第10話

 ログハウスを出たのは、午後九時を回ったところ。


 空は、ネズミ色に染め上げられ、星のキラメキも満月の輝きもすべてが覆い隠されていた。


 雨が降りそうだったので、僕は祖父の雨合羽あまがっぱを借りることにした。あとは殴ったら痛そうな懐中電灯、スマホ、飲み物は……まあいいか。


 ポケットをパンパンにして、僕は夜の闇へと飛びだす。


 外は不気味なほど静かだった。昨夜は、変な人がこっちを見ていたけれども、虫の鳴き声はライブみたいに騒がしかった。


 でも、今日は違う。虫の音は一切しない。ただ、吹きつける強い風に揺られて、草木がざわざわとこすれ合う音しかしなかった。


 そんな中を歩いていくのは、かなり心細い。


 のっぺりとした闇が、どこまでもどこまでも伸びている。点々と存在する、薄汚れた蛍光灯の明かりが、むしろ恐怖を色濃いものにしているようである。


 道なりに進んでいくと、目が闇に慣れてくる。


 進行方向に、人影が見えた。思わず、畑に飛び降りて、様子を窺う。


 距離にして、百メートルくらいだろうか。パチパチと明滅する街灯の向こうに、二人の人影が立っている。別段、変わったところはない。闇の中で目が光っているわけでもなければ、白いイモムシのようにぶよぶよとした肉体を引きずっているというわけでもない。


 どちらかといえば、それは警察官のように思われた。お祭りの際に、交通整理を行う人たちだ。


 だが、道はガラガラ。祭りだって行われていない。びゅうと風は吹き、畑に生い茂る名もなき草が揺れるばかり。


 あいつらは見張りなのか。


 見つかったらマズイ気がした。畑の草をかき分け、迂回うかいするように僕は先へと進んでいく。


 闇が僕の姿を、強風が足音を隠してくれたおかげか、人影に気づかれることなく先に進むことができた。


 十分離れたところで、僕は道へ戻る。


 何か尋常ではないことが起きはじめている。それをひしひし感じながらも、予感に急かされるように僕は先へと進む。






 昼間見たあの場所へ向かうのは、港を経由した方が早いのは分かっていた。だが、先ほどの検問じみたものを見てだと、そんなことはとてもじゃないが無理そうだ。


 だから、僕は島の左側を目指して進むことにした。それから、海岸線沿いに行くなり戻るなりすれば、たどり着けるのではないか。


 道は、島中を迷路のように伸びている。昔の道、一度目の開発で造られた道、再開発によってできたばかりの道……。


 ところで僕は、方向音痴といわないまでも、方向感覚に優れているわけではない。しかも、周囲はまったくの闇だし、時折現れる人影から逃げるように移動しているものだから、どこがどこかわからなくなりそうになる。


 だが、目指す先は一目瞭然。空がオレンジに光っている方だ。


 誘蛾灯に誘われる蛾のように、光を目指していれば、見張りの数が徐々に増えていく。その度に、森に入ったり、雑草の上を匍匐ほふく前進したりしてなんとかかいくぐっていく。


 おじいちゃんの雨合羽には感謝してもしきれない。丈夫で、地面をっても意外と破れなかった。


 そのうち、いそ臭さが漂っていることに気がついた。


 道なき道をただやみくもに歩いていたが、ふいに視界が開ける。


 そこに広がっていたのは、午前中にやってきたあの牧草地であった。ウシの姿はなかったが、闇の中でもその存在感をなくしていない崖はまさしく同じもの。


 前方に広がる、隠れる場所の少ない平原に目を向ける。幸いなことに、人の姿はなかった。


 そろりと、木の陰から飛び出す。


 びゅうと強い風が、吹きつける。ジトッとした粘っこい水気を含んだ風が、僕の体を強く打つ。進行方向へ――夜の闇を明るくしている不知火へと近づけんと、神様が扇を仰いでいるかのようだった。


 それでもなんとか、先へと進んでいけば、ぷんと魚臭さが増した。それと同時に、ほのかに鉄錆てつさびの臭いもした。ミックスされた悪臭に、生理的嫌悪を抱かずにはいられない。


