第7話

 滝のような汗とともに目覚めた。


 夢が急速に色彩を失っていく。だが、理性をかき乱す恐怖は、頭の中にこびりついて離れなかった。


 体を起こし、周囲を見回す。


 飾り気にとぼしい寝室には、僕以外に誰もいない。――どうして誰かがいるかもしれないだなんて思ったのだろう。


 視られていると考えたのだろう。


 僕はベッドから降りて、窓へと近づいていく。いつも家でやっているように、そこから外の景色でも眺めようかと思ったのは、ルーティンに近い。


 工事現場の音だって遮断できそうなほどに分厚いカーテンを開ける。


 ホコリっぽい窓から月光が差してきた。


 空を見上げれば、ほぼほぼ円といった満月が、我が物顔でたゆたっている。星のキラメキは、ほとんどない。


 地上へと視線を下す。


 前方には森、左側へと目を向ければ、うら寂れた畑がある。むかしは米か麦でも育てていたのかもしれないが、今は雑草だらけ。鈴虫の鳴き声が昨夜は聞こえてきた気がする。


 だが、今はどうだ。


 森は、畑は、不気味なほど静まりかえっている。何かよくないものが島を徘徊しており、そいつに見つからないように、ありとあらゆる動植物が息をひそめているかのようだ。


「ん……?」


 視界をさまよわせていれば、荒れ地に人影があった。その顔は、逆光になっており、距離もあってかよく見えない。


 それなのに、そいつがこっちを――僕のことを見ているのが、わかる。


 暗闇におおわれた顔で、こっちを監視しているのだ、と。


 僕は、カーテンを閉じた。


 月の光は遮断され、闇が、部屋の中へと滑りこんでくる。本来闇の中の方が怖いものだけども、今だけは――あいつに見つめられ続けているよりかはマシだ。






 翌朝。


 その日は何とか七時に起きたものの、目覚めは最悪だった。


 昨日の夢か幻かもわからないようなもののせいだった。あの後ぜんぜん眠れなかったのだ。


 寝不足特有の熱っぽさを感じながら、買っておいた缶コーヒーを、あんパンとともに胃の中へと流し込む。


「よし」


 今日はやりたいことがあった。真子さんがやってくるよりもはやく、街へと繰りだして、島のことを見て回りたかった。


 真子さんがいると、妙に落ち着かない。僕もだけれども、応対する人たちがどことなく緊張しているように思えてならなかった。


 真子さんが愛弓さんの娘だと知っているからに違いない。権力者の子どもがやってきただけで、震えるだろうか。


 何か、権力だけではない、なにかを感じた。


「本当なら、深入りしない方がいいんだろうけど」


 ここ数か月のことで、僕の頭のリミッターというやつは、バカになっていた。


 ようするに、自分とは関係のないことに――それも両親や祖父によって丁寧に隠されていた問題に――首を突っこもうとしていた。






 坂を上り、曲がりくねった道を下りていく。草木は朝露で濡れており、遠くの空はもやで白白していた。


 ひんやりとしていた空気を歩いている間、幸いなことに車にも人にも出会わなかった。


 街は、午前8時にしては活気づいているように見えた。港の隣には、それほど大きくはないが賑わっている漁港があり、そこではセリが行われているようである。


 漁港組合の建物から、軽トラが出てくる。荷台には、発泡スチロールの山。僕の隣を通り過ぎて、フェリーの方へと走っていく。魚くさかった。


 僕は行くあてもなく、ぶらぶらする。深海食堂は、朝早くというのに、客でごった返している。のぼりには、モーニングセット400円とある。とれたての魚が朝から食べられるとあって、観光客以外の姿もちらほら。


 港を横目に見るような形で歩いていけば、歩道に座り、絵筆をうごかしている人の姿があった。


「ん?」


 気になったのは、その垢ぬけた都会人っぽい服装ではない。彼が放心状態で描きつづけている絵である。


 彼は海に背を向けて、港の建物とそのバックに佇む有久岳をカンバスに落とし込んでいるらしかった。


 だが、そこには山はない。近代的な鉄筋コンクリートもない。


 海に沈む都市が描かれていた。


 紺碧こんぺきの闇にぼんやりと浮かぶ白亜の都市。そこを泳ぐのは、いるかでも人魚でもセイレーンでもない。それを形容するとしたら、えらをつけたヒトということになるか。だが、そのような動物を、僕は見たことも聞いたこともなかった。


 いや、何よりも異彩を放っているのは、彼方にかすかに見える黒い影だろう。影――タコのような触手をうねらせる、鳥肌が立つような奇怪な軟体生物。大きさは明らかに建物と同等かそれ以上。そのような巨大生物が仮に存在しているとしたら、人類はひとたまりもない――。


 そこまで考えて、僕はハッと我に返った。


 吸い込まれるように見ていたのは、つかの間のこと。


 だが、額をぬぐえば、今朝と同じようにびっしりと汗が浮かんでいた。


 なにか惹かれるものがあって、僕は、その画家に声をかけた。


「あの……」


 返事はない。彼の視線は、ただカンバスの上の絵にしか向けられていない。


 その瞳は、遠いどこかを――今まさに描いているものがある、海の奥底を見ているかのようで。


 僕は、画家が絵筆をパレットへと動かしたタイミングで、その肩を揺さぶった。


 パッと、脱力した手から絵筆がこぼれ落ちる。


 瞬間、弛緩していた画家の体がビクンと痙攣けいれんする。次に、大きくせき込んだかと思えば、トントントンと心臓を叩いて。


「み、水……っ!」


 僕は自販機まで駆けてって、水を買ってきて、手渡す。彼はゴクゴクと一息に半分ほど飲み干した。相当喉が渇いていたらしい。


「ぷはっ。ううっ死ぬかと思った。ありがとう」


「いえ……あのお聞きしたいことが」


「なにかな」


「その絵のことなんですけど」


 僕はカンバスの、狂気さえ感じられる絵を指さす。それを認識した途端、画家は飛びあがった。


 その拍子に、カンバスが倒れた。






「こんな気持ち悪い絵をかくつもりはなかったんだけどなあ」


 と、あの画家は言っていた。


 助けてもらったお礼にと、僕はデッサンを見せてもらった。スケッチブックに描かれた絵は、どれも牧歌的で素朴な街並みを描いている。すくなくとも、おどろおどろしい海中都市を描くような人にも見えない。


 ――最近変な夢ばっかり見るんだ。


 とも彼は言っていた。


 その夢と、僕が今朝見た悪夢と同じかはわからない。ただ、妙な因果を感じずにはいられなかった。


 時刻は九時になった。今日は平日である。島民も仕事に出かけ、漁港の祭りのような賑わいもひと段落。


 あたりは静かだ。往来にも人の姿はない。


 画家と離れて少しすると、観光客のためと思われる看板が見えてきた。巨大な地図には、昨日、真子さんに案内してもらった場所もあれば、まだ見ぬ場所も多々ある。


 そのなだらかなオーストラリアみたいな形を見ていると、右側に名所が集まっていることに気がついた。左にもないわけじゃない。灯台とかアコウの群生地とか。


 でも明らかに少なかった。


「あっちに行ってみよう」


 僕は島の左側へと行ってみることに決めた。そういえば、昨日案内してもらっていない。


 もしかすると、真子しんこさんはあえて、僕を案内しなかったのか。


「でもどうして」


 わからない。わからないから、とにかく行ってみることにした。

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