第3話

 目を覚ましたのは、午後一時を回ったころ。


 スマホがブルブル震えている。見れば、真子しんこさんから電話がかかってきていた。バイブレーションの音で、目覚めたらしかった。


 重くて熱っぽい体を起こして、スマホを手に取る。


「はい……」


「もしもし真子ですが。昼食をと思い、ご連絡いたしました」


「あーうん」


「もしかして、眠られていたのですか。そういえば醍醐丸だいごまるでいらしたのですものね」


 それは真子さんだって似たようなものだろう――早朝にやってきた僕のことを出迎えていたのだから、夜はろくに眠っていないはず。


 だというのに、フラットな言葉には、いささかの疲れも眠気も感じられない。徹夜に慣れているのだろうか、いやそれにしたって変わらなすぎではないだろうか。


「――どうかしましたか」


「いや、ちょっと待ってください。着替えます」


「では、三十分後にそちらへ伺います」






 顔を洗ったりシャワーを浴びたりしているうちに、三十分はあっという間に過ぎていった。


 車のエンジン音が、勝鬨かちどきのように聞こえてきて、僕は慌ててジーパンを履く。


 玄関に出れば、ちょうど真子しんこさんがやってきたところだった。


 昨日と同じで、黒のスーツ。いや、ネクタイの色が、黒からネイビーに変わっている。もっといえば、丸いサングラスをつけており、その姿はホテルマンというよりMIBの職員だ。