 光が大きく、強くなるごとに脚がすくんだ。


 湧き上がってくる恐怖が、僕の心を萎えさせてくる。でも、どういうわけか、脚は僕の心を無視して先へと進もうとした。


 それは、僕がアイツらと同等のもののせいか。


 この身に宿る、不可思議な力のせいか。


 どちらにせよ、大いなる存在の意志によって、僕はそれを目の当たりにすることとなった。






 確かに、それは不知火といえなくもなかった。


 闇の中でぼんやりと点る光は、火の玉のようにゆらゆらと、ある一定の場所をつかずはなれず彷徨さまよっていた。


 波しぶきの上がる岩礁でのことということもあって、それは不知火――ではなく、その正体である漁火いさりびだと思われた。


 それは松明で――そこには松明をもって踊り狂う人影がいくつも見えた。


 人影――目が光に慣れてくるにつれ、ヒトの体をしているようで、一般的な形から逸脱した姿を僕は目にした。


 それは、一言でいえば、魚人なのだろう。


 ぬめぬめとした表皮、水の抵抗のなさそうな皮膚、松明を掴む手には水かきがあり、背にはカサゴのような鋭利なヒレが伸びている。黒々とした体は、恐らくは海の闇に紛れるための迷彩のような働きをしているに違いない。


 いや何よりも恐ろしいのは、その目だろう。島民に共通するその瞳は、確かにサファイアのように美しかった。だが、今はどうだろう。ぎょろりと突き出した目は、汚らわしさとおぞましさを感じた。


 それが、ギョロギョロと動く。興奮したように。


 その奇怪で口にも憚られるような踊りは、あの環状列石の周りで行われていた。


 揺らめく炎に照らされた中心には、裸の男性が横たわっている。


 誰かは、僕のところからは分からなかった。だが、ピクリとも動かない。


 ――死んでいるのではないか。


 僕は心配になってきた。まるで、彼らがここにはいない神様に向かって生贄を捧げているのではないかと思われた。


 だが、幸いなことに、その人間は身じろぎし、起き上がる。


 ホッとした瞬間――その人間の体が変態をはじめた。


 だらりと伸びた腕がビクンと痙攣けいれんする。そのたびにヒレのようなものが生えてくる。 同時に、細い指に小さいながらも水かきができた。


 それはさながら、セミが脱皮するかのように。


 目は、眼窩がんかより飛び出し、周囲の同胞たちをギョロギョロ向く。そして、ヒトだったころの「皮」を飛びだし、変容は終わりを迎えた。


 ヒトが、ヒトならざる存在に変容したのだ。


 僕は信じられず、一歩後じさりした。


 パキリ。


 踏みしめた木の枝が、爆発音のように響いた。


 踊っていた人外が、ストップモーションさながら動きを止める。


 開ききった瞳孔がいっせいに僕を見た。


 そのボラのように突き出した口から放たれたのは、ヒトの言語とは思えない――しかし、意味の理解できる――声であった。


 それをきっかけとして、周囲から似たような声が上がる。森の向こうでライトが灯る。せまってくる人々の気配。


 いや、ひときわ異彩を放つのは、昼間に聞いた、風変わりな鳥の鳴き声がしたことだろう。その高音は、輪唱のように何度も何度もくりかえされる。


 まるで、赤子が大人の声を真似るかのような反復する音ともに現れたのは、ウシほどの大きさをした丸い影。それはウシガエルを大きくしたような姿をしていたが、手と思しき場所には、ネプチューンが手にしているようなもりを手にしていた。


 次の瞬間には、僕は駆け出していた。その異形は明らかにヒトではなかった。見たこともない――例えるなら黒いスライム。


 それが放った銛が、かすめていった。


 走りだしてなかったら、突き刺さっていたかも。


 恐怖がこみあげ、僕はわけもわからず、走った。






 背後から、怒声が飛んでくる。


 銃声が鳴る、横の枝が弾けとぶ。


 僕はただひたすらに走る。


 前方には人が待ち構えているが、道を横にそれる。森の中の木々を縫うように。


 ただひたすらに走った。


 背後では、おぞましい鳥の鳴き声がかすかに聞こえてくる。


 誘導されている。


 アドレナリンでいっぱいの頭にそんなことがよぎった。視線をわずかに動かせば、人工的な光――港の光の方に追っ手は待ち構えていた。


 山の方へと追い込み、僕の疲れを狙っているのか――。


 ――いや違う。猟犬のごとく追跡してくるあの化け物を、目撃させないためだ。


 意地でも港の方へ向かうべきか。


 前方のマツに銃弾がぶつかり、火花を散らした。


 銃を持っているのに強行突破なんてできるわけがない。僕は誘導されるがままになるほかなかった。


 いよいよ、森がうっそうとしはじめる。


 乱立する木々の間を縫うように、斜面を横切っていく。


 心臓はバクバクと跳ね、足はもうパンパンだ。おまけに、雨が降り出した。合羽はいつの間にかどこかへ行ってしまって、しとしとと服が濡れていく。


「あ――」


 ぬかるみ始めた地面に足を取られる。疲れたからだはバランスをとれず、勢いのままに斜面を転がりおちて、頭をガンっとぶつけた。


 瞬間、意識が途切れた。

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