第5話 でも──楽しかった

 唯花ゆいかが見立ててくれた参考書を買い、ビル内にある喫茶店に入った。割高な喫茶店ではあったが、人も多くなく、ソファーはゆったりしていて座り心地がいい。注文のとき、どちらもほぼ同時に「アイスコーヒー」と言ったので思わず微笑み合った。


「塾は毎日?」

「うん。今日はたまたま二時までのスケジュールだったの。普段は四時までやってる」

「じゃあ、今日会えたのはラッキーだったんだ」

 ポロッと本音を言ってしまった暁斗あきとは、目を丸くしている唯花を見て

「ほら、参考書。自分では選べなかったから」と慌てて言い訳をする。

「ああ。そうね」

 唯花は納得した様子でグラスに入った水を飲んだ。


「黒木くんはどの教科が好きなの?」

 鈴の音のような声が響く。初めて名前を呼ばれた。自分の名前なのに、新鮮な響きに思える。頬が熱くなるのを隠すように暁斗も水を飲んだ。


「正直好きな教科って言えるものはないけど、わりと得意なのは政経だな。でも今回、古典ももう少し頑張りたいって、講習受けて思った。普段の授業よりも面白かった」

「そうなんだ」

「須田さんは?」


 運ばれてきたアイスコーヒーのグラスにストローを挿し、くるくると回す唯花の指先を暁斗は見ていた。カランと氷のぶつかる音が涼しげだ。


「古典は好き。今も昔も人間の感情って、そう変わってないなって思えるし」

「あれだけすらすら読めたら面白いだろうな」

 唯花は口元に笑みを浮かべながら暁斗の顔を見ている。が、焦点は合っていない。どこか遠く──見えない何かを見ているような──


「お母さんが古典の先生だったんだ。だから小さい頃からいろいろ聞かされて読まされていたの」

「へえ、先生だったんだ。今は辞めちゃったのか?」

 暁斗の言葉で唯花は我に返った。

 余計なことを言ってしまった。


「あ、うん。今は違う。今の話、此処だけにしておいて。お母さんが教師だったってあまり知られたくないんだ」

「ああ、もちろん言わない」

 そんな秘密にする内容でもない気はするが、唯花が慌てたように言ってきたので暁斗は素直に頷いた。


「須田さんは勉強以外だと、どんなことしてるの?」

 いろいろ聞きたい。いろいろ知りたい。そんな欲求が暁斗のなかに芽生えてくる。

「読書したり映画配信を観たりかな」

「オレも映画は好きだな。どんなジャンルを観る?」

「真琴と映画館に行くときはハリウッドのアクション系が多いけど、わりと何でも──サスペンスも好きだし──ホラーも好きだよ」


 そう答えた唯花からは挑戦的な表情が見えた。

 真琴と文弥の会話を知っているよ、とでも言いたいのだろうか。そして泉鏡花を真剣に読んでいることを知られた開き直りもあるのだろうか。


「そういうジャンルが好きなことは土屋さんには知られない方がいいな」と何食わぬ顔で答えると、唯花は面白そうに微笑んだ。

「黒木くんは? どんな映画を観るの?」

「オレもだいたい何でも観るけど、ハードボイルドものが好きだな」

「王道はゴッドファーザー?」

「あれは何度も観てる。渋い」

「音楽からして良いよね。そして心の葛藤が苦しい」


 講習の最終日、一緒に歩いたときの会話の無さが嘘のように、ぽんぽんとリズム良く話せる心地よさを暁斗は感じた。唯花となら、もっともっと親しくなりたい。そう思えてくる。


 いつの間にかアイスコーヒーのグラスは空になっていた。唯花が時計を見て

「そろそろ出ようか」と言ったので暁斗も頷く。それから伝票を持ち、財布を出す唯花を押し止めて支払いを済ませた。


「ちゃんと自分の分は出すよ」

「いや、オレが誘ったし、参考書選んでくれたお礼。まじ助かったから」

 そう言うと唯花は納得したように「ありがとう。ごちそうさま」と暁斗に頭を下げた。


「此処からはどうやって帰るんだ?」

「徒歩。十分くらいかな」

「へえ、便利なところに住んでるんだな」

「そうね。それじゃ」

「あ、須田さん」

 暁斗は唯花を呼び止める。

 小首を傾げる唯花に一歩近づき、スマホを見せた。

「連絡先、交換出来ない?」

「それは……」

 唯花が明らかに困った顔をした。


「これからも勉強のことを聞きたい。まじで頑張ろうって思い始めたんだ」

「……あまり頻繁に連絡されるのは好きじゃないの」

「しない。忙しいときはスルーしてくれていい」

「塾に行ってるときも、図書館にいるときも、勉強してるときも電源切ってるよ」

「それはもちろん。気にしない」

「──」


 唯花は暁斗から自分の鞄に視線を移すとスマホを取りだした。電話番号とSNSのアカウントを交換しながら

「黒木くんは……彼女いるの?」と聞いてきたので、暁斗は驚いて唯花の顔を見る。探るような目をしている。


「いない。彼女、居たことないんだ」

「嘘。信じられない」

「ホントだよ」

「モテそうなのに」

「それと彼女は別」

「ふぅん」

「須田さんは? 彼氏いるの?」

「いるわけないよ。誕生日はいつ?」

「オレ? 十一月十日。聞いたってことは須田さんも教えてくれるんだよね」

「──八月五日」

「え! 過ぎたばかりだったんだ」

「うん」

「おめでとう。ここでケーキもご馳走すれば良かった」

 暁斗が言うと、唯花は楽しそうに笑った。

「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくね」


 唯花はJRの改札まで見送ってくれた。改札をくぐった暁斗に

「気をつけて帰ってね」と声を掛けてくれたので、暁斗は軽く手を上げてホームに向かった。


 高山まで来て良かった。唯花に会ってこんなふうに過ごせて、連絡先まで知ること出来た。スマホを取りだし、試しに送りあったスタンプを眺める。


 唯花の送ってくれたスタンプの猫が「こんにちは」と言っている。猫好きなのかもしれない。それだけでニヤニヤしてしまう。本当はすぐにメッセージを送りたかったが、ぐっと堪えてやめておいた。繋がっていることだけで良しとしよう。


 彼女がいるか聞かれ、誕生日を聞かれ……あれはどういう意味なのだろう。興味を持ってくれているのだろうか。

 唯花に釣り合うような男になりたい。そのためには勉強も頑張らないとだ、と暁斗はスマホ画面を眺めながら決意した。



 同じ頃、家に帰った唯花はベッドに突っ伏していた。かなり失敗だったと今日の暁斗とのやりとりを思い出し落ち込んでいた。


 真琴に教えたくて暁斗のことをいろいろ聞いてしまった。あれでは自分が暁斗に興味があると思われても仕方ない。あんなふうに男子とたくさん話したのは中学二年以来だ。それ以降は壁を作ってきた。それが仇になって男子との気軽な会話が出来なくなっているのかもしれない。


 どうしよう。連絡先まで交換しちゃって。このことは真琴には絶対知られたくない。どうして暁斗に電話番号もアカウントも教えてしまったんだろう……

 ごろんと仰向けになる。


 でも──楽しかった。


 暁斗との会話は素直に楽しかった。久しぶりに本当の笑顔を他人に見せた気がする。

 だからあんなこと……ポロッと言ってしまった。お母さんが古典の先生だったって……


 部屋のドアがノックされた。

「唯ちゃん、夕御飯出来たよ」

「はい。行きます」

 唯花の顔がめんのようになり、表情が消えた。無造作にスマホをベッドに転がすと部屋を出た。

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