「ニューラライザーでも持ってそうですね」


「そうしたら、貴方の記憶を消します」


「それでどうするつもりですか」


 真子さんが笑った。ヒトそっくりのアンドロイドが笑いかけてきたときみたいな、背筋が凍り付くような不気味な笑みだった。


「冗談です」


「ははは……」


 冗談のようには聞こえなかった。


 それよりも、と真子さんは言う。


「昼食は食べられましたか」


「まだですけど」


「準備はしていますか。おそらくですが、右京さんは食材を残してはいないでしょう」


「……どうしてそんなことがアナタにわかるのですか」


 ――もしかして、また「お告げ」か。


 そう思っていたら、


「いえ、したに買い物にいらっしゃる姿をよく目撃したものですから。カップ麺などを周期的に購入されていました」


「冷蔵庫に食べ物なかったのはそういう……」


 亡くなった人の冷蔵を開けるというのは、罪悪感がないわけじゃなかったけれども、生肉とかあったら大変だと思って確認したのだ。


 生肉はなかった。そもそも食べ物がなかった。


 あったのは、ビールとエナドリだけ。それだけで、腰ほどの大きさの冷蔵庫は埋め尽くされていた。


「でも、カップ麺もなかったんですけど」


「周期的に言って、もうそろそろでなくなるころだと思いました」


「だから、電話してきたってことですか」


 真子さんがコクリと頷いた。


 ……なにが怖いって、個人の買い物の周期を把握しているということが怖い。いくら、広くはない島の中だからって、そこまで見ているものだろうか。


 この屋敷を、おじいちゃんをとり囲む監視の目を想像すると、寒気がしてきた。


 だが、お腹も空いている。


「いかがしますか」


「おいしいお店を教えてもらえるなら」


 もちろんです、と真子さんは無感情に言った。






 車がすべりこんだのは、まだ、アスファルトの臭いが立ち込める駐車場。


「ここは」


「定食屋です」


 車を降りて、周囲を見回す。


 駐車場の隣には、建ったばかりらしい建物。クジラのかたちの看板には、深海食堂、と書かれている。


 建物の向こう、道路を挟んですぐはもう海。斜めに傾きつつある太陽を浴びて、キラキラと魚の鱗のように輝いている。その海の上をウミネコが優雅に飛んでいる……。


 時の流れがゆっくりに感じられるような、のどかな風景に、僕は思わず立ち止まって、眺めていた。


「いかがしましたか」


 氷のような問いかけに、僕は我を返った。


 真子さんはすでに深海食堂の軒先に立っており、扉を開けようとしていた。僕はその後を慌てて追う。






 メニューは「深海」というだけあって、海鮮料理が豊富だった。


 あと、値段が高い。


 安いのはないかと、目を皿のようにして、メニューを見ていたら。


「ここは私がおごりますので」


「えっ、それはなんていうか申し訳ないです」


「お気になさらず。お母様からは、色々と便宜を図りなさい、と言われていますので」


 どうして、と聞こうとした矢先、店員さんがやってきた。


 真子さんは、サバの塩焼き定食を頼んだ。


 僕は迷いに迷って、天丼にする。




「何からなにまでしてくれるのは、どうしてなんです」


 そう僕が訊ねたのは、深海食堂の海産物に舌鼓を打った後のこと。


 食事を終えたが車に乗り込んだところで、どこか行きたいところはありませんか、と真子しんこさんが聞いてきたからだった。


 フロントミラー越しの真子さんは、表情をまったく変えず。


「そう命じられたからです」


「それは、真子さんのお母さんに……?」


「はい。遠くから来られたでしょうし、ご家族もいないということで」


 それはそうだった。僕の母はいないし、おじいちゃんもいないとなれば、僕が知っている人間は誰もいないってことになる。


 頼れる人は、この有久島にはいない。


「高校生で一人暮らしと聞いています。フェリー代も高騰していますし大変でしょう。だから、こうして、私は貴方とともに行動しているのです」


「……なるほど」


 理解はできた。だが――。


 首元がチリチリするのが、妙に気持ち悪い。誰かに見はられているような気がしてならなかった。


 真子さんの切れ長の目は、まったく動くことがない。ただ、一点だけを変わらずに見つめ続けている。海の向こうにあるという極楽浄土が、彼女には見えているかのようで。


「……島を案内してもらえますか」


「というと」


「島のこと、何も知らないので」






 有久島ありひさじまについて、僕が知っていること。


 近嶋このしま列島の最上部に位置する島であり、母が生まれ育った場所であり、おじいちゃんが住んでいる島というくらい。何も知らないといっても過言ではなかった。


 どうして、島のことを知ろうと思ったのか。自分でもわからない。


 タダの暇つぶし、あるいは、ちょっと近寄りがたい雰囲気を身にまとった真子さんから少しでも逃げたかったのか。


 車は走りだし、港の端の方に位置する建物の前で止まった。


「こちらが郷土資料館です」


 その建物は、古めかしい木造建築であった。港の正面に位置する、鉄筋コンクリート造りのものとくらべると、いささかボロボロに見える。雨に濡れたからなのか、黒ずんだ壁はどことなく陰気な空気を漂わせていた。


 人の姿はなく、閑散としている。屋根にとまったウミネコが閑古鳥のように鳴いているのが、よく聞こえた。


 ホントに資料館なのだろうか。どちらかといえば、死霊の館って感じだった。


 そんなことを不思議に思っているうちに、真子さんは車を降りて、資料館へと向かっていく。僕は慌ててその後を追いかける。


 融けかけたチョコレートのような扉を押し開けると、古本屋のバックグラウンドを彷彿ほうふつさせる、古書特有の臭いがむわんとただよってきた。


 中に入ってすぐのところには、アンティーク調の(あるいは単に古ぼけた)ランプが置かれた受付がある。そこには年配の男性が座って、小さなテレビをじっと見つめていた。僕らがやってきたことにも気がついてない。


 コホン。


 空気も動いていないような静寂の中で、真子しんこさんの咳払いが雷のように轟いた。


 受付向こうの男性は、ハッと顔を上げ、その細い目が大きく見開いた。


 客が来た、ということに驚いているのではない。ほかでもないスーツ姿の真子さんがやってきたことに驚いているみたいだった。


「い、いらっしゃいませ」


 その声は明らかに震えていた。だが真子さんはそれほど気にしていないようで、大人一人、とお金を差し出す。代わりに、チケットがやってくる。


 真子さんが差しだしてきたそれを、頭を下げて受け取った。


「真子さんは……?」


「ワタシは外で待っていますので」


 と言って、真子さんは扉を押し開けてさっさと外に出てしまった。


 ずしんと扉が閉まり、沈黙が訪れる。


 受け取ったチケットには、奇妙な魚の像の写真が印刷されていて、はなはだ不気味だった。

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