第3話 書きかけの小説
お見舞いも済み、息子さんと一緒に病室を出る形になってしまった。
今は午前11時過ぎ。会社に一旦戻って、洗濯は帰ってからやればいいのだろうか?
それとも、これも仕事の一環としてコインランドリーなどで早くやるべきだろうか?
そう考えていると、息子さんから声を掛けられた。
「真宮さん」
「はい。えっと……」
安浦さん……でいいのだろうか?
そういえば、息子さんの名前をまだ聞いていなかった。
「あ、自己紹介がまだでしたね。僕は、
そう言って、名刺を差し出してきた。
『株式会社マーベラス・メイクベリー 営業部部長 安浦桐人』と書かれていた。
マーベラス・メイクベリー!?
大手の玩具メーカーで、穂鷹出版から出ている書籍のキャラクターグッズなども手掛けている企業だ。
「マクベリ」の愛称で広く知られている。
「こ、これは、お世話になっております……!!」
「そんな畏まらなくても大丈夫です。お世話になるのはこちらの方ですから」
安浦さんは、整った顔で上品に笑った。
これがマクベリの営業スマイル……。
きっと世の中の女性の大半は、この笑顔にうっとりするに違いない。
「そうそう、先ほど言いかけたことなんですが、父は柔軟剤にこだわっていましてね。困ったことに、その辺りの店では売っていない物なんです。なので……」
数十分後、私は安浦家に来ていた。
大きなお屋敷……。さすが大御所作家。
モコモコのスリッパを履いて、私は安浦さんに案内されるがままついて行く。
到着した場所は、安浦家の
「すみません、いつも家政婦さんにお願いしっぱなしで……。洗濯室はここなのですが、洗剤は……あ、あったあった」
安浦さんは、そう言いながら棚から洗濯用洗剤と、柔軟剤を出してくる。
それから、洗濯ネットや洗濯バサミ、ハンガーの場所も教えてくれた。
とてもスッキリと整理整頓されている。
きっと、家政婦の杉田さんという方がきちんとしているのだろう。
「僕が週末にまとめてできればいいんですけど、何せ偏屈者の父ですから……。申し訳ありませんが、毎日お願いします」
「はい。じゃあ、安浦さんのも一緒にやりますよ」
「えっ? いや、さすがに僕のは……」
安浦さんは、驚いて手を振った。
ちょっと差し出がましかっただろうか?
「でも、一人分なんて水道代も電気代ももったいないです! 遠慮しないでください」
「……わかりました。じゃあ、お言葉に甘えます。それと……僕のことは、桐人と呼んでください。父と同じ苗字呼びではややこしいでしょう?」
「はい。じゃあ、桐人さんで」
裕貴以外の男性を名前で呼ぶなんて、初めてだった。
「では、合鍵を渡しておきます」
「あ、合鍵!?」
桐人さんは、カードキーを差し出してきた。
そういえば、さっき和風の家なのにカードキーだって驚いてたところだった。
「はい。僕はいつも仕事で遅くなるので……。真宮さんの都合のいい時にいつでも来てください。父の書斎には入らないように。洗濯室とキッチンは自由に使ってください」
桐人さんが洗濯室にある引き戸を開けると、キッチンに続いていた。
「じゃあ、僕はまだ仕事があるので、会社に戻りますね。よろしくお願いします」
「は、はい。任せてください!」
背筋を伸ばして返事をした。
桐人さんが出て行った後、私はキョロキョロと辺りを見回す。
洗濯室だけでどれだけの広さがあるの!? 室内物干場があって、乾いたものを畳んでしまえる棚が天井近くまである。棚の横には立ったままできるアイロン台まで……。さすが、大御所作家は違うわ……。
先ほど開けた引き戸を覗くと、キッチンも広かった。
さて、まずは洗濯をしないと。
柔軟剤にこだわっていると言っていただけあって、見たことのないメーカーのものだ。
それに、とてもいい香り。
安浦先生の洗濯物を丁寧にネットにしまって、洗濯機へ入れる。
今日は桐人さんの洗濯物はないようなので、洗剤を入れてスタートのスイッチを押した。
洗濯が終わるまで、あと40分も時間が空いてしまう。
とりあえず、裕貴にスマホメッセージで事情を説明して……。
『お疲れ様です。安浦先生の家政婦さんが、長期休暇らしく、私が毎日洗濯をすることになりました。今日は、先生の家で洗濯をしてから会社に戻ります。明日からは、退社後にお見舞いして洗濯するようにします』
……と、こんなものかな。
送信ボタンをタップすると、数分後に返事が来た。
『お疲れ。退社後に病院と安浦先生の家を往復してたんじゃ、帰りが遅くなるだろ? 俺も外回りが多いし、おまえが暇だろうから、見舞いと洗濯は外回り扱いで、昼間にしててくれていいよ!』
……暇!? 手が空いた時は、編集部のお手伝いもしてるんですけど!?
なんだか、ちょっと癪に触る言い方だけど、一応気を遣ってくれているってことでいいのよね?
手持ち無沙汰になってしまった。
お掃除……は、する必要もないくらい綺麗だ。
「……そうだ」
私は、ダイニングテーブルにノートパソコンを置く。
「これ……。続き書いてみようかな……」
社会人になってから、ずっと放置してあった、書きかけの小説。
安浦先生にお会いしたら、なんだか久しぶりに書きたくなった。
洗濯が終わるまで、あと35分。
私は、集中して文字を入力し始めた。
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