十一話


 夏の馬車は暑い。今まで以上の苦行を強いられているヴィルヘルムは、この世の終わりのような顔で虚空を見つめている。


 一方、隣に腰掛けるヴィオラは、夏を迎えすっかり薄着になった上に白いシャツの襟元をときどき緩めるような動きを見せる男の謎の色香にすっかり当てられ、くらくらしていた。しかし淑女たる彼女の矜持きょうじをもって、なんとか素面しらふを貫いている。


 いつもならヴィオラからの誘いで出掛けることだ多いのだが、今日は珍しく、ヴィルヘルムの方から彼女を誘った。

 

 というのも、ここからいくらか離れたミグラスという名の市街――文明崩壊後もこの地域は辛うじて市街として保持されていた――で行われる夏祭りに出展する市に、魔王出現以前の文明時代の書物が出回るというので、それを求めてのことだった。


 千年を渡る方法の考案に行き詰まっていたヴィルヘルムは、とにかく情報を欲していた。


 魔術に関わる情報であればそれが一番いいが、あいにく文明時代には魔術が存在しない。なので直接利用できるわけではないが、少しでも参考にできそうな情報は多い方がいいということで、文明期の書物をこの機会に手に取ってみようと思ったのである。


 祝福の村にて巫女みこが神託を受け、神々によって魔術が人々にもたらされて五十年程度しか経っていない。だがそれ以前にも神々への信仰はあり、彼らは確かに存在するとされていた。

 伝承の中には神々の起こした不思議な奇跡をつづったものもあるという。ヴィルヘルムはその「奇跡」に一縷いちるの望みを賭けてみようと、そう考えたのであった。


 だが、ヴィルヘルムは市街の地理に明るくない。しかも祭りというにぎやかな場所に顔を出すのも久しぶりすぎるほどに久しぶりである。ほぼ引きこもり状態の人間が人混みに単身放り出されてはどうなってしまうかわからない。

 とても一人では行かれないということで、ヴィオラに泣きついた結果、今日の外出の予定が組まれたというわけだ。


 うだる暑さと閉塞感に朦朧もうろうとしながら、ヴィルヘルムは横の淑女を見やった。疲弊ひへいする男とは裏腹に、彼女は涼しい顔で窓の外を眺めている。


 「――暑くないの?」


 (あっっっっっっついに決まっているでしょう!!)


 無自覚に自分を誘惑するかのような――否、暑さに思考が混濁こんだくしつつあるヴィオラにはそう思えるというだけのことである――男の仕草に淑女の意地で耐えていたヴィオラは今にもそう叫び出しそうであったが、無表情に彼を振り返ると、ふん、と鼻をならしてみせた。


 「心頭滅却ですわ」


 「暑いんじゃないか」


 それにしても今日は異様なまでに気温が高い。――このままこの密閉空間にいたら今朝方ふざけて擬態ぎたいしていた焼売に、本当になってしまいそうだ。そう思ったヴィルヘルムは不意に身を起こして、馭者ぎょしゃに声をかけた。


 「ごめん、先に行くね」


 突然何を言い出すのかとヴィオラが目を見開いた瞬間、彼女の腰元に男の腕が回り、ぐっと引き寄せられる。女が、あ、と小さく悲鳴を上げる間に、賢者は軽く指を鳴らした。

 すると、たちまちヴィオラの視界が歪み、身体を何かがうような不気味な感覚に襲われる。不快感にきつく目をつむった次の瞬間、すとん、と地面に足をつく感触が伝わってきた。


 「うん、やっぱり転移魔術は便利だね。気持ち悪いけど」


 ヴィルヘルムの言葉を耳にして瞬時に事態を把握したヴィオラは、自身にぴったりと密着した想い人の気配にとうとう気が狂いそうだった。焦って彼を見ても、こちらの気も知らないでにこにこしている。離してくれ、と言おうにも、あまりの状況に声が出せない。


 顔を真っ赤にして金魚のように口をぱくぱくさせている淑女の様子を目にすると、ヴィルヘルムは何を思ったか、その凶器のような美貌を彼女の顔に近づけて、茹で蛸のように色づいた額に手を当てた。


 「わ、ヴィオラ大丈夫? 熱気に当てられた? それとも酔っちゃった?」


 (貴方にね――!!)


 錯乱のあまりヴィオラは心の中でそう叫ぶと、もはや精神がもたず、気を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る