落ち着かせようとした。

 彼女の心に、新たな決意が生まれ始めていた。床を磨く毎日を変えるときが来たのかもしれない。

 やがて夜になり、焚火で暖ををとったアデルの瞳は折れてないなかった。オレンジ色に染まる彼女の瞳は強い意志を孕んでいた。

「神さま、わたしを試しているの?ふーん、それってとっても嫌なんだな!」

 アデルは思わず、首のロザリオを引きちぎり、投げつけた。少しだけ気持ちがすっとした。

 そんなアデルの様子を水晶玉より見たエレオノーラは、すでに悪魔界からの亡命を決意していた。

